坂本義和
      【ブログ掲載:2017年12月8日~12月22日】


坂本義和の『人間と国家』(2011年)という本を読んだ。岩波新書で上下巻2冊、国際政治学の東大教授だった坂本義和の回想録である。けっこう読みやすい本だったが、それは「自伝」というジャンルだからということよりも、坂本が助手を相手にしゃべった記録をベースにして作られた、という事情に因るところが大きいようだ。

 坂本の父母はともに米国への留学生で、米国で知り合い結婚したこと、(坂本は1927年、ロスアンゼルス生まれである)、それから父は東亜同文書院の教授として上海で日中両国の学生の教育にあたり、家には中国人、欧米人が始終出入りするという環境だったことが、初めに語られる。やがて第一次上海事変が起こり、幼児の坂本は、病院で顎を失った負傷兵の姿にショックを受け、また日本人に向けられた中国人民衆の敵意に衝撃を受ける。1936年に坂本一家は日本に引き揚げ、鎌倉、それから石神井に住む。
 戦中戦後の一高時代の生活や、東大法学部で丸山眞男や岡義武の指導を受け、研究奨学生として研究者の途に入ったこと、エドマンド・バークについての論文を書いて東大の助教授に採用されたことが語られるが、格別興味を引くような出来事はない。秀才が良き師友に恵まれ、研究者としての人生を順調に開始したということである。
 1955年にフルブライト奨学金を得てシカゴ大学に留学し、ハンス・モーゲンソーの指導を受け、また、同じ教室に留学していた女性と結婚する。翌年はプリンストン大学で1年間過ごし、ヨーロッパから中東を回って57年末に帰国した。
 スエズ運河を船で通過したのは、エジプトが運河の国有化を宣言し、侵攻した英・仏・イスラエル軍との戦争に政治的に勝利した1年後だった。古い銃を持ったエジプトの兵士が、「この銃でイギリスの戦闘機を撃った。お前たちがロシアに勝ったんだから、おれたちもやるぞ」と言うのを聞いて、反植民地主義の盛り上がりを坂本は痛感した。
 日露戦争での日本の勝利を讃える話は、その後もアフリカやインドなどで何度も耳にする。坂本が、「アジア人が白人の国に勝ったことを、植民地主義反対という観点から評価するのは分かるけれど、あの戦争は同時に朝鮮というアジアの国を植民地化したのだ」と言うと、「そんなことあったの?」という反応で、「複雑な気持ちになりました」と坂本は書いている。

1959年、坂本義和は「世界」8月号に「中立日本の防衛構想」を発表した。彼がジャーナリズムに発表した最初の論文であるとともに、彼の代表作というべきものである。当時の革新勢力が「非武装中立」を大義として掲げ、政府の政策に反対するものの、具体的にどうしたらよいかという問いに答える構想を欠いていることが、坂本には不満だったからである。
 坂本は『原爆の子』(長田新 1951年)を読み、被爆地の凄惨な写真を初めて公表した「アサヒグラフ」(5286日号)を見て、「主権国家の終わりが始まった」と感じていた。なぜなら主権国家は、関係が行き詰ったとき、戦争によって問題を解決することを常道としてきたのだが、原爆という手段は「問題の解決」という目的を、無意味なものにしてしまうからである。
 1954年にビキニ水爆実験による「第五福竜丸事件」が起こり、核実験反対の運動が全国に広がったが、坂本も、《核兵器反対こそが、戦後日本の新しいアイデンティティの核心であり、「反核」こそ日本の国際的使命だと確信するようになった》。《核時代は、世界の問題であると同時に、日本に特有の課題であり、原爆感情・原爆意識は、日本人に特有であると同時に、普遍性をもつ日本のメッセージだというのが、私の信条でした。》

 坂本は1960年の安保反対運動に参加し、ベトナム反戦運動や日韓交渉問題に知識人の声明をまとめるなどの形で関わるが、1968年に発生した東大紛争では加藤総長代行の「特別補佐」となり、つまり紛争の当事者となる。
 《私は、紛争が安田講堂事件にまで行ってしまったことは、紛争当事者すべての失敗だったと思っています。たくさんの学生が傷つきました。もちろん私たちだけの責任ではないかもしれないが、私たちにも責任がある。………/この六八年十二月から六九年一月の安田講堂事件までを含め、全共闘は、何のためにやったのか、私にはよくわかりません。全共闘のあの人たちは、あれほどの犠牲を払って、いったい何をしたかったのか。あの一連の事件と時代を弁護することは非常に難しいと思います。》
 坂本は、当時接触のあった全共闘の山本義隆や今井澄のその後の生き方について、「一つの生き方として立派」だと認める。
 《しかし他方で、「東大解体」と言った全共闘支持者のなかには、東大その他の教授になった人もいます。「東大解体」といった人が、せめて東大にだけは就職しないというぐらい頑張ってくれればいいのに、どうして東大教授になれたのか、私には理解できません。/もう一つ私が嫌だったのは、あの当時、とくに六八年十二月から六九年一月の安田講堂事件にかけて、『朝日ジャーナル』が東大執行部に対してきわめて批判的で、全共闘一辺倒だったことです。書いている識者も、私が個人的に知っている人も含め、非常に批判的な文章を書きました。それを読む人たちが、また批判を増幅する。……/私は、あの人たちが実態を知らないで書いていると痛感しました。あの凄惨なゲバルトの現場を一目でも見たら、そう簡単に全共闘支持とは書けない。もちろん全共闘を理念的・一般的に支持することは自由ですが、全共闘の行動の何を支持するのか、何を支持しないのかをはっきりさせていることが、本当の批判・批評というものであるはずです。》

坂本は70年以降、国際的な共同研究に力を入れる。日米の研究者と一緒に「日本占領」に関する研究を行い、また、「戦争の危険を最小化する条件は何か」を究明する、先進国と第三世界の研究者が加わる共同研究を行う。この後者の共同研究は、坂本のその後の活動や考え方に、大きな影響を及ぼしたようである。「核戦争の防止と核軍縮」を、何にも優先する人類の普遍的課題として提起した坂本は、「核爆弾で死ぬのと飢餓で死ぬのと、何が違うのか」とインド人の学者に反論され、衝撃を受けたのである。
 結局この共同研究は、「世界的視点に立つ基本的価値」として、「平和」以外に経済的貧困や格差に抗する「福利」、差別に抗する「社会的正義」、「エコロジカルな調和」、「人間としてのアイデンティティ」という五つの価値を志向する未来構想を、打ち出すことになった。
 また、「自治体外交」を主唱する長洲一二神奈川県知事をスポンサーにして、「外交」を国家レベルに限るのではなく、自治体や市民も担い手となるべきだという考えのもとに、国際会議を催したりした。
 1970年代末から80年代初めは東西間の緊張がふたたび昂まった時期だったが、坂本は国際平和研究学会の事務局長になり、国連の軍縮総会で提言の演説をしている。
 『人間と国家』は、こうした坂本の国際的な活動をいろいろ記述し、また中国や韓国の要人や研究者との交流にページを割いている。

坂本義和は、日本の論壇では「理想主義者」、「理想主義的平和論者」と呼ばれ、そうした傾向の主張をする人たちの代表格だった。筆者がなぜ『人間と国家』を読み始めたかというと、坂本が冷戦終結から20年を経て、自分のかっての考え方をどう振り返り、また、かっての論敵についてどう評価するか、に興味があったからである。
 筆者は学会の事情などまるで不案内なのだが、国際政治を論じる論壇での活躍状況を見るなら、高坂正堯と永井陽之助が「理想主義者」と対立した「現実主義者」の代表格といってよいだろう。坂本は彼らについて、どう語っているのだろうか。
 永井陽之助(19242008年)は坂本より3歳年長で、東大法学部の研究室の同僚として名前は出てくるものの、その主張に関する言及はなにもない。
 高坂正堯(19341996年)については、米国留学から帰国したあと自分を研究室に訪ねて来たので、大学前の喫茶店で3時間近く話をした、と書いている。この話し合いで意見が異なった基本的な点は、敗戦によって日本のナショナリズムや国家意識に断絶があったことを、高坂は実感として認めないということだった、と坂本は振り返る。
 《彼は空襲を免れた京都育ちのせいもあるかもしれませんが、話していて、この人は「戦争の傷」を骨身にしみて経験していないという印象を禁じえませんでした。》
 坂本の高坂に関する言及は、それだけである。

(つづく)

前回の、坂本と高坂の話をもう少し続ける。
 
 1962年の秋、雑誌「中央公論」の編集次長をしていた粕谷一希は、知人から、「高坂正顕の息子がハーバード留学から帰ってきて、いま国際文化会館に泊まっているが、会ってみたらどうか」と勧められた。「中央公論」の新機軸を打ち出したいと考えていた粕谷は会いに行き、1時間ほど話をする。高坂は、留学中、ハーバードに招聘された丸山眞男と、何回か対話する機会を持った、という話をした。
 《――残念ながら、安全保障の問題でどうしても意見の一致を見ませんでしたね。
 いかにも残念そうな口ぶりで、丸山さんへの敬意と、しかし立場の相違を明言する勇気とを併せもっている様子だった。
  ――それを文章にしていただけませんか。》
 そういう経緯で生まれたのが高坂正堯の論文「現実主義者の平和論」で、「中央公論」昭和38年新年号に掲載された。(粕谷一希『中央公論社と私』1999年)
 論文には丸山の名前は出てこないが、坂本義和の名前が批判の対象として出てくる。そこで「中央公論」編集部では坂本義和に、反論を書かないかと打診した。答えはノーだった。対談ならどうかと持ちかけたが、これも断られ、記事にしないからお会いになりませんか、という話にも拒否回答だった。
 では、高坂氏自身、お目にかかることを切望しているが、どうしたらよいか、と尋ねると、会いたければ、編集部の介在なしに、私の研究室まで来てくれ、という返事だった。粕谷は坂本の尊大な態度にムカッとしたが、高坂は一人で研究室まで出かけて行った。3時間ほどして戻ってきた高坂は粕谷に、「溝は深いですね。なんとか対話の糸口を見つけたいと思ったのですが、駄目でした」と報告した。
 
同じ「国際政治学」を専門とする学者同士の対話が成り立たない、とはどういうことなのか。彼らの断片的な言葉から窺えるのは、国際政治の個々の出来事への理解や評価が異なるということよりも、もっと深い断絶が彼らのあいだに横たわっているという感触である。彼らの論文をいくつか読むことで、その断絶の意味を少し考えてみたい。
 国際政治に関する文章は、その時々の事情の中で書かれた賞味期限の短い「ナマ物」であるから、数十年も経った後に読む意味があるのか、という疑問がないわけではない。だが現実の動きとその帰結が十分明らかになった数十年後であるからこそ、なぜ論者がその時そのような主張をしたのか、どこに誤りがあったのかを考えながら、論文を読むことができる。そのことは現在生起しているさまざまな出来事を考える上で、意味のないことではないだろう。

 「中立日本の防衛構想」(1959年)は、前回に述べたとおり坂本義和がジャーナリズムに初めて発表した論文であり、また彼の代表作でもある。時代は米国とソ連が核兵器を持って厳しく対峙し、日本は米国と安保条約改定の政府間交渉を始め、米国との同盟関係をより相互的なものにしようとしていた時期である。
 原水爆を積んだ米国の戦略爆撃機が、常時世界各地で警戒飛行を行っている状況にあっては、いつ「錯誤」による戦争が発生しないとも限らない、と坂本は考える。米ソ間の戦争は、当然「核戦争」となるだろう。日本がソ連の攻撃目標とならないためには、ソ連を攻撃する米軍基地を撤廃することが必要であり、日本はアメリカの同盟国であってはならないと坂本は言う。
 反中立論者は、安保条約、米軍基地、自衛隊といった軍備は、戦争になった場合のためというより、戦争にならないようにするためのものだと主張するが、それはおかしいと坂本は反論する。軍備である以上、戦争に備えるものであり、最悪の場合は「行使する可能性と決意とが伴っていなければならない」。われわれはやはり最悪の事態が発生した時に、安保条約や基地がある場合と中立の場合で、それぞれどのようになるかを予想しなければならない。
 米ソの「核戦争」の場合、安保条約や基地は何の役にも立たないばかりか、ソ連の攻撃を誘致するだけである。一方中立主義を取ったとしても、われわれが全面戦争の戦禍を百パーセント免れるということもできない。しかし坂本は言う。「日米同盟体制を続ける限り事態は絶望的であるのに対し、中立政策をとる時には希望が残されている」。

当時社会党は、米ソ中日からなる集団的安全保障条約によって、日本の中立と安全を保障する方式を提唱していた。坂本は、中立的な諸国の部隊から成る国連警察軍の日本駐留によって、中立による安全保障方式を補完することを提案する。具体的には、
 米英仏ソ中の五大国は除外し、中立傾向の国の部隊であること。
 部隊の司令官は国連総会で任命し、事務総長を軍事面で補佐する。各国からの派遣将兵は、出身国の国籍や兵籍を離脱するわけではなく、日本に駐留する期間は国連への忠誠義務を負う。
 26万人の自衛隊は大幅に縮小し、国連警察軍の補助部隊として国連軍司令官の指揮下に置く。
 駐留軍の経費は全面的に日本が負うが、それでも現在の軍事費負担を大幅に減らせるだろう。―――
 この国連警察軍の常時日本駐留という防衛構想は、日本の安全にとって本当に有効なのか。
 「現在の国際政治的および軍事的諸条件からして、」米ソのどちらかが中立の日本に攻撃を加えてくることは考えられない、と坂本は言う。「また日本の軍事的中立化は決してアメリカからの経済的孤立化を意味するものではないが、もしアメリカがそのような態度に出れば、それはただ日本の共産圏への接近を助長するだけで、何らアメリカの利益にはならないことは、アメリカ自身が知る通りである」。
 実現可能性は、どれだけあるのか。国連警察軍の日本駐留を、アジア・アラブの中立主義諸国が支持し、ソ連と共産圏諸国が国連総会で賛成票を投ずることはまちがいない、と坂本は考える。問題は、日本の軍事中立化によって基地と軍事同盟を失うアメリカだが、日本の中立を実現するためには、アメリカへの抵抗は避けて通れない。しかしミサイル技術の発達とともに、基地を日本から後退させることはアメリカ自身のたどる傾向であり、「日本が軍事的に共産圏内に入らない保障があれば、日本の中立化がさほど決定的なマイナスになるとは考えられない」。―――

この論文を読む者は、誰しも隔世の感に打たれるだろう。坂本を強く捉え、国民の一部も分かち持っていたかもしれない核戦争勃発への危機感、恐怖感は、どこかに消えてしまい、今では薬にしたくても手に入らない。
 アメリカと対立して核兵器の増強に努めたソ連は、崩壊した。ソ連の攻撃を誘発するから早急に撤廃しなければ危険だと、坂本に言わせた日米安保条約だが、今では太平洋地域の安定に寄与する「公共財」と再定義され、国民のなかに定着しているように見える。
 しかし筆者のこの文章の趣旨は、坂本の主張と予想が見事に外れた点を強調するところにあるわけではない。坂本の主張と予想の過ちの原因を、その思考法にさかのぼって検討しようしているのだが、それには高坂正堯「現実主義者の平和論」が大いに参考になる。高坂の論文は、坂本の思考法の問題点を見事に指摘しているからである。

 高坂の「現実主義者の平和論」の内容は、いくつかの命題に整理されるように思う。
1.ソ連の核実験再開やアメリカのキューバ封鎖という事件が起こるたびに、日本では「道義主義的発言」が繰り返されてきた。それは確かに必要なことだろう。「しかし理想主義者たちは、国際社会における道義の役割を強調するのあまり、今なお国際社会を支配している権力政治への理解に欠けるところがありはしないだろうか。」
2.中立論者は、核戦争が起きれば日本の防衛は不可能だという認識から、ただちに安保条約は役に立たないだけでなく有害だ、という結論を導き出す。しかし在来兵器による武力が、侵略に対して無意味であるわけではない。
3.安保条約は極東において勢力均衡を成立させ、戦争の抑止に役立っているという議論に、坂本氏は満足な答えを与えていない。「勢力均衡は近代ヨーロッパに国際社会が成立して以来、国際関係を規定してきた第一の原則であったし、勢力均衡の存在しないところに平和はなかった。」
4.理想主義の主張が日本の外交論議に寄与するのは、精神的価値の問題を国際政治に導入する点である。「国家が追及すべき価値の問題を考慮しないならば、現実主義は現実追随主義に陥るか、もしくはシニシズムに堕する危険がある。また価値の問題を考慮に入れることによってはじめて、長い目で見た場合にもっとも現実的で国家利益に合致した政策を追求することが可能となる。」「日本が追及すべき価値が憲法9条に規定された絶対平和のそれであることは疑いない。私(高坂)は、憲法第9条の非武装条項を、このように価値の次元で受けとめる。」

 高坂は、中立論者が、「憲法第9条のかかげた絶対平和を目的として絶対視するついでに、政策上の目的としての中立を自明のこととして引き出してしまう」点を、問題として指摘する。日本はすでに、国際的な権力政治のなかに組み入れられているのであり、権力政治的な力の均衡による平和の一つの要素となっている。「日本がそこから突然退くことは、力の均衡にもとづく平和を危機にさらすというギャンブルでしかない。重要なことは、この権力政治的な平和から、より安定し日本の価値がより生かされるような平和に、いかにスムースに移行して行くかということなのである。」(カッコ内は論文からの引用。)

(つづく)

坂本義和のみならず、世界の人びとを捉えていた核戦争勃発への危機感、恐怖感が、幸いなことに世界から消えたのは、もちろん冷戦の終結に因る。それでは戦後世界を規定していた「冷戦」の終結が、いかにして実現したと坂本は考えているのか。『人間と国家』の中で、彼は次のようなことを述べている。

 自国の安全のために軍備を増強することが相手の軍備増強を招き、いっそう緊張が昂まるといういわゆる「セキュリティ・ディレンマ」を克服するためには、どちらかの国が軍備の一方的縮小を行い、軍縮の口火を切る必要がある。その「一方的イニシアティブ」をゴルバチョフが実行したことが、冷戦終結の決定的な契機になった。
 自分は「力の均衡」政策が生み出す「セキュリティ・ディレンマ」の危険と、「一方的イニシアティブ」の重要性を講義で一貫して力説してきたが、それが実証され、感慨無量だった。
 また、下からの動きとして、80年代の初め、米ソ双方の中距離核ミサイル配備で一挙に昂まった西欧の反核・平和運動が、チェコ、ハンガリー、東独、ポーランドなどでの「反核・平和」の動きを励ます効果を持ち、「東西の市民の間のコミュニケーション」が生まれたことも、特筆に値する。「こうして八九年には、冷戦体制の崩壊は市民の圧力のもとで進行した」。―――

 これだけである。筆者は「冷戦の終結」について論じる用意があるわけではないが、坂本の上の発言には大きな違和感を覚える。なによりもゴルバチョフの「一方的イニシアティブ」の意義を強調する一方、それがなぜ行われたのかという国際政治学にとって最も重要な問題について、何も述べていない点が致命的である。これではまるでゴルバチョフが、核戦争で人類と文明が破滅する危険性を危惧し、犠牲的精神を発揮して一方的軍縮に踏み切ったという「美談」になってしまう。
 なぜこのような無内容な説明しかできないのかという疑問は、坂本の「理想主義的国際政治
学」の問題点に直結しているように見える。

筆者は以前、ゴルバチョフと徳川慶喜の類似点を指摘した、国際政治学者・神谷不二の文章を読んだ記憶がある。徳川慶喜もゴルバチョフも、体制の危機の時期に政治指導者のポストに就いたが、彼らは「体制内改革」が可能だと信じていた。徳川慶喜が、「公武合体」の線で事態を収拾することを考えていたように、ゴルバチョフも「ペレストロイカ」や「グラスノスチ」などの改革を進めることで、体制を維持できると考えていた、というのである。
 対立する側も、必ずしも成算があったわけではなかったが、賭けに出た結果、その賭けが成功する。一度動き出した変革の流れは、適度な線で押しとどめることができず、奔流となってゴルバチョフと共産党の支配体制を呑み込み、押し流してしまった。
 そもそもソ連が体制の危機に陥ったのは、ブレジネフが過度の軍事優先政策をとり、莫大な資金を軍備に投じたからである。中央の指令によって動く計画経済が行き詰った上に、軍備の重みでソ連経済はにっちもさっちもいかなくなり、レーガン政権の採ったSDI(戦略防衛構想)などの軍拡競争に対抗する余力はなかった。ゴルバチョフは体制を立て直すために、核兵器の廃棄も含め軍縮を進めなければならなかったのであり、それが共産党支配体制の崩壊と相まって、「冷戦の終結」を生み出した。

 冷戦終結についての筆者の理解を大雑把に言えば、上のようなものである。よく調べたわけではないから誤りを含んでいるかもしれないが、ソ連経済の行き詰まりやその行き詰まりの原因に触れずに、冷戦終結を語ることはできないはずである。しかし国際政治における力の要素を軽く見ることを志向する坂本の「国際政治学」では、レーガンの軍拡政策が「冷戦の終結」を導き出したと言うに等しい事件の解釈は、タブーなのかもしれない。

「冷戦の終結」に関する上の議論を、少し補足しておきたい。坂本はゴルバチョフの提唱した軍縮について、『新版 軍縮の経済学』(1988年)で次のように語っている。(ちなみに発行は、「ベルリンの壁の崩壊」の丁度1年前にあたる。)

 《よくいわれるのは、ソ連経済が非常に悪化してきているために軍縮をいわざるをえなくなったのだというご意見です。たしかにソ連経済が、ソ連の指導者にとってもコントロール不能な状態になっていたという面はあります。しかし、私は経済が悪くなったから軍縮をいいだしたという議論は、素朴な唯物論的で、単純すぎると思います。》
 経済が悪くても軍縮せず、軍拡する場合もある、ブレジネフ時代の後期がそうだ、と坂本は言い、ゴルバチョフは核兵器が「人類にとっての脅威」という意識を強く持っていたから、「一方的イニシアティブ」に進めたのだというのだ

 経済が苦しいから、自動的に軍縮に進むわけではない、というのはそのとおりである。
 状況が困難で、危機が深刻であればあるほど、政治指導者の選択や決断が大きな意味を持ち、人びとの運命を左右する。しかし危機的状況における政治指導者の決断の重要性を認めることは、危機的状況に社会が追い込まれた要因の究明を軽んじることとは違う。
 ゴルバチョフの決断の問題に話を戻せば、80年代後半のソ連の危機の時代に、ゴルバチョフが政治指導者として登場した意味は大きい。だがソ連経済の行き詰まりという明白な状況がなければ、彼が多くの既得権益層の反対を押し切って軍縮を含む諸改革を始めることになったかどうか、筆者はきわめて疑わしいと思う。坂本の主張は、パワーポリティクスの存在を軽視して「あるべき」世界像を説く姿勢が相変わらず強く、かっての「中立論」同様、賛成できない。

今年のノーベル平和賞に、国際NGO 「ICAN」(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)が選ばれた。「ICAN」は101か国から468の団体が参加する連合体で、核兵器を国際法で禁止するためのキャンペーン活動などを行ってきた。「核兵器禁止条約」が今年7月に国連で採択されたが、この採択に向けて「ICAN」が行った積極的なロビー活動などが評価され、平和賞受賞となった。
  被爆の悲惨を訴え、核兵器禁止の機運を昂めることは、核兵器使用のハードルをより高くするものとして評価できる。日本政府は外相と官房長官がそれぞれ「日本政府のアプローチとは異なるが、核廃絶というゴールは共有している。国際社会の核軍縮、不拡散に向けた認識や機運が高まることは喜ばしい」というコメントを発表し、微妙な位置取りながら一応賛意を表した。

  一方、現在の極東地域を見ると、北朝鮮の核兵器開発、ミサイル開発が進行し、それを非難し、圧力をかける国際社会との間で緊張が昂まっている。特に米国は、「アメリカは戦争を望んでいないが、忍耐力は無限ではない」、「すべての選択肢はテーブルの上にある」と言って北朝鮮を脅し、北朝鮮は「史上最高の超強硬措置を真剣に考える」、「日本列島の4つの島は、核爆弾で海に沈める」と言い返すといった応酬が続いている。
  自己顕示欲が強く、感情の抑制が不得手なドナルド・トランプと、自分の地位が脅かされれば、国民の受難など意に介さず、核兵器の使用に走ると見られるキム・ジョンウンが非難の応酬を続けている現状は、冷戦時代以上に一触即発の危機にあると言ってよい。にもかかわらず、日本の株価は26年ぶりの高値水準を謳歌し、国民のあいだに戦争勃発の可能性を考える空気は薄い。

 北朝鮮問題の今後を考えると、次のような予想図が出てくる。戦争の勃発は、考えたくないから考えない、とすると、
北朝鮮は核武装化し、米国および国際社会はそれを事実上容認する。
韓国内の「北」シンパの中には、北の軍事力と南の経済力が合体することを期待する民族主義が、一定数あるらしい。また反米感情も強い。その先にあるのは
米韓同盟の破棄、米軍(国連軍)の韓国からの撤退、「北」の影響下に置かれる韓国であろう。
日本が、中国、南北一体となった韓国、ソ連という大陸勢力と対峙する第一線に立つ事態も想定される。それは日本に軍事力強化を強く促すことだろう。

 筆者は坂本義和の「国際政治学」が、有効な選択肢を準備できると期待はしないが、それでも存命だったならば現在の北朝鮮問題にどのような発言をするのか、聞いてみたい気もする。

 (おわり)

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