記者たちとセメントの記憶

                     【ブログ掲載:2019年4月19日】

 

▼『記者たち――衝撃と畏怖の真実――』(ロブ・ライナー監督 2017年)という映画を、日比谷で観た。あか抜けない題名だが、原題名が「SHOCK and AWE(衝撃と畏敬)」であり、「SHOCK and AWE」は米軍のイラク攻撃の作戦名なのだという。
  2001年9月11日に同時多発テロに襲われた米国は、テロ組織アルカイダを支援しているとしてタリバンの支配するアフガニスタンを攻撃(2001.10.7)して政権を倒し、つぎにイラクに関心を向けた。イラクのサダム・フセインが、湾岸戦争(1991年)後も国内の支配を続ける無慈悲な独裁者であることは確かだったが、9.11事件やアルカイダとの関連は疑問視されていた。また核兵器や生物化学兵器などの「大量破壊兵器」を保有しているかどうかも、明らかではなかった。
 しかし米国のブッシュ政権は、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、イラクへの攻撃準備を秘密裏に進めた。国連安保理で、イラクが国連の査察を積極的に受け入れる最後の機会を与えるとする決議をとりまとめ、イラクからの報告内容が不十分であり安保理決議違反であるとして、2003年3月、米軍とイギリス軍は攻撃に踏み切った。米国の世論もこれに賛成した。
  ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどの有力紙がイラク攻撃に賛成する中、イラク攻撃の理由に挙げられた「大量破壊兵器」の存在に疑問を呈し、開戦に反対する新聞もあった。映画『記者たち』は、ブッシュ政権のプロパガンダに抗し、あくまでも事実を追い求める新聞「ナイト・リッダー」社の4人の記者の物語である。

 

▼映画は、スピルバーグの『ペンタゴン・ペーパーズ』(2017年)やパクラの『大統領の陰謀』(1976年)と同様、不都合な事実を知らせまい、報道をやめさせようとする国家権力に対し、勇気をもって奮闘する新聞記者たちを描く。
 「この国はまったく必要のない、ものすごく費用のかかる戦争を始めようとしているのではないか」。それが編集主幹のジョン・ウォルコットや老練記者ジョー・ギャロウェイの懐く疑念だった。ウォルコットの指示の下、記者たちは地道に政府職員に接触し、粘り強く話を聞き出す。そしてそれを繋げ、真実に迫ろうとする。
  しかし政府のみならず多くのメディアや評論家たちは、イラクが「大量破壊兵器」を保有する危険な存在であり、いま叩かなければならないと主張していた。イラク攻撃に批判的な記事を載せる新聞の記者たちは、愛国心で盛り上がる親しい知人たちからも非難される。しかし妻や恋人は、彼らを支える。
  米軍はイラクへの攻撃を開始し、やがて全土を占領するが、「大量破壊兵器」は見つからない。つまり米国の開戦理由は虚構であることが明らかになり、ニューヨーク・タイムズは紙面で読者に謝罪した。
  イラク戦争で連合軍側の兵士5千人が亡くなり、イラク国民は百万人が犠牲になったと述べて、映画は終わる。 

見終わった筆者の感想は、あまり芳しいものではなかった。それはカメラワークや役者の演技に問題があるということではない。記者の一人、ジョナサン・ランディ役のウディ・ハレルソンは、昨年観た『スリー・ビルボード』にも警察署長役で出ていたが、ブルース・ウィルスに似た感じの、魅力的な役者である。
  筆者の不満は、この映画が『ペンタゴン・ペーパーズ』や『大統領の陰謀』、とくに『大統領の陰謀』の二番煎じであり、なにひとつ新しいものを加えていないというところにあった。
  同様のテーマを扱った優れた先例があることは、後発の監督にとって大きなプレッシャーであるだろう。しかし単に、「大量破壊兵器がある」と為政者が嘘をついていることを「記者たち」は勇気をもって暴き出し、報道したというだけでは、二番煎じを免れない。そこで終らせるのではなく、なぜチェイニー(副大統領)やラムズフェルド(国防長官)やウォルホビッツ(国防次官)、そしてブッシュ(大統領)は、相当の無理をしてまでイラク戦争を始めることに固執したのか、という疑問に迫るものになっていて欲しかったと思う。
  また、イラクへの攻撃を支持した世論が、その後どのように変わり、いま人びとはイラク戦争をどのように考えているのか、という問題に少しでも視線が届いているなら、作品の奥行きは増し、印象は変わっただろうとも思う。
 だがそのためには、作品の構成をすっかり変えなければならないのかもしれない。

 

▼『セメントの記憶』(ジアード・クルスーム監督 2017年)という映画を、渋谷で観た。監督はシリア人で、難民としてドイツに来て映画づくりを学び、レバノンの建設現場を舞台とするこの映画を撮った。極めて斬新なドキュメンタリー映画である。 

高所からはるかに望むベイルート(レバノン)の街が映し出される。超高層ビルが何本も立ち並び、その向こうに青い海が見える。
 超高層ビルの建設現場が映される。工事用エレベータに無言で乗り込む10人ほどの労働者たち。彼らはシリアからの難民で、建設現場の地下にある雨水の溜まった穴倉にマットを敷いて寝泊まりしている。彼らは19時以降、街に出歩くことを禁止されている。
 エレベータの着いた高所の作業現場では、鉄筋を組み、コンクリートを流し込む作業が行われる。エレベータの動く音、コンクリートを流し込む機械の音、ハンマーで足場の金具を叩いてゆるめ、また足場を組む音が、四六時中響きわたる。 
 ひとりの労働者の声が短く挿入される。自分が子供のころ、父親はベイルートの建設現場に働きに出て、手紙をくれたこと。手紙には青い海の絵が入っていて、キッチンに貼っていつも眺めていたこと。そしていま、自分が同じように建設現場で働いていること……。

観客は、レバノンの現代史を重ねながら、これらの映像を見、理解する。レバノンでは1975年にキリスト教徒とイスラム教徒のあいだで内戦が始まり、それは15年間続き、パリの都市計画を真似てつくられたベイルートの街は、瓦礫と化した。内戦終結後の1990年代、ベイルートは復興の建設ラッシュに沸く。声の主の父親も、その時期に出稼ぎに来たのだろう。
 そして2011年、今度はシリアで内戦が勃発した。内戦を逃れて多数の難民がレバノンに移り住み、建設現場で働くようになった。―――

しかし映画は、何の説明もせず、特定の登場人物もなく、発せられる言葉もない。終わり近くになり、戦車が瓦礫の街を行く映像が映され、砲撃で崩れた建物の下敷きになった人びとを、瓦礫の下から救出しようと声を上げて走り回る人びとの映像が映される。そしてコンクリートの粉塵にまみれたけが人が、救出される。題名の「セメントの記憶」とは、建設現場のセメントの匂いであり、砲撃で破壊された建物の粉塵が舞う匂いであるらしい。 

通常の劇映画は完結した作品世界を持っており、観客はそこに一時的に移動して作品を味わい、やがて現実世界に戻る。
 しかしクルスームのこの映画は、完結した世界を持たない。観客は自己の知識と経験を動員して、眼の前の映像と音の意味を理解することを求められる。映画は観客の世界を揺り動かし、崩し、安定した場所を与えない。―――
 鮮烈な映像と音に充ちたこの映画は、実に刺激的だった。

 

▼『記者たち――衝撃と畏怖の真実――』と『セメントの記憶』は、主題も技法も何ひとつ似通った点はないが、ただひとつ、アラブ人の悲劇という点は共通しているのかもしれない。イラクがサダム・フセインという独裁者に支配されていなければ、米国との戦争はなかったであろうし、シリアがアサド家という独裁者に支配されていなければ、内戦の悲劇を免れた可能性は高い。独裁者は、自分が権力を保持しつづけるためには、国民や国土のすべてを犠牲にすることも厭わないからだ。
  アラブ世界の統治は、なぜ独裁的権力者を必要とするのか。この問いは、近年の欧米社会における民主主義の動揺の問題とともに、われわれをあらためて「政治学」の扉の前に立たせる。


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