守城の人     村上兵衛
             【ブログ掲載:2019年10月18日~11月15日】

▼「明治人 柴五郎大将の生涯」という副題を持つ『守城の人』という本を読んだ。著者は村上兵衛、1992年に発行された単行本で650ページほどの作品である。  内容は副題にあるとおり、柴五郎の生涯を描いた伝記なのだが、軍人の伝記は戦後の日本で人気のあるジャンルではないだろう。もちろん乃木希典や東郷平八郎から、宇垣一成、東条英機、石原莞爾、山本五十六、米内光正など昭和の陸海軍の指導者まで、論じられてきた軍人は少なくない。しかしそれらは、昭和の政治史や陸海軍の派閥抗争、太平洋戦争の戦史を論ずる中で、その延長として語られることが多かったように思う。
 戦後の日本は軍や軍事に関する関心を失い、知識も失った。戦争を忌避する心理が戦争を倫理的に糾弾する「思想」を生み、それが軍隊や軍事力を正面から直視しない態度を、「平和思想」の名の下に合理化してきた。だが、軍隊や軍事力の存在と意味を直視しないなら、歴史をトータルに語ることはできず、その歴史認識はひ弱であることを免れない。―――
 だがその問題はともかく、軍や軍事にまるで関心を持たない社会において、軍人の伝記が書かれることは例外的にしかありえなかった。十年ほど前に、硫黄島防衛戦の指揮を執り玉砕した栗林忠道中将について、指揮官としての有能さと家族思いの人間性を描いた書物が出版され、話題になったが、それはそのわずかな例外に属する。
 『守城の人』は、柴五郎が生きた幕末から明治、大正、昭和という時代と、柴五郎という人間を、同じ重みをもって描いている。同様の描き方をした例としては、他に司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた秋山好古、真之兄弟ぐらいしか筆者は思い浮かばないが、柴五郎はこの秋山兄弟と各地で活動を共にした同時代人である。

▼柴五郎の略歴を紹介する。 

安政6年(1859年・数え年1歳)会津藩の上級武士の家に、五男六女(内2人は夭折)の下から2人目として生まれる。

慶応4年・明治元年(1868年・10歳)戊辰戦争で鶴ヶ城落城、会津藩は降伏
明治3年(1870年・12歳)旧会津藩は斗南藩として下北半島に移封。柴五郎も斗南に移住する。
明治4年(1871年・13歳)廃藩置県があり、青森県庁の給仕となる
明治5年(1872年・14歳)東京に出、下僕生活
明治6年(1873年・15歳)陸軍幼年学校に入学
明治10年(1877年・19歳)陸軍士官学校に入学
明治12年(1879年・21歳)陸軍砲兵少尉に任官
明治22年(1889年・31歳)清国福州で特別任務に就く
明治27年(1894年・36歳)日清戦争始まり、大本営陸軍部参謀
明治33年(1900年・42歳)北京駐在武官。義和団事件起こり北京に籠城
明治37年(1904年・46歳)砲兵連隊長
明治40年(1907年・49歳)陸軍少将、重砲兵旅団長、要塞司令官、第12師団長、東京衛戍総督
大正8年(1919年・61歳)陸軍大将、台湾軍司令官、軍事参議官
大正12年(1923年・65歳)予備役
昭和20年(1945年・87歳)1213日没

▼柴五郎は、かっては「コロネル・シバ」として欧米で有名な日本人の一人だった。しかし著者・村上兵衛が柴五郎に強い関心を持ったのは、柴が少年時と人生の終わりの時期と、二度にわたって「敗戦」を体験したという事実に気づいた時だった。村上は世田谷区上野毛の柴邸を訪ね、柴五郎の娘や孫娘から柴について話を聴いた。また柴の養嗣子から、柴五郎が自分の生い立ちをつづった「遺言」が菩提寺に納められていると教わり、会津若松まで出かけ、それを本堂で明け方までかけて筆写したりした。

柴五郎は幼年学校以来、日記を書き続けていたが、二度目の敗戦を体験し死を決意した時に、焼いてしまったらしい。しかし退役後、この日記を元にまとめた自筆回顧録や「柴五郎略歴」、「竹橋騒動付陸軍士官学校時代」という文章、そしてそのあと書き継ぐ予定だったと思われる未整理の原稿数百枚が、遺されていた。
 また、義和団事件に遭遇し北京で戦った体験を語った講演録は、今でも『北京籠城』という平凡社の「東洋文庫」の一冊として読むことができる。比較文学者の島田謹二は村上に、柴少佐直筆の「キューバ観戦報告」が宮内庁図書館に現存することを教えた。これらの原資料に拠りながら、村上はこの『守城の人』を書いた。

▼柴五郎が少年だった幕末、四人の兄たちは京都守護職に就いた藩主・松平容保に従って京都に行き、鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月)を戦った。戦いに勝利した薩長土肥の軍は兵を進め、江戸の無血開城に成功する(4月)。徳川慶喜は水戸で謹慎し、恭順の意を示した。新政府軍は、旧幕府方の残党勢力と奥羽越列藩同盟の各藩を平定するため、部隊を各地に進めた。
 8月下旬に会津の国境が破られると、会津軍は鶴ヶ城にこもって戦いつづけた。籠城した会津軍の数は三千だが、その他に負傷者や家中の老人や子供、婦人などがおり、籠城者の総数は五千を超えた。城に夫や息子を送り出した後、足手まといにならぬように女たちが自害する武士の家もあったが、柴家もその一つだった。母は敵軍が城下に攻め入る日の前日、五郎を田舎の大伯父の家に遊びに行かせ、五郎の祖母、兄嫁、姉、妹とともに自害した。
 9月22日、鶴が城に白旗が掲げられ、会津藩は降伏した。降伏した家臣たちは猪苗代の寺や民家に押送され、謹慎を命じられたのち東京に送られ、ここでも謹慎を命じられた。柴五郎の一家は、長兄が負傷し、次兄が亡くなったが、父親と4人の兄弟が生き残った。
 明治2年5月、函館五稜郭の旧幕軍が降伏し、1年半に及ぶ内戦は終結した。また会津藩の処分も決まり、旧南部藩領の一部に移封されることになった。旧会津藩は実高67万石であり、これで二万の藩士と家族を養っていた。新藩領は斗南(となみ)と名づけられ、三万石という説明だったが、半年は雪におおわれる痩せた火山灰地の実高は、ようやく七千石あるかないかという実態だった。
 翌年、兄二人は東京に残り、長兄と兄嫁、五郎と父親は斗南に移住し、慣れない開墾生活を始めた。斗南の環境は厳しく、狭い土地に撒いた種は成長が悪く、育った豆や野菜は虫にボロボロ食われた。冬になり、あまりの寒さに驚いた五郎が会津から持参した寒暖計で測って見ると、夜の戸外は零下20度、囲炉裏ばたでも零下10度を下まわっていた。寒さと栄養失調で、移住してきた多くの年寄りや幼児がバタバタと倒れ、亡くなった。
  明治4年、7月の廃藩置県にともない斗南藩は廃止されて斗南県となり、9月には合併されて弘前県、さらに11月には青森県となった。幸運なことに五郎は、斗南藩からの推薦で青森県の給仕になることができた。給仕の仕事は、早朝、一般吏員の来る前に役所で火を起こし、湯を沸かし、必要品を整え、部屋の掃除や水仕事をすることだったが、斗南での窮迫を体験した五郎にはまるで天国だった。
 さらに五郎は、県庁の大幹部である野田豁通(ひろみち)から声を掛けられ、独身の野田邸に住み込むことになった。当時三十前の野田は、熊本藩士出身の闊達な男で、若き明治の建設を担う有能な官僚の一人だった。後藤新平、斎藤実、林田亀太郎など、のちに名を残す人材は、いずれも野田家の書生から巣立った人々である。
(つづく)

▼柴五郎は青森県庁で給仕として働くうちに、東京へ出たいという漠然とした望みを持った。野田豁通は、東京へ出るのは良いぞ、望みは大きく持て、と少年を励ました。
 翌年、地租改正の調査のため、大蔵省から東北地方巡回の一行が青森に来たとき、五郎は一行の宿舎を訪ね、東京に出て修学したいと申し出た。大蔵省の役人は野田と相談の上、意外に簡単に五郎の希望を入れ、一行に加えてくれた。
 しかしようやく憧れの東京に着いた五郎だったが、仕事も金もない者にとって東京の生活は苦しかった。五郎は知り合いを訪ねては、居候や書生として置いてくれるように頼みこみ、かろうじて寝場所を確保するような生活を送ることになる。
 野田はまもなく陸軍会計一等官吏に任官し、東京に来た。そして五郎に、近く陸軍幼年学校が生徒を募集する、受験したらどうかと勧めた。合格すれば、学費も食費もみな新政府持ちであり、学問技芸を授けてくれて、しかも士官への道が開ける。五郎はこの耳寄りな話に飛びつき、にわか勉強の結果、幸運にも合格した。

幼年学校は、将来軍の幹部を育成するための予備校だったが、軍事学や教練など軍隊の臭いのする教科はなく、一般教科を教えた。教官は教頭以下すべてフランス人で、授業はすべてフランス語、数学の九九までフランス語で唱えさせられた。漢文や国語(日本語)の授業はなく、地理や歴史はヨーロッパ中心で、食事は朝、昼、晩、フランス料理だった。はじめは教官の喋る言葉が皆目わからず、最劣等生だった五郎も、必死の努力の甲斐があり、徐々に成績を上げていった。 

▼明治10年、五郎が幼年学校の最上級生(5年生)のとき、西南戦争が勃発した。五郎の恩人の一人、元会津藩家老の山川浩も中佐として出征し、兄の四朗(東海散士)は戊辰の屈辱と無念を晴らすべく、山川の従者の資格で政府軍に加わり、九州に向かった。五郎は「賊徒征討の詔」が出されたと耳にしたとき、「芋征伐仰セイダサレタリトキク。メデタシ」と日記に書きつけた。
 政府軍は鎮台兵として各地の鎮台に配置されていたが、そのすべてを西南戦争に動員することは治安の必要からできなかった。そこで手っとり早い兵力の増強策としてとられたのが、旧士族たちを巡査として採用し、戦場に投入することだった。福島県下で割り当てられた450名は二、三日で満杯となり、彼らは東京で編成、訓練された後、船で九州へ送り込まれた。五郎の長兄は警視庁の警部補に採用され、即日鹿児島に向けて出発した。
 野田豁通も出征し、戦線の後方にあって爆弾食糧の補給から負傷者の救出、後送、野戦病院の開設、死者の埋葬など兵站業務のすべてを統括した。
 薩摩軍の銃はおおむね旧式で、雨が降ると火薬が湿って発射しにくく、しかも銃に銃剣を着けると発射できない不便なものだった。政府軍のスナイドル銃は発射速度が速いうえに、銃剣を着けたまま発射できる。これが射撃、前進、そして突撃という近接戦闘に大きな効力を発揮した。
 薩摩軍の指揮官たちは猛将ぞろいだったが、戦局全体を展望し、戦略を練る器量には欠けていた。また薩摩軍の中には身分の低い者を下に見る気風が依然として残り、これが兵士たちの士気を次第に低下させた。そして戦争が長引くにつれ、経済力、動員力、機動力の差が、歴然と現れる。熊本鎮台(熊本城)を攻囲したが陥落させられなかった薩摩軍は、やがて退却戦を余儀なくされ、9月に西郷隆盛が鹿児島の街を見下ろす城山で自刃し、内乱は終わった。
 柴五郎はこの年の5月、士官学校に入学した。

 西南戦争で政府の軍隊と軍需物資の輸送を一手に引き受けたのが、三菱汽船会社だった。政府軍の勝利の要因の一つに、三菱汽船の輸送力の早さ、正確さがあった。
 明治初期の日本の沿岸輸送は、江戸時代そのままのいわば風まかせで、荷物がいつ到着するか、まるで確かでないというような状態だった。岩崎弥太郎は独力で運送の近代化に取り組み、次第に地保を固めつつあったところに西南戦争が起こった。政府は戦争遂行のためにこの会社を惜しみなく援助し、三菱は巨利を博し、巨大財閥の基礎を築いた。
 兄の四朗は西南戦争後、山川浩が指揮した「山川大隊」の記録、編集の仕事にたずさわった。そして何度か三菱汽船会社に通い、岩崎弥太郎に会い、重役の豊川良平の知遇を得た。四朗は豊川に、渡米し留学する希望を熱心に打ち明けた。
 結局三菱が渡航旅費と奨学金を引き受けてくれることになり、25歳の四朗はアメリカ留学に船出した。のちに東海散士の名で一大ベストセラー小説『佳人之奇遇』を書き、ジャーナリストとして活動し、衆院議員にもなった柴四朗の活躍は、アメリカでの4年間の学業体験の上に花開いたものだった。 

▼五郎が士官学校を卒業するころ、ロシアの東漸、南下の脅威に対し、支那を近代化し、日本と支那が連合してこれを防ごうという空気が、日本の朝野に萌していたと、村上は書いている。そして参謀本部の若い将校たちが諜報員となって、中央アジアや雲南、チベットなど各地に入るようになる。五郎もまた、大陸での活躍を夢見る一人であり、支那語を熱心に勉強した。
 明治13年、五郎は士官学校を卒業し、大阪で砲兵隊付として勤務に就いた。その後、近衛砲兵大隊に移り、参謀本部付に転任し、清国・福建省駐在の辞令をもらい、赴任した。五郎はここで情報収集にたずさわるとともに、支那語と英語の勉強に磨きをかけた。
 その後五郎は、北京に駐在して周囲十里あまりをくまなく歩き、「兵要地誌」を精密な地図として完成させる仕事に従事した。これは将来、清国と戦争になり、その首都の攻略作戦が行われる場合には不可欠の、重要な基礎作業である。そして3年半の大陸勤務を終えて帰朝するように命じられた彼は、厳冬の満州を通り、朝鮮半島を縦断し、釜山から帰国した。明治21年の春だった。 

 当時朝鮮では、開化政策の影響で社会が大きく混乱し、国王の妻の閔妃の一族と父の大院君の政治的対立が強まっていた。ついに大院君は軍隊の一部を動かし、開化政策を強要する日本の公使館を焼き討ちし、閔妃一族を追放して政権を握るクーデタに出た。日本はただちに軍隊を送ったが、清の軍も介入し、大院君を捕らえて拉致し、閔妃一族が政権に復帰した。閔妃は清の力を後ろ盾に、日本の勢力を排除する政策を取った。
 明治27年(1894年)、東学党の乱が起こると閔妃は鎮圧のために清国の助けを求め、日本も出兵した。ロシアや西欧列国が虎視眈々と介入の口実を探るなか、日本は自国の安全保障のため、すばやく朝鮮に地保を確立しなければならなかった。日本は王宮から韓国兵を排除し、幽閉されていた大院君を迎えいれ、大院君が「清韓条約」の破棄、清国兵の撤兵を要求するという筋書きでコトを進め、戦争の大義名分を整えた。7月、日本は清国に最後通牒を送り、豊島沖の開戦で日清戦争が始まった。
 9月に陸上での一大決戦・平壌の戦いが行われ、日本軍が平壌を占拠すると、清軍は鴨緑江以北に退却した。海では黄海の海戦で、日本の艦隊は定遠、鎮遠を擁する清の北洋艦隊を打ち破った。定遠、鎮遠は巨砲を備えた当時最新鋭の戦艦で、提督も勇敢でよく戦ったが、兵は訓練を欠いた「弱卒」ばかりだった。それに対し、日本の兵士は上から下までよく訓練され、志気が高かった。死んでもラッパを口から離さなかった喇叭卒・木口小平や、瀕死の重傷を負いながら「定遠はまだ沈みませぬか」と問いかけた「勇敢なる水兵」三浦虎次郎のエピソードは、日本軍の強さの秘密の一端を開示している。
 黄海の海戦で敗れた清国艦隊は旅順に逃げ、さらに山東半島の威海衛軍港に逃げ込んだ。日本軍はこれを封鎖し、海上からと同時に陸軍が背後から攻撃を加え、海岸の全砲台を占拠すると、2月に旗艦・定遠に白旗が上がった。

 この戦争で最も慎重かつ冷静だったのは、政府であり、軍の中枢だった。列強が鵜の目鷹の目で監視し、見物している中で、日清の戦いは行われていた。下関で3月に始められた講和交渉は4月にまとまり、伊藤博文と李鴻章が条約に調印した。条約の内容は、第一に清国が朝鮮を自主独立の国と認めること、第二に遼東半島の日本への割譲、第三に清から日本への賠償金の支払いだった。
 柴五郎は広島の大本営陸軍部の参謀として勤めていたが、遼東半島の割譲地域の線引きには彼の現地に通じた知識が生かされた。

 (つづく)

▼柴五郎が線引きに参与した遼東半島は、ロシア、ドイツ、フランスの「三国干渉」によって日本は清に返還することを余儀なくされ、国民は「臥薪嘗胆」の10年間を送ることになった。しかし極東における国際政治の問題はいずれあらためて触れるとして、話を五郎に即して先に進める。
 清から日本に割譲された台湾の清国軍と住民の中に、割譲に憤慨し、「台湾民主共和国」として独立を宣言する動きが起きた。明治28年5月に日本は軍を送り、五郎は台湾総督府のスタッフとしてこの島に上陸した。在留外国人の保護や清国軍の敗残兵の処理のために、五郎の英語、フランス語、支那語の能力は欠かせなかった。日本軍は敵のゲリラと猛烈な暑さ、マラリアや疫痢、コレラ、デング熱などの風土病に悩まされたが、10月に平定を終えた。この間の日本軍の戦死者は57名、病死者は338名だったという。 

翌年1月、五郎は英国大使館付きの陸軍武官として赴任した。太平洋を渡りバンクーバーに上陸し、大陸横断鉄道でトロントに出、そこからシカゴ、ニューヨークへと移動、また船に乗り、ロンドンに着いた。

 明治31年(1898年)に、アメリカとスペインの間に戦争が勃発する。スペイン領だったキューバで独立運動が盛んになると、アメリカの世論は独立運動に味方し、世論が盛り上がる中、アメリカはついに開戦に踏み切る。
 五郎は東京からの指示で、戦況視察のためにロンドンからワシントンに向かった。当時、アメリカの日本公使館に陸軍の駐在武官がいなかったのは、アメリカには特に学ぶべき「陸軍」が存在しなかったからだ、と村上は言う。当時のアメリカ陸軍の常備軍は、わずか3万に過ぎず、ヨーロッパや日本の軍隊の兵器、規律、訓練や軍隊運用の水準に比べると、格段に劣っていたのである。
 ワシントンの公使館で、五郎は留学中の海軍大尉に引き合わされた。秋山真之といい、五郎はその兄の秋山好古とは幼年学校、士官学校を通じて同期生であり、弟が海軍にいるという話も聞いていた。一方秋山真之も、観戦武官としてイギリスからやってくる柴五郎陸軍少佐が、支那事情についての権威であり、日清戦争に大本営の参謀として参画した新進有為の士官であることを、聞き知っていた。二人はたちまち意気投合し、アメリカとスペインの軍事力について語り合い、輸送船に乗り込んで米西戦争を観戦した。
 戦争はスペインの敗北で終った。アメリカは講和条約によりキューバ、プエルト・リコを傘下に収めてカリブ海を制し、またグァム、フィリピンを奪い、一大海洋国家として新たな一歩を踏み出した。

明治32年に柴五郎は帰国命令を受け、東回りで帰国の途に就いた。ロンドンから船でマルセイユにわたり、マルセイユからカイロ、カイロからボンベイへ、そしてインド亜大陸を縦断して、カラチ、デリー、ラングーンと移動した。この間五郎は各地のイギリス武官の個人的な客となり、どこでも歓待された。歩兵の演習から砲兵の射撃訓練まで、見たいものはすべて見た。シンガポールではロンドンで親しく交際していた将軍の紹介状が効き、総督に招かれたり、司令官の破格の好意でシンガポール要塞の砲台や軍港まで、くまなく案内された。
 翌年(明治33年)2月、中佐に進級した五郎は、今度は清国の日本公使館付き武官として北京に赴任することになった。 

▼日清戦争後、欧州列強による支那の分割競争は一段と進行した。ドイツは、遼東半島を日本から返還させてやった「恩」をちらつかせながら膠州湾の「租借」を申し入れ、艦隊を送って占拠し、力づくで領有を認めさせた。同様にロシアは旅順港と大連湾を領有し、イギリスは威海衛を、フランスは広州湾を領有した。イギリスはさらに、広州湾を領有したフランスとの「勢力の均衡」を理由に、香港島の対岸の九龍を取り、上海―南京間の鉄道の敷設権や揚子江岸における諸々の権益を確保した。
 柴五郎が北京に赴任するすこし前から、義和団と称する結社が勢いを増しつつあった。義和団はもともと、「呪文を念じて拳を行えば、刀や槍によって傷つくことはない」と信じる者たちの結社だが、それが急激に勢力を伸ばした背景には、キリスト教の「浸透」に対する民衆の反感や不満があった。彼らはキリスト教民を襲ってこれを懲らしめ、次第に教会を襲撃し、破壊するようになり、それはさらに欧州列強による支那の蚕食への反発となって広がった。やがて義和団の一団が北京市内に姿を見せ、あちこちに集まり、公然と気勢を上げるようになった。
 公使館区域は、広大な北京市の天安門の南東に位置する、東西約900メートル、南北約800mの区域である。区域内には民家もあるが、南側に内城壁が走り、各国の公使館が固まってある。日本公使館はそのほぼ中央にあった。不穏な情勢に、外国人たちはほとんど公使館区域に集まり、迫害を恐れるキリスト教民たちも、北京城内に逃げ込んできた。
 北京の外交団は、天津の外港の大沽(タークー)に常時停泊している各国の軍艦から、とりあえずの救援部隊として海軍陸戦隊400名あまりを呼び寄せた。彼らが鉄道で北京に到着したのは5月31日で、イギリス82名、フランス78名、ロシア51名、イタリア31名、アメリカ54名、日本は将校以下25名だった。6月3日には、ドイツとオーストリアの将兵84名も到着した。
 だが天津―北京を結ぶ鉄道は、そのあと義和団によって破壊される。外交団は大規模な第二次救援隊を至急北京に差し向けるよう天津に打電し、イギリスの東洋艦隊司令官を指揮官とする二千人の混成部隊が編成されたが、鉄道が不通のため、部隊は長期間の立往生を余儀なくされた。北京―天津間の電信も不通となり、また蒙古経由でヨーロッパとつながっていた電信線も断たれ、連絡が不可能となった。 

▼6月7日、義和団による万一の襲撃に備え、各国の公使館付き武官や陸戦隊の指揮官たちはイギリス公使館の広間に集まり、公使館区域の具体的な防衛計画を話し合った。五郎は北京の地理に詳しく、密集している支那家屋の構造や強度についても精通しており、また事の重大さも予感していた。彼は各国公使館の防御の難易、連絡の通路や方法などを、実地に歩いて確かめ、調べ上げていた。しかし彼は議論を主導するようなことはせず、自分の考えに合致する場合にすかさず賛意を表すという方法で、巧みに議論を望ましい方向に導くことに努めた。公使館区域の防衛方法が、一応まとまった。 
 武官たちは民間人から有志を募り、義勇兵部隊を編成することも申し合わせた。日本の義勇兵には、公使館員や留学中の学者、新聞記者、写真師や植木職人まで志願し、31名となった。
 6月11日の朝、各国公使館は北京郊外の鉄道駅に、到着するはずの救援部隊を出迎えに、館員を出した。しかし鉄道が動かないため、部隊が到着するはずがなく、電信が不通のため公使館では事情が分からなかった。そして鉄道駅から空しく帰る途中の日本の公使館員が、支那の警備部隊に惨殺される事件が起きた。この悲報は逃げ帰った支那人従僕によって伝えられ、各公使館の人びとを震撼させた。彼らは清国朝廷と官兵に、まだ多少の治安維持の望みを残していたからである。
 6月13日夕方、義和団の大集団がついに公使館区域に侵入を試み始めた。城門には清国官兵が大勢たむろしていたが、気勢を上げながら練り歩く義和団の暴徒を制止しようとはしない。夜、公使館区域の端にあるオーストリア公使館が襲撃され、日本兵、フランス兵が防戦に駆けつけた。翌日にはベルギー大使館が襲撃され、これは日本の陸戦隊が駆けつけ撃退した。防備のため、日本兵は要所に石を積み上げ、胸壁を築いた。義和団による放火により、火災が各所で発生した。
 6月19日、清国政府から、公使館員は24時間以内に北京から退去し、天津まで清国官兵が護送するという提案があった。各国公使は24時間の出発延期、移動の便宜供与、途中の安全保証の要求を出した。清国政府からは回答がなく、各国の代表として清国政府に向かったドイツ公使が、途中で狙撃され死亡した。各国武官会議の結果、公使館退去は籠城よりも危険であるとの結論に至り、公使館を死守する方針を決議し、英国公使へ指揮権を委任した。
 6月20日午後、義和団に替わり、清国官兵が公使館への攻撃を開始した。

 (つづく)

▼義和団の暴徒は銃砲を持たず、刀と槍をかざして喊声を上げ、突進する。しかし清国官兵は銃砲を持ち、まず公使館区域の北東の端にあるオーストリア公使館を銃撃した。オーストリア兵は公使館を捨ててフランス公使館へ逃げ込み、彼らに守備を頼っていたベルギー公使館も、同様に逃げなければならなかった。この夜、ベルギー公使館が焼かれた。
 戦闘二日目の夜、各国武官はイギリス公使館に集まり、オーストリアの中佐を総指揮官に選んだ。各国の部隊がばらばらに闘っていたのでは、とうてい公使館区域全体を守ることは不可能だと痛感したからだが、自分の持ち場を捨てて他所の公使館に逃げ込んだ弱将を選んだのは、先任の中佐だったからである。寄り合い世帯の連合軍では、位が最上位で先任であるという基準以外に、選出の方法はなかった。 五郎も中佐だが、まだ昇任してから日が浅く、東洋人である。欧米人の東洋人に対する蔑視は牢固として存在しており、東洋人の指揮官のもとに自分の生命を預けることなど、彼らには考えも及ばぬことだった。
 しかし翌日、オーストリア兵が「全員退却」のラッパを吹きならすと、それが総指揮官の部隊の合図であることから、各戦線の将兵たちは何事が起きたかと、イギリス公使館に向かって殺到した。そのような取り決めとなっていたからなのだが、集合してみたものの何が起こったのかはさっぱり不明だった。各国の指揮官たちは、かんかんに怒りだした。オーストリアの中佐は一昨日も自分の持ち場を捨てて逃げ、今日もこのていたらくである。とても指揮を任せておけない。
 そこで公使団が協議し、イギリス公使のマクドナルドに総指揮官に就くよう要請し、マクドナルドも了承した。もともと彼は軍人の出身で、エジプトやスーダンで実戦の経験もあった。マクドナルドはこのあと柴五郎を信頼し、その知見を全面的に活用して籠城戦の総指揮をとることになる。
 清国官兵との戦闘が始まって三日の間に、オランダ、オーストリア、イタリアの公使館も焼かれ、列国公使館側は戦線縮小を余儀なくされていた。

▼公使館区域の一画に、清朝の王家の血筋である粛親王の屋敷・「粛親王府」があった。粛親王自身は騒乱を恐れて別宅に移り住んでいたが、それは区域の北の中央部に位置する2万平方メートルもの広大な屋敷だった。
 タイムズの特派員・モリソンは熱血漢で、まだ清国官兵が公使館への攻撃を開始する以前、キリスト教民500人を義和団の殺戮から救出したが、そのあとの収容場所に困り、柴中佐を訪ねて相談した。柴中佐は「粛親王府」が良いと答え、自分で馬車に乗って粛親王に会いに行き、事情を話して了解を取った。粛親王は、西洋文明を積極的に取り入れるべきだと考える開明派で、日本にも強い関心を持っていた。のちに東洋のマタ・ハリと呼ばれた川島芳子は、粛親王の実の娘である。
 「粛親王府」の地形は公使館区域の中で少し高く、もしここが敵の手に墜ちれば区域は東西に分断され、ばらばらになってしまう戦略的要所だった。柴中佐はそのことをマクドナルドと話し合い、マクドナルドは日本にその防衛を委ねた。日本の水兵と義勇兵計60名が、敵の攻撃の集中するこの広大な難所をひきうけることになった。
 柴中佐はここに堡塁をつくらせ、また家屋を引き倒して戦闘用に王府を整えた。工事道具もなく、人手も圧倒的に不足していたが、収容された教民がよく協力して工事のために働いた。
 6月23日の早朝から、粛親王府は500の敵兵による攻撃を受けた。北隣の米倉の上から射撃を浴びせ、北門にはしごをかけ、撃ち落しても撃ち落しても新手が侵入を試みる。また壁の根元を掘り崩して壊そうとし、それに気づいた柴中佐は教民たちに命じ、敷石や瓦を敵の頭の上に雨あられと投げさせた。マクドナルドはイタリア人部隊を応援に送り、柴中佐の指揮下に入れた。

戦闘はほとんど休みなく続いた。ときどき清国官兵が攻めてこない時間があると、柴中佐は陣地の補強とそれが破られた場合の第二防御線の築造を急いだ。土嚢をつくるための布類がまったく不足していたので、王府の300室もある建物を探索してカーテン類をすべてそれに充て、毛皮類や金襴緞子の衣装、シナ鞄なども徴発し、泥や砂を詰めて土嚢とした。
 しかし敵が砲を二門据え、砲撃を始めると、対応するすべがなかった。東門が破壊され敵兵は喊声を上げて王府の中に侵入し、建物に火を放った。建物は炎天下に、つぎつぎと延焼した。柴中佐は味方を三隊に分け、一隊は敵との銃撃戦、一隊は消火活動、もう一隊は新しい防御線の構築に当たらせ、翌日の戦いに備えた。

▼戦闘が困難になるにしたがって指揮官としての柴中佐の信用は絶大となり、皆が柴中佐の判断を求めてやって来るようになったと、いくつもの証言があるが、日本の将兵の奮戦ぶりも、多くの外国人の心を深く動かした。村上兵衛の記述を、長くなるがそのまま引用しよう。

 《日本人の勇敢さは、このころになると伝説以上のものになっていた。しかも彼らは深傷を負っても呻き声ひとつ立てない。
 あるイギリスの義勇兵は、隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を、銃弾が掠めたのを見た。真っ赤な血が飛び散った。
 しかし彼は、後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもなかった。
 「くそっ」と叫んだ彼は、手拭いを腰から取り出すと、やおら鉢巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように、あいかわらず敵の監視をつづけていた。
 ヨーロッパ人の眼には、それは異様な出来事に映った。人間業とは、とうていおもえなかった。
 また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本の兵士は、ヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きなうめき声を出したりはしなかった。
 彼は、口の中に帽子を突っ込んで、それを噛みしめ、少々唸りはしたが、そうして手術のメスの痛みに耐えた。
 病院に運ばれた日本兵士たちも、物静かな点ではまったく変わらなかった。しかも、彼らは沈鬱な表情ひとつ見せず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとした。
 イギリス公使館の、すっかり汚れた野戦病院に運び込まれた負傷兵たちは、おおむね同国人たちが近くのベッドに並んで横たわっている。
 日本の負傷者たちのいるところには、日本の婦人たちがついて、この上なくまめまめしく看護にあたっていた。
 その一角は、いつも和やかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
 ながい籠城の危険と辛苦は、文明に馴れた欧米人、とくに婦人たちの心を狭窄衣のように絞めつけ、雰囲気は陰惨になりがちだった。なかには明らかに発狂症状を示す者もいた。
 だから彼女たちは、日本の負傷兵たちのまるで日常と変わることのない明るい所作に接すると、心からほっとした。看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった。
 このころの日本人たちは――士官も、インテリの義勇兵も、農民や職人あがりの兵士たちも、なぜこのように勇敢で、沈着で、しかも明るかったか、うまく説明はできない。
 国民性といっても、こういう外面的な所作や反応は、時代とともに変わりやすい。
 明治人――といっても、幕末から明治初期に生まれ育った日本人には、こういう立居振舞を当然と心得る気風が、全体にあったようである。
 サムライの栄光は、すでに過去のものであった。しかし、まさに死滅した武士のモラルの残光が彼らを照らし、彼らの行動の規範となっていた。》

  そのときの日本人の勇敢さ、我慢強さ、明朗闊達さについて、村上は次のように補足している。
 《北京籠城に際して、柴中佐がとくに日本人の部下に対して、精神訓話のようなものを行ったという形跡はない。そして勇敢だったのは、何も水兵たちとは限らなかった。
 やはり、これは当時の日本人の国民性と考えるほかはなさそうである。》

 (つづく)

▼北京に籠城した人びとは、天津からの救援部隊の到着を一日千秋の思いで待っていた。6月12日に北京の南60㎞の地点まで来たという知らせを聞いて、彼らはあと二、三日の辛抱だ、二、三日頑張るのはそう難しいことではない、と考えた。  しかし鉄路の破壊は予想以上に大きく、救援部隊は復旧のための十分な工具を持たず、食糧も乏しく、その上義和団の襲撃を受け、部隊はまた天津に引き帰さざるをえなかった。
 当時イギリスは、南アフリカでボーア戦争に忙殺されており、アメリカはフィリピンで、アギナルド将軍の率いる独立軍と戦っていた。北シナの騒乱に最も早く兵を送れるのは地理的に近い日本だったが、日本政府は自らの行動に対して欧米列強から猜疑の目が注がれることを、神経質に恐れていた。独、仏、露による三国干渉は、つい先ごろのことだった。
 ヨーロッパでは、北京の公使館員や居留民が全滅したというニュースが流れ、イギリスの世論は沸騰し、イギリス政府は逡巡する日本政府に、日本の出兵は各国の要求である、と出兵を強く求めた。日本政府が陸軍の第五師団を送ることを決定したのは、すでに6月も下旬だった。
 陸軍の部隊は、天津の外港・大沽(タークー)に到着したあと、さまざまな困難に直面した。大沽は遠浅の港のため、沖合で平底のはしけに乗り換えなければ兵は上陸できず、千人余りが上陸するのに6日間もかかった。また、飲料水の不足にも悩まされ、日清戦争の経験から大陸の水の悪さは承知していたが、大部隊の必要量を確保するのは予想以上に困難だった。
 7月3日に柴中佐が日本人の管理下にある食糧を調べると、2週間分の米と若干の昆布、インゲン豆だけだった。弾薬は水兵1人につき55発、義勇兵は僅か20発だった。医薬品は底をつき、イギリス公使館の病院から分配を受けなければならなかった。この日までの連合軍の戦死者は37人(日本軍4人)、負傷者は65人(日本軍11人)、約三分の一の損害である。これには義勇兵は含まれていない。
 7月半ば、粛親王府では接近戦が続いていた。このころになると人びとは疲れ果て、頭から瓦石を投げつけられても気づかず、昏々と眠っている兵士もあった。哨兵もしばしば、銃眼に頭を突っ込んだまま、眠りこけていた。睡眠時間3時間、4時間で前線に張り付いたままの日夜が一カ月近くにおよび、人力の限界はとうに越えていた。見かねたマクドナルド公使が応援の兵10名を送り、日本兵はひさびさの休憩時間を持った。
 71710時ごろ、早朝から続いていた激しい銃撃がぴたりとやんだ。夜になってもマレに銃声が聞こえるぐらいで、半休戦状態は続いた。そのとき天津に向けて放っていた密使が、救援軍の福島少将の返書をもって無事に戻って来て、疑問は氷解する。各国の連合軍が天津城を落とし、清国軍をさんざんに打ち破ったことが、清国政府内の抗戦派の意気をくじき、清国側は和平の道を探らざるをえなくなったのだ。しかし1万6千人に膨れ上がった連合軍の動きは遅く、天津を出発できたのは7月も末だった。 

▼奇妙な「休戦」のあいだ、清国兵の中には鶏卵や野菜、果物、砂糖、豚肉などをひそかに売りに来る者があったという。日本の守備陣はこれらを買って皆で分け、さらには銃や弾薬等も彼らから購入し、陣地の構築を進めた。
 8月11日ごろ清国軍の攻撃が再開された。翌12日は銃撃の激しさが増し、7月の最盛期の攻撃を上回るほどになり、13日にはクルップ砲の榴弾が守備陣の頭上に降り注いだ。
 しかし翌8月14日、ついに連合軍が北京に到達し、公使館区域を長い籠城から解放した。柴中佐は旧知の救援軍の福島少将と再会し、無事を喜び合った。

北京解放後、最初の列国指揮官会議で、籠城軍の総指揮を執ったマクドナルド公使は冒頭、北京籠城の経過について報告した。武器や食料の窮迫、守兵の不足を、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の働きによって補い、もちこたえたことを淡々と述べ、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と付け加えた。
 タイムズの特派員モリソンのレポートにより、コロネル・シバ(柴大佐)の名前は世界に知れわたった。柴大佐は、欧米で広く知られる最初の日本人となった。 

マクドナルド公使は、つぎに駐日公使に転じたが、賜暇休暇で英国に帰り、ヴィクトリア女王に謁見し、首相に東洋の事情について詳しく報告した。それから駐英日本公使館を訪れ、攻守同盟を含む長期の日英同盟をイギリス首脳たちが検討していることを告げ、日本側の意向を打診した。日本公使は小躍りして喜んだ。世界の超一流国であるイギリスとの同盟は、切実に希望するところだったが、それは玉の輿を夢見るような高望みと思われたからである。
 同盟の協議は異例の速さで成案に至り、1902年、ロンドンで調印された。イギリスが「栄光ある孤立」政策を捨て、日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐためであり、利害の一致が見られたことによるのは言うまでもない。しかし柴中佐とその勇敢な部下たちの活躍がなかったならば、イギリスの積極的な「求婚」もなかっただろうと、村上は書く。
 しかしこれは、村上兵衛の独創的見解というわけではない。北京に留学中の東京帝大助教授・服部宇之吉は、義和団の事変が起きると日本義勇隊に加わり、柴中佐の指揮の下、伝令の任務に就いた。服部は後日「北京籠城回顧録」という文章を公にしているが、その最後に「同胞の働き振り」という一節を設け、日本の水兵と義勇隊の闘いぶりに言及している。彼らは少数で、貧弱な武器しか手にしていなかったにもかかわらず、敵の攻撃のもっとも猛烈な難処を引き受け、「しかも一致して常に快くその務めにあたりいたることは、深く外国人の心を動かし、ことにもっとも強く防御指令官たる英国公使の心を動かしたりと見えたり。(中略)知らず、後年の日英同盟は、遠くこの籠城に源を発せるにはあらざるなきか。」

《……柴五郎という北京の地理風俗、言語につうじ、さらに英仏の言葉も自在にあやつって連合国の軍民と意思を疎通し、実質的に防御を束ねる人格が存在しなかったならば、籠城戦をたたかい抜けたかどうか、すこぶる疑わしい。》
 《義和団事変における柴五郎の行動は、こうして日本の、そして世界の歴史を変えた。日英同盟という後ろ盾無しに、それから二年後、日本政府の対露開戦という決断も、あり得なかったからである。》(『守城の人』)

▼日露戦争が明治37年2月に始まると、柴大佐は野戦砲兵第十五連隊長として出征した。連隊は第二軍に所属し、旅順要塞の前進基地が築かれた南山を攻略し、遼陽の会戦を多大の犠牲を出しながらも勝ち抜いた。翌年3月の奉天の会戦で、柴大佐は至近弾の爆風で昏倒し、砲弾の破片で頭部に傷を負ったが、横臥したまま指揮を執り、3日目には立ち上がった。日本軍は奉天の戦いを制し、5月の日本海海戦では完璧な勝利をおさめ、ポーツマスでの講和条約に持ち込んだ。
 このあと柴五郎は、佐世保要塞司令官や小倉の第十二師団長、東京衛戍総督などを務め、大正8年、陸軍大将に親補される。そして台湾軍司令官、軍事参議官を務め、65歳となった大正12年、予備役に編入された。

 公的生活では順風満帆だった五郎だが、私的生活では、家族がつぎつぎに病気で亡くなる不幸に見舞われた。最初の妻は1年余りで亡くなり、二度目の妻や息子たちも、早く亡くなり、7人の孫のうち6人が夭折した。晩年は世田谷の広い屋敷に、娘や孫娘と暮らした。
 敗戦の昭和20年、五郎は幼年学校以来書き続けてきた日記を焼き、9月15日に遺言をしたためた。そして家族が寝静まった真夜中、脇差で切腹を図ったが失敗する。絶対安静の1週間が過ぎ、どうやら日常生活に復帰できるようになったが、1213日、静かに息を引き取った。87歳だった。

▼「会津人柴五郎の遺書」という副題を持つ『ある明治人の記録』という書物が、石光真人の「編著」として1971年に出版されている。石光真人は父親の縁で晩年の柴五郎のもとを訪れ、話を聴き、その死の三年前に「少年期の記録」を貸与され、校訂を依頼されたという。五郎から聞き取ったものを草稿に補足し、「文体は草稿の調子と明治の雰囲気を崩さないようにリライトして統一し、読みやすくするように努めた」と書いている。たしかに文語体ながら読みやすく、筆者は出版当時読んで感銘を受けた記憶があるのだが、村上兵衛は「潤色がある」と言い、資料としての価値を認めていない。内容は、柴五郎の士官学校時代の「竹橋事件」までを扱っている。
 石光真人の父は石光真清。明治元年に熊本城下に生まれ、父が亡くなったあと叔父・野田豁通を頼って東京に出た。野田の指示で士官学校を卒業したばかりの柴五郎の家に下宿し、幼年学校受験の指導を受け、無事入学した。日清戦争後の台湾平定作戦に従軍し凱旋したあと、ロシア研究の必要を感じ、ロシア語を学び、ハルビンにわたって諜報活動に従事する。日露戦争に第二軍の副官として従軍するが、その後軍籍を離れた。昭和17年没。厖大な手記を残し、長男・石光真人の手で整理、編集され、『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』の4部作として出版された。

 (おわり)

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