政治社会のスナップショット 4
清々しさと鬱陶しさ
                     【ブログ掲載:2018年6月8日】


▼長机のうしろに責任者が2,3人立ち、記者たちに向かって深々と頭を垂れる。カメラのシャッターが一斉に音を立て、ひとしきり終わったところで責任者は頭を上げ、席に着き、記者との質疑応答が始まる。―――「不祥事」が発覚したときのお馴染みの光景だが、筆者はいつも目をそむけたくなる。
 目をそむけたくなるのは、ひとが頭を垂れた姿を見るのが嫌だという美学的理由が大きいのだが、そのような定式化された「謝罪」から、「謝罪」の内実が感じられないということも理由の一つである。謝罪会見は、なぜそのような不祥事が起きたのかという疑問に答えず、逆に疑問や不満にふたをする役目をすることも多い。

 たとえば子どもが仲間からのいじめを苦に自殺したような場合を考えてみれば、わかりやすい。子どもの親は、自分の子を含め、誰がどのように行動したのか、なぜ子どもたちはそのような行為に走ったのか、誰が本当に悪かったのか、を知りたいと痛切に思うだろう。しかし学校長や教育委員会の責任者が親の希望に沿うことはまれで、彼らは「教育的配慮」や「プライバシー」などの名のもとに、事実を覆い隠す方に力を注ぐことが多い。彼らが記者たちの前で頭を下げる「謝罪会見」は、事実を明らかにするという目的からは遠く、うっとうしいものとならざるをえない。

 

▼2週間ほど前に行われた日大アメリカンフットボール部の宮川泰介選手の記者会見は、社会の「お約束」の定式化された謝罪会見とは違い、すがすがしい印象を与えた。
 5月の初め、日大と関西学院大学のあいだで、アメリカンフットボールの定期戦が行われ、ここでボールを持たない関学のクォーターバックに日大選手が背後から激しいタックルをかけて倒す、という反則行為があった。関学は抗議し、日大は回答書を送ったが、その中で「指導と選手の受け取り方に乖離が起きたことが問題の本質」だと述べた。
 しかし関学大は、「疑問や疑念を解消できておらず、誠意ある解答とは判断しかねる」と納得せず、関学大の監督は、「指導者がすぐに来て選手と保護者に謝るのが筋」と、日大の態度を非難した。
 反則タックルの場面の生々しい映像がSNSにアップされると急速に拡散し、メディアのニュースでも取り上げられ、映像は繰り返し流された。まったく無防備な選手を、背後から走ってきた選手(宮川)がタックルを掛けて倒すという映像を見た視聴者の関心は、なぜこのような反則行為が行われたのかという点に向けられる。宮川泰介選手の日本記者クラブでの記者会見(5/22)は、こういう社会の注目が集中する中で行われた。
 宮川選手はケガを負わせた相手選手に謝罪するとともに、監督やコーチから指示された言葉を具体的に証言し、判断を社会に委ねた。その発言と態度は、勇気ある誠実なものと社会は受け止めた。
 23日、日大の監督(内田正人)とコーチ(井上奨)が緊急会見を開いた。監督は、反則しろと指示はしていないと言い、コーチは、相手のクォーターバックをつぶせと言った自分の言葉を認めつつ、それは思い切って当たれという意味だったと弁解した。その発言と態度は、不誠実で信用できないものと社会は受け止めた。 

 日大の対応は後手後手に回り、非難の視線は大学の本体、日本大学の体質そのものに向けられた。アメフット部の内田監督は日大の常務理事も務める実力者で、その言葉はアメフット部内では絶対であり、コーチといえどももの言えない空気だったこと、内田監督が個々の選手と言葉を交わすことはほとんどなかったこと、などの話も伝えられた。内田監督は日本大学の体質そのものと見なされ、日大は内田とともに糾弾されることになった。
 内田=日大という明瞭な糾弾対象を得て社会は満足し、留飲を下げた。それは日本大学にとっては、理不尽なことであったかもしれない。しかし社会は生き物であり、うっとうしい、うんざりする話ばかりでは、その健康を維持することは難しい。

 

▼財務省は64日、森友学園との国有地取引に関する決裁文書の改竄や交渉記録廃棄の問題で、調査結果と関係した職員の処分を発表した。
 問題の責任者は前理財局長の佐川宣寿とされ、「停職3か月相当」として退職金を約500万円減額する処分を決めた。財務大臣・麻生太郎は、「このようなことが二度と起こらぬよう再発防止の先頭に立って責任を果たしていく」と、引き続き職にとどまる意思を表明した。このニュースは日大アメフット部の問題とは反対に、社会をうんざりさせた。
 多くの国民にとってモリ・カケ問題は、構図のはっきりした問題である。安倍晋三が森友学園や加計学園から金銭的な報酬を得たとは思わないが、安倍晋三の長期政権下で役人たちが彼の期待を忖度して行政のスジを曲げた問題と理解している。その理解は正しいのだが、そのことを「証明」することはなかなか難しい―――そういう問題として、一年以上にわたって生煮えのまま時間だけを浪費してきたのである。
 財務省の今回の「調査」は、多くの国民にとって十分わかっていたことの一部を、長い時間と膨大な人手をかけて政府がやっと認めたということにすぎない。達成感などみじんもなく、うんざりした気分ばかりが膨らみ鬱積している。
 モリ・カケはもういい、いつまでモリ・カケばかりやってるのかという声もあるだろう。筆者も半ばそう思っている。 

 「政治」をどう論じるべきなのか、という問題なのだと思う。国家社会にとって大切な問題をいち早く掘り出し、論じ、対応策を講じるのが平常時の「政治」の役割だとするなら、論じなければならない課題はモリ・カケ以外に無数にある。しかし国家社会の生理を健康に保つという意味で、モリ・カケを無視することはできない。強弁がまかり通り、数の力で理のある発言が抑え込まれるようなところでは、国民の不満は鬱積し、為政者の信用は失われるからである。 

 麻生太郎財務大臣は、決裁文書の改竄がなぜ必要とされたのかと質問され、「それがわかりゃ苦労しない」と答えたという。それがわからない男に「再発防止」ができるわけないだろう、と記者は言い返せばよかったと思うが、それはともかく、麻生太郎が財務大臣の職を辞することは財務省という組織の再生のために欠かせない条件である。麻生が職にとどまるという非常識を認めることは、長い目で見て日本の政治社会に大きな禍根を残すことになる。

 

▼外務省は65日、ロシア課長を「信用失墜行為」で停職9か月の懲戒処分にし、当該課長職から外したと発表した。「信用失墜行為」の内容については「セクハラ行為」だというだけで、外務大臣は「外交に関わる事案ではない。被害者のプライバシーがあるので(それ以上は)言えない」と、具体的な説明を避けた。
 国家公務員法99条は、「職員はその官職の信用を傷つけ、または官職全体の不名誉となるような行為をしてはならない」と定めているが、「官職の信用を傷つけ、または官職全体の不名誉となるような行為」を「信用失墜行為」と呼んでいる。外務省ロシア課長の行為が、外務省の説明どおり「セクハラ行為」で「信用失墜行為」に該当するものだったとして、どうしても財務省の佐川宣寿氏の「停職か月相当」の処分と比べたくなるのは、人情というものだろう。
 佐川の虚偽答弁は、理財局長という職の信用を傷つけるものではなかったのか?佐川の下で行われた大規模の決裁文書の改竄や記録の廃棄は、官職全体の不名誉となるような行為ではなかったのか?佐川の答弁とそのもとで行われた行為によって、またそれを復元する行為のために、どれだけの時間と労力が浪費されたのか?
 安倍首相と麻生財務大臣は、そういう「信用失墜行為」を犯した人間を国税庁長官に昇進させ、いまなお「適材適所」だったとうそぶいている。政治家を評価する際、彼らが目先の時間だけでなく、より長い時間軸を意識しているかどうかも重要な項目となるのだが、安倍と麻生の頭は目先のことでいっぱい、ということなのだろうか。

 

(おわり)

ARCHIVESに戻る