昭和精神史    桶谷秀昭

              【ブログ掲載:2019年7月12日~8月23日】

 

▼桶谷秀昭には『昭和精神史』と『昭和精神史 戦後篇』という二冊の著作がある。前者の『昭和精神史』は、昭和63年から平成3年にかけて雑誌「文學界」に連載され、平成4年に単行本が刊行された。後者の『昭和精神史 戦後篇』は、平成9年から11年にかけて同じく雑誌「文學界」に連載され、単行本は平成12年に刊行された。筆者の手元にあるのは両著作の文庫本だが、文庫本のページ数は合わせて1300ページにものぼる。
 『昭和精神史』は、19261225日の「昭和」の改元にはじまり、昭和20年に米国占領軍が進駐し、その占領政策がつぎつぎに実施されるところまでを扱っている。『昭和精神史 戦後篇』は、時間的には『昭和精神史』を引き継ぎ、「占領下二年目」という章からはじまり、昭和天皇の逝去で終る時間を扱う。
 筆者はまず『戦後篇』の方を取り上げたいと思う。それは桶谷の主張を、筆者が単に知識として知っている世界の中で判断するのでなく、筆者自身が実際に生きた世界の記憶と照らし合わせながら、考え、判断したいと思うからである。 

『昭和精神史 戦後篇』は、「占領下二年目」という章からはじまる。
  8月15日の天皇の戦争終結のラジオ放送のあと、国民は虚脱と判断不能の状態のまま押し黙り、先の見えない不安な日々を過ごした。敗戦という初めての体験を前に、これからこの国がどうなるのか、自分たちはどうなるのか皆目わからず、黙り込むより仕方がなかったのである。
  やがて連合国最高司令官のマッカーサー将軍が厚木に降り立ち、9月2日に日本の全権が降伏文書に調印し、米国の日本占領が始まった。GHQは東條英機ら戦犯容疑者を逮捕し、政治犯の釈放や思想警察の廃止、治安維持法や言論出版集会結社を制限していた諸法規の撤廃など、矢継ぎ早に占領政策を実施していった。12月には国家神道への国家の援助と関与を禁じる「神道指令」を出し、年の改まった昭和21年の元旦、天皇はいわゆる「神格化否定」の宣言を行った。2月に政府は、憲法改正要綱(松本試案)をGHQに提出したが、GHQはこれを拒否し、自ら作成した草案を政府に手交した。政府はその草案の受け入れを決定した。
 『昭和精神史 戦後篇』はそうした占領期の政治過程を述べつつ、同時期の文学者の作品や発言を紹介する。一人は、占領軍から「与えられた民主主義」に冷ややかな視線を向ける河上徹太郎であり、桶谷は河上の発言に賛同する。もう一人は、戦前戦中の国家体制の下で苦痛に満ちた挫折を体験し、戦後の「解放」の中で「第二の青春」を謳う荒正人である。桶谷は荒の発言に対して否定的であり、戦後の空気を反映した作品として従来の文学史が評価する「近代文学」派の仕事に対し、つける点数は極めて低い。
 日本国家の言論統制が撤廃され、何でも自由にものが言える時代が来たと考え、日本を支配している占領軍権力による言論への拘束を自覚しない作品形成は、「文学が本来持っているはずの時代への抵抗」を失っているがゆえに評価できない、と桶谷は考える。
 《管見によれば、占領下において“戦後”文学はあったが、敗戦文学は稜々たるものであった。敗戦に乗じた文学はいくらでもあったが、敗戦の悲しみにおいて発想された文学はかぞへるほどしかない。のみならずそれらは“戦後”文学的風潮の中でめだたなかった。》 

▼『昭和精神史 戦後篇』は「戦後文学と敗戦文学」という表題を立て、2章を設けて論じている。そこで採り上げられる文学者と作品は、次のようなものである。椎名鱗三『深夜の酒宴』、石川淳『焼跡のイエス』、野間宏『暗い絵』、『崩壊感覚』、武田泰淳『蝮のすゑ』、折口信夫「一つの連環咄」、保田與重郎「みやらびあはれ」、永井荷風『断腸亭日乗』、中野重治『五勺の酒』。この中で桶谷は、武田泰淳、中野重治、保田與重郎を「敗戦文学」として高く評価する。敗戦文学とは、「亡国の悲しみを歌う挽歌の声調を根底に持つ文学」である。また「日本人への同胞感情」を失わぬ文学である。「その系統の文学は、抑圧からの解放を叫ぶ戦後文学の影の中で、あるかなきかの声をひくく語った。」

 中野重治の『五勺の酒』は、初老の中学校校長が酒を呑んでクダを捲くという設定での、モノローグ・スタイルの短編小説である。発表は雑誌「展望」の昭和22年1月号であり、8月15日の玉音放送のこと、天皇の人間宣言のこと、新憲法のこと、戦後の世相のことなどを主人公は語る。以下は、天皇の地方巡行のニュース映画を観ていて、激しい憤りに見舞われたと語る場面である。 

 そこで甲高い早口で「家は焼けなかったの」、「教科書はあるの」と、返事と無関係でつぎつぎに始めて行った。訊かれた女学生は、それも一年生か二年生で、ハンケチで目をおさへたまま返事できるどころでない。そこでついてゐる教師が――また具合よく必ずゐるのだ――肘でつついて何か耳打ちするが、肝心の天皇はその時は反対側で「家は焼けなかったの」、「教科書はあるの」とやってゐるのだからトンチンカンな場面になる。さうして、帽子を冠ったと思へばとり、冠ったと思へばとり、しかしどうすることが出来よう。移動する天皇は一歩ごとに挨拶すべき相手を見出すのだ。(中略)もういい、もういい、手を振って止めさして、僕は人目から隠してしまひたかった。(中略)二十前後から三十までの男の声で、十二三人から二十人ぐらゐの人間がゐてそれがうわはゝと笑ってゐる。いひやうなく僕は憂鬱になった。なるほど天皇の仕草はをかしい。笑止千万だ。だから笑ふのはいい。しかしをかしさうに笑へ。快活の影もささぬ、げらげらッといふダルな笑ひ。微塵のよろこびのない、一さう微塵自嘲のない笑ひ。僕は本たうに情けなかった。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まったく張りといふことのない汚さ。道徳的インポテンツ。へどを吐きさうになって僕は小屋を出て帰った。(『五勺の酒』)

  敗戦と占領政策によって容認された「自由」と「エゴイズム」の解放の風潮に乗り、「民主革命」の旗を振る感覚は、おかしいのではないか―――。当時の中野重治の思いをそのようにとらえる桶谷は、次のように言う。「このとき中野重治は、日本に直面してゐた。(中略)なにもかも失って、裸形を異国軍隊の占領下に曝してゐる日本である。」

 筆者も、中野重治の『五勺の酒』が時代の「精神」の一部を表現していたということを、承認する。

▼「敗戦文学のもっとも美しい作品」と桶谷が呼ぶ、保田與重郎の「みやらびあはれ」という文章がある。
  筆者は、保田與重郎の文章をまともに読んだことがない。何かの折に引用されたものをいくつか読んだ記憶はあるが、意味不明のモーローとした文という印象であり、なぜこれが戦前のある時期の知識人の世界で「猛威」を振るったのか、まるで解せなかった。桶谷の説明によれば、保田は中国から復員し、故郷の奈良県桜井に蟄居し、昭和2212月にこの「みやらびあはれ」という文章を書いたということだが、筆者はもちろん読んだことも題名を聞いたこともなかった。

 十五日の放送は内閣告諭さへ殆ど聴取不能だった。その時私が何気なく自身に云い含めてゐたことは、今一度、情報をたしかめねば、といふことであった。誰もそれ以上に、何がどうかを判定する者は、軍病院内に一人もゐなかった。何らの命令も下らなかった。しかしこの種のわが判断こそ、教養者の通弊を現すやうに思はれた。その機に及んでも、あくまで我々は現代教養の通弊の中に住んでゐたのである。今一度情報をまたうといふ、さういふものの考へ方と態度で、私は幾度大事の時を見送ってきただらうか、しかもことこゝにいたって、なほさやうなひとり合点に陥ってゐる。この弱く悲しいひとり合点は、古代人の知らぬ罪悪である。現代罪悪観の外にある、最も忌むべき心の罪悪であると思はれた。(「みやらびあはれ」)

  復員した保田は「悲しみと恥ずかしさと憎しみ」の感情に襲われたが、それらが憤りに変わる前に、「今は却って自身の負目となった」。その「負目」の原因となる究極のものを明らかにしようとする「心のはたらき」が、「みやらびあはれ」という批評文ないしは随想の「ライト・モチーフ」だと桶谷は言う。
 筆者は「みやらびあはれ」という文章を、桶谷が何か所か引用している範囲でしか知らない。だから断定は差し控えるべきなのかもしれないが、上の文は保田本人が書くのとは別の意味で「ひとり合点」であり、「ひとりよがり」であるように思う。「現代教養人の通弊」を言い、「古代人の知らぬ罪悪」を言うのは、「日本浪漫派」の得意のスタイルなのだろうが、聴取不能の放送内容を誰かに確かめようと考えた自分の「心のはたらき」を、そのように拡張するのは理解不能というしかない。 

 どんな人でも国と民の重大事に当たって、徹頭徹尾の利己主義的傍観者であり得ない、時には責任者であり、賛成者となり、反対者ともなる。その同じ心持の一部で傍観者でもある。さういふ混乱した心の状態で、それに即しつゝ、しかも純一の道を通すといふことは決して容易ではない。(「みやらびあはれ」)

 桶谷は、「この容易でないことを表現しようとする発想から、敗戦文学は生まれた。それはほそぼそとした内部の径を通ってあらはれるしかなかった。そこに伴うのは憎悪でなく、いかなる権力も組織し得ぬ悲しみと憤りである」と書く。桶谷の言うことはある程度わかる。しかし保田の言うことは、筆者には理解できない。保田與重郎の評価については保留して、検討を先に進めたい。

 (つづく)

▼『昭和精神史 戦後篇』は、東京裁判に第二章、第五章、第六章の3章を割いている。
 国際軍事裁判所憲章は、対象とする犯罪に55の訴因を設け、これらを大きくa「平和に対する罪」、b「通常の戦争犯罪」、c「人道に対する罪」に分類している。東京裁判の被告人28名は、主として「平和に対する罪」に属する訴因で起訴された。(ちなみにいわゆる「A級戦犯」とは、憲章のa項「平和に対する罪」で起訴され、有罪とされた被告人を指す言葉であり、「A級」とは罪の大きさではなく、犯罪類型を示すものである。)

東京裁判の特徴は、「平和に対する罪」という考え方にある。被告たちは昭和3年から昭和20年に至る期間、東アジアと太平洋、インド洋地域において、軍事的政治的経済的支配権を獲得するために、侵略戦争を行う「共同謀議」に参画した、というのが訴因の第一である。しかし当時、仮に「違法」な戦争だったとしても、その戦争に関わった個人の責任を問う法理は確立されたものではなかったし、「共同謀議」を具体的に立証することは不可能だった。だから東京裁判を法理的に批判することはきわめて容易である。
 だが、だからといって東京裁判を「勝者の裁き」として断罪し、一切を否定して終わるというシニカルな態度は、筆者はとても取る気になれない。 

東京裁判を否定する人びとに人気のあるインドのパル判事は、その長大な判決書の中で、満州事変において日本が取った行動に対して、好意を持ったり是認したりすることは難しい、と述べる。けれどもそれを犯罪として非難することもできない、と言う。「鉱物に乏しい日本にとって、満州における経済的権益は贅沢品ではなく、国民生活に絶対不可欠の必需品であった」。ソ連とその援助を受ける「戦闘的国家主義」の中国が共同戦線を張った場合、日本は苦労してようやく勝ち得た大国の地位を失うことになっただろう。―――

桶谷は「パル判決書」から上のような主張を引用し、次のように言う。

《ベルサイユ条約から満州事変にいたる日本が置かれた国際環境を、その歴史的変動において見事に描いてをり、パルはその正確な歴史認識に立って、日本が満洲にたいして取った外交的態度が避けやうもなく強ひられてゐた事情を主張してゐる。》 

桶谷はまた、東京裁判における被告のうち、帝国日本の弁明に努めた東條英機と、一切の弁明を拒否し黙って裁判に耐えた廣田弘毅を取り上げ、裁判を論じている。東條の弁明の根元にある考えは、彼が外国人記者団に語った次の言葉によく表れている。
 「この裁判の事件は昭和三年来の事柄に限って審理してゐるが、三百年以前少なくとも阿片戦争までさかのぼって調査されたら事件の原因結果がよく分かると思ふ。またおよそ戦争にしろ外交にしろ、すべて相手のあることであり、相手の人びと、相手の政府とともに審理の対象となったならば、事件の本質は一層明確になるでせう。」
  桶谷は、「せめて阿片戦争までさかのぼってといふ問題意識はきわめて正当なもの」と賛同する。だが筆者は、歴史の見方はともかく、桶谷の記述に大きな疑問を抱く。東京裁判とそこでの被告人の言動が、「昭和の精神史」とどう関係するのか、何も示されないからである。
 その時代の出来事と表現から「時代の精神」を読みとるという『昭和精神史』の方法は、東京裁判を扱った3章では少しも生かされていないようにみえる。それとも東条英機ら裁判の被告たちの主張をもって、「昭和の精神」の顕われとでもいうのだろうか?

▼『昭和精神史 戦後篇』の第十章は、「占領終る」と題し、昭和26年のサンフランシスコ講和条約調印と翌年4月の条約発効の時期を対象としている。桶谷は、昭和27年に雑誌に連載された武田泰淳の『風媒花』をとりあげ、竹内好や三島由紀夫の批評も併せて取り上げながら、時代を論じている。つまり『戦後篇』全17章のうち10章が、占領下の日本の7年間の記述に充てられ、高度経済成長が始まり、やがてそれが日本社会を根元から変えたと思われるその後の40年近くに関しては、残りの7章しか充てられていない。
 「高度経済成長により、それ以前に書かれた論文のうち半分は無効になった」と桑原武夫が語った、という話を聞いたことがある。いつどこでこの話を聞いたのか、筆者はまるで記憶にないから、情報の真偽のほどは保証できないが、話の内容自体はしごく妥当であり、桑原武夫ならそういう趣旨のことを発言してもおかしくない、というふうに筆者は考えてきた。
  日本経済の高度成長は、昭和前期の農本主義者たちが日本社会の基礎と考えた農村と農民の風景をすっかり変え、戦後の学者たちが日本経済の宿痾として盛んに論じた「二重構造」を、あっけなく解消してしまった。経済の高度成長が人びとの「精神」に与えた巨大な影響と、その結果としての変化を、どう考えるか。それは「昭和精神史」の大きなテーマのひとつになるだろう、と筆者は漠然と考えていた。

しかし桶谷秀昭は、筆者の期待に応えるような形で、「昭和精神史」を考えていない。『戦後篇』は、第十四章に「高度経済成長下の文学」と題する1章を設けているが、ここで採り上げているのは島尾敏雄『出発は遂に訪れず』、庄野潤三『静物』、安岡章太郎『遁走』『海辺の光景』、石原慎太郎『行為と死』、大江健三郎『セブンティーン』『政治少年死す』である。作品の表現から、桶谷はどのように時代と時代の「精神」を読み取るのかと、興味をもって読んだのだが、時代への言及は無いに等しい。
 たとえば庄野潤三の小説である。庄野は普通の都会生活者の日常生活を、淡々と描く作品を書き続けている。桶谷は次のように書く。
 《作者が努めて一家団欒のなにごともない日常を描けば描くほど、一寸先の闇はその奥行きを深く濃密にしてゆくのである。一度壊れてしまった日常は、いつまた壊れるかもわからない。さういう感触を秘めた平穏無事の日常のなんでもない平凡な瞬間が、そのとき永遠の相を帯びるにいたる。》
 これは庄野潤三の文学を語ってはいるが、高度成長期の日本人の「精神」や精神の変容については何も語っていない。庄野潤三の文学が戦後の混乱期の社会よりも、高度成長期以降に花開く性格のものであったとしても、ここには「時代の精神」への桶谷の直接的な言及は何もない。それは、島尾敏雄、安岡章太郎、石原慎太郎、大江健三郎などの作品についても、同様である。

▼桶谷秀昭の考える「精神」や「精神史」について、検討しなければならない。厳密な概念の検討などしなくとも、その意味するところは、具体的な叙述を読み進めるうちに自ずと顕われると考えていたのだが、どうも桶谷と筆者のあいだにはこの概念の理解にズレがあるようだ。

 桶谷は『昭和精神史』の初めに、自分は「日本人の心の歴史」を描くと書いている。「それを文学史でも思想史でもなく、あるいはまた思潮史でもなく、精神史と呼ぶのは、この時代を生きた日本人の心の姿を、できるだけ具体的に描きたいからである。」「時代と個人の、感情と思念と本能のはたらきを、文学に限定することなしに、能力の及ぶ限りで、文学以外の表現にも探りたい」というのが、桶谷の企図だった。
 だが「高度経済成長下の文学」の章では、次のようにも言う。

《六十年代から七十年代にかけての、この経済過程に密着した国民意識の動向は、しかし、精神過程とは別である。(中略)精神という意識のはたらきは、個人の生活圏に密着した願望と意志を含みつつ、それを超えた意志において存在する。それは絶対といふ願望を抱いたり、人生や国家の究極相に相渉る思念に個人を駆り立てる。/さういふ精神過程は、経済過程と運命的に対応しながら、独自の航跡を描いて、後者と対照的に異なる色彩と形態をあらはす。/その対照のいちじるしさにおいて、六十年代の日本は、ふりかへって呆然と困惑に陥るやうなものがあった。》

やや明瞭さを欠く晦渋な表現だが、ここで桶谷が述べていることを多少わかりやすく意訳すれば、こういうことだろうか。六十年代、七十年代の日本経済の高度成長により、社会も国民意識も大きく変化したが、「精神」は「国民意識」とは別のものだ。「精神」は国民意識を含みつつ、「それを超えた意志において存在する」。六十年代の日本では、「ふりかへって呆然と困惑に陥る」ほど、「精神」と国民意識の乖離は進んだ、と。
 「この時代を生きた日本人の心の姿」をできるだけ具体的に描こうという当初のモチーフと、日本人の「国民意識」と「精神」は別のものだという発言とは、どのような関係にあるのだろうか。また、「精神」とは「個人の生活圏に密着した願望と意志を含みつつ、それを超えた意志において存在する」とは、どういうことなのか。
  この問題には、『昭和精神史』全体を通覧したあと、また立ち戻ることにしたい。

(つづく)

▼戦前の昭和期をあつかった『昭和精神史』の叙述に移りたい。 

桶谷の『昭和精神史』は、昭和二年の金融恐慌や昭和三年の共産党一斉検挙、満州某重大事件など、昭和期初めの政治史、経済史をまず叙述する。共産党一斉検挙に関連して、治安維持法における「国体」の観念や福本イズム、コミンテルンから日本共産党に与えられた二七テーゼ、三一テーゼ、三二テーゼについて、通常の通史よりもよほど詳しく解説する。
  たとえば治安維持法は、「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知って之に加入したる者」を処罰する法律(大正14年公布)だが、「国体」とはそもそも何か。法案説明に立った若槻内務大臣は、「国体」とは明治憲法第一条の「万世一系の天皇」がこの国を統治することだと言い、立憲制、代議制という「政体」とは区別されると説明する。「国体」とは絶対的な統治権の主体に関わる観念であり、「政体」とは統治権の行使の仕方に関わる観念だと桶谷は言い、「国体」という観念を法秩序に導入した当時の為政者に理解を示して、次のように書く。
  西欧の立憲君主政体は、「君臨すれど統治せず」という標語に見られるように、絶対君主制から共和制へ向かう西欧近代の趨勢の中で、漸進的な折衷形態をとったものだ。しかし、極東において最初の近代国家を創設した日本の立憲君主政体は、西欧列強の外的圧力に強いられ、自衛本能から採用したものである。《日本が日本であるために、西欧の近代国家形態を採用しなければならない。そのパラドクスに耐へるために、明治憲法は記紀神話に淵源する神勅権をもつ天皇を元首とし、その歴史的連続性を背景にした「国体」という意識を抱いたのである。》 

▼桶谷は、戦後復刻された『福本和夫初期著作集』全四巻を読んだという。全体の割以上が引用文で埋め尽くされ、引用文のあいだに少しだけ福本自身の文章が書き込んである「論文」。「これが独立した著作といへるのかといふ舌打ちしたくなる思ひ」に桶谷は駆られたが、引用されているのはマルクス、エンゲルス、スターリン、ブハーリン、ルカッチなどの論文で、当時の日本ではいずれも未見のものばかり。新帰朝者の持ち帰った新知識は、読者を啓発し驚かせたのだろう、と桶谷は思った。
 河上肇は当時を回想して、「盛んに唯物弁証法だのレーニン主義だのといふ飛道具を振り回し、独断的な、論理の連鎖を欠いた、呪文のやうな一種独特の文章」が、「片端から論壇の人々を薙ぎ倒し、一時、日本の思想界を風靡するに至った」(『自叙伝』)という。「呪文のやうな一種独特の文章」とは、次のようなものか。

 《我が無産階級は、其の発達の必然により、今や所謂「方向転換」期にある。 この「転換」は、そもそも、いかなる諸過程を過程することによって完了せらるるか。 そして、我々は今現在に、それのいかなる過程をば過程しつつあるか。》

 90年後の社会に生きるわれわれは、それらの事実から「時代」の空気をはるかに推量し、想像することができるのみである。 

▼共産主義・社会主義の運動や労働運動と、それを弾圧する国家権力の戦いが熾烈に闘われた昭和初期は、右翼テロの嵐が吹き荒れた時代でもあった。昭和5年に浜口雄幸首相が狙撃され、昭和7年には井上準之助・前蔵相、団琢磨・三井合名理事長が相次いで血盟団員に射殺され、五・一五事件が発生する。桶谷は五・一五事件で逮捕され、終身刑とされた橘孝三郎を取り上げ、かなり力を入れて記述している。
 橘孝三郎は明治26年生まれ、大正元年に第一高等学校に入る。大正4年に過度の読書と煩悶のために強度の神経衰弱に陥り、一高を中退し、郷里の茨城県で農業を始めた。
 荒地を開墾し、やがて帰農した兄弟や友人たちと共同農場を持つようになり、この労働体験を基礎に、その農本主義が形成された。「愛郷塾」という名の私塾を開き、青年たちの教育にもたずさわった。
  橘は農村の窮乏を打開する処方箋として、土地の「国民的管理」と呼ぶ三つの方法を考えた。一つは、「家族的独立小農」と呼ぶ6人家族で1町2反の田畑を耕す農家を、日本の農村の基礎とし、家族の生活の安定のために土地の兼併や商品化を禁止すること。
  第二は、大地主を廃止すること。
  第三は、国有地を解放して、内地植民を行うこと。
 《昭和5年以降の経済恐慌が農村を窮乏のどん底に打ちのめさなかったならば、橘孝三郎は平和な農本主義者のままであっただらう。クウデタによる直接行動という動機は、彼の思想と生活の中からは本来生れやうがなかったのである。》(『昭和精神史』)
 しかし霞ケ浦航空隊所属の海軍士官・古賀清志と中村義雄が中心となって決起の計画が練られ、古賀が橘に計画を打ち明けた。橘は軽挙妄動をいましめたが、「つひに断りきれなくなったかったのは、古賀の『純情』をだまって見捨てることができなかったといふ、情の人としての橘孝三郎の人柄によるであらう」と、桶谷は書く。
 五・一五事件は、海軍士官らによる犬養首相の殺害には成功したが、牧野内大臣官邸、立憲政友会本部、三菱銀行、警視庁の襲撃計画はすべて不発に終わり、民間有志別動隊として参加した愛郷塾の塾生による変電所襲撃も失敗した。橘孝三郎は無期懲役を言い渡され、これは全被告の中で最も重い刑だった。犬養首相を直接殺害した三上卓、古賀清志は、海軍軍法会議で禁固十五年の刑だった。
  橘は昭和15年に減刑によって出獄した。 

 昭和44年に桶谷は村上一郎と一緒に、76歳になった橘孝三郎を水戸に訪ね、話を聴いた。その時の記録は、『昭和精神史』の記述に生かされている。

▼『昭和精神史』の第五章の題名は、「橘孝三郎 中野藤作 中野重治」である。橘孝三郎は、上に紹介したように挫折した農本主義者だが、中野藤作は中野重治の父親、中野重治は挫折した共産党員であり、挫折した農本主義者と共産党員の精神の航跡は、昭和の精神史上特筆すべきもの、と桶谷は考えたようだ。

中野重治の精神の航跡は、『村の家』という作品に表現されている。主人公の高畑勉次と父親の孫蔵は、わずかな虚構はあるものの、中野重治とその父・藤作と読んで差し支えないらしい。
  中野藤作は慶応2年の生まれ。根っからの百姓ではなく、福井裁判所の雇員、神奈川県秦野の煙草専売局、朝鮮総督府の小役人、一時神戸の伊藤忠商事に勤めたこともあるという経歴で、やがて保険の代理業をしながら百姓を始めた。金も地位も得なかった代わりに、二人の息子を帝国大学まで出した。しかし上の息子はやがて病死し、下の息子・重治は、昭和5年と7年に治安維持法違反容疑で逮捕された。  藤作は、ものすごい不況の中、共産党ができるのはあたりまえ、と思う。しかしレーニンを持ってきても、日本の民衆に天皇のような魅力を与えることはできないとも思っている。
  藤作は三町歩弱の小地主兼自作農だが、米の収穫などでは食べていくのも難しい。それなのに妻は息子の逮捕で半狂乱になり、長女は治療費を無心し、重治は保釈願いを頼み、再三の上京をうながす。往復の旅費は、時計を質に入れて工面し、保釈金もなんとかつくった。
  出獄して一時家に戻った息子に藤作は、お前が捕まったと聞いた時は、お父っつあんらは、死んで来るものと思って一切を処理してきた、と言った。そして、これからどうするつもりなのか、と聞いた。「お父っつあんは、文筆なんぞは捨てるべきだと思うんじゃ」。

《「どうしるかい?」
  勉次は決められなかった。ただ彼は、いま筆を捨てたらほんたうに最後だと思った。彼はその考へが論理的に説明され得ると思ったが、自分で父に対してすることはできないと感じた。彼は一方である罠のようなものを感じた。彼はそれを感じることを恥じた。それは自分に恥を感じてゐない証拠のような気もした。しかし彼は、何か感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまいと思った。(中略)彼は、自分が気質的に、他人に説明してもわからぬやうな破廉恥漢なのだらうかといふ、漠然とした、うつけた淋しさを感じたが、やはり答へた。「よくわかりますが、やはり書いてゆきたいと思ひます。」
 「さうかい。」
 孫蔵は言葉につまったと見えるほどの侮蔑の調子でいった。彼らはしばらく黙ってゐた。勉次は自分の答へは正しいと思った。しかしそれはそれきりの正しさで、正しくなるかならぬかはそれから先きのことだと感じた。》(『村の家』)

「転向」の問題を論じる誰もが引用する、有名な箇所である。桶谷もこれを「転向小説」と呼ぶが、その意味するところは単に政治的レベルの事柄ではなく、中野重治の心の「或る自覚」を描いたという意味でそう呼ぶのである。
  《或る自覚といふのは、作者が虚心に日本の生活社会に目をひらいたといふことである。作者がマルクス主義によって封殺しようとした彼固有の記憶と感情のはたらきが復活し、そのことによって日本の生きた生活社会の現実が視界にあらはれてきたのである。そのとき、日本の生活社会を代表するのが、彼の父親の像にほかならない。》
  桶谷は『村の家』を、「昭和戦前期の中野重治の最高の作品であり、文学史に残る秀作」と評価する。

(つづく)

▼『昭和精神史』は、二・二六事件に2章、80ページ近いスペースを充て、その顛末と首謀者の一人・安藤輝三大尉について述べている。

 二・二六事件については、その無計画性と戦術の拙劣さが指摘されてきた。それは桶谷の整理によれば、①宮城を完全に封鎖しなかったこと、②放送局を始め報道機関の管制をしなかったこと、③民衆工作に無関心だったこと、④海軍に働きかけなかったこと、⑤真崎甚三郎などの皇道派首脳に、事前の了解を取り付けなかったこと、⑥指導部が実質的に存在しなかったこと、などである。
 しかし桶谷は、批判の前提がちがう、と思う。決起した青年将校たちにとって、二・二六事件は権力を奪取する「革命」でも「クーデター」でもなかったからだ。首謀者の一人・村中孝治は、獄中手記(「丹心録」)に次のように書き残している。「吾人は『クーデター』を企図するものに非ず、武力を以って政権を奪取せんとする野心私欲に基づいてこの挙を為せるものに非ず、吾人の念願する所は一に昭和維新招来の為に大義を宣明するにあり。昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。」 武力により軍政権を樹立するという考え方はファッショであり、それにはあくまで反対で、昭和維新を実現するために「国民の一大覚醒運動」を自分たちは敢行した、というのが彼らの考えであったらしい。
 昭和六年に、橋本欣五郎中佐らによるいわゆる三月事件や十月事件が摘発されたが、それらは宇垣一成や荒木貞夫を首相とする独裁政権樹立を企図したクーデター未遂事件であり、二・二六事件の思想はそれらとはまったく異なるというのだ。

▼桶谷は、歩兵第三連隊第六中隊を率いて参加した安藤輝三大尉の場合を、詳しく述べている。
 安藤輝三は、人望極めて高く、中隊の下士官や兵士から信頼され慕われていた。 歩兵第三連隊の徴募管区は、浅草、向島、本所、深川、葛飾、江戸川など東京下町と埼玉県で、都市下層民と貧農出の初年兵が入隊する。娑婆でロクなものを食べたことのない兵隊が、美味くもない軍隊の食事をありがたがって食べるのを見て、安藤は胸を痛めた。
  除隊しても、面会日になると安藤に会いに来る人間が少なくなかった。軍隊では飯が食えたが、娑婆では食えないのだ。安藤は酒保で身銭を切って、ご馳走せずにはいられなかった。休暇の日には営門を出て、困窮している除隊兵の家を訪ねたり、失業している者の就職の世話をした。「安藤輝三が青年将校運動に入っていく契機の最大のものは、さういふ兵隊との接触で感じた貧困層への同苦と社会矛盾の認識である。統帥権問題や国体観念は二次的な意味しかもたなかったであらう」と、桶谷は書く。
 安藤は決起の決断に、深刻に悩んだ。2月18日に行われた決行の具体的な打合せの席でも、安藤ひとりが、「今はやれない」、「時期尚早」と答え、決起計画の中心・磯部浅一が21日夜に安藤の自宅を訪ねるが、もう一晩考えさせてくれと、返事を留保した。翌22日早朝、もう一度磯部が安藤を訪ねて決心をうながすと、安藤は言葉少なに、安心してくれ、俺はやる、と答えた。 

 26日未明、安藤の部隊は鈴木侍従長の官邸を襲撃した。銃弾3発を受けて鈴木貫太郎は倒れたが、まだ意識はあった。とどめを刺そうという部下に、鈴木夫人は、それだけはやめて下さいと言い、安藤はその気迫と情に打たれて部下を止め、挙手の礼をして官邸を去った。
 26日の午後3時半、「陸軍大臣告示」が出された。告示の中には、「一、決起の趣旨については天聴に達せられあり」、「二、諸氏の行動は国体の顕現の至情に基づくものと認む」の文字があり、決起部隊は愁眉を開いた。しかしその後、事態は次第に暗転する。
 28日の早朝、「反乱軍を武装解除して原隊に復帰せしめよ、命令を聞かぬ時は武力を行使せよ」という趣旨の「奉勅命令」が出され、状況は決起部隊に決定的に不利となった。青年将校の間に動揺が広がり、自決を言う者も多かったが、安藤は、今になって自決とは何事か、この部下たちを見殺しにする気かと、徹底抗戦の意思を変えなかった。
 29日午前に、決起部隊は総崩れとなるが、安藤部隊だけは結束が固く、動じなかった。磯部浅一が涙を流しながら、「下士官兵を帰してやろう」というと、安藤は、自分は今回の決起に最後まで不賛成だったが、ついに決起したのは、どこまでもやり通す決心ができたからだ、と答えた。
 午後になり、磯辺は将校たちを集めて部隊の解散を提案し、安藤以外に反対するものはなかった。安藤は中隊全員にねぎらいの訓示をし、そのあと拳銃を下あごに当てて引き金を引いた。銃弾はこめかみに貫通したが致命傷とはならず、安藤は陸軍刑務所に送られ、他の同志とともに軍法会議を経て死刑に処せられた。

▼二・二六事件はたしかに昭和政治史上の大事件だったが、いかなる意味で精神史上の事件だったのか、桶谷は何も言及していない。安藤輝三大尉の人間と行動を詳述しながら、それが主題である昭和の「精神」といかなる関係にあるのか、何も明示していない。
 社会の不正に憤激し、不正な世の中を改めなければならない(「昭和維新」)と思い詰め、身を捨てて訴えれば、世の中覚醒してくれる、天皇陛下は理解してくださると彼らが思い込んだことは、昭和時代に生きた「精神」の一齣ではあったろう。しかしそれをどのような形で取り出し、昭和精神史上に定着させるのか、桶谷は何も語っていない。ただ斎藤史の『魚歌』の中の歌をいくつか引き、「処刑された青年将校への鎮魂において、歌の調べの斬新とうつくしさにおいて記憶されるべきである」と述べるだけである。
 彼らの憤りや無念、願いや祈りに思いを馳せ、残された自分の彼らへの思いを表現したものとして、それらの歌はたしかに斬新であり美しい。だがそれでもなお、昭和の「精神史」への疑問は疑問として、留意しておく必要がある。 

▼二・二六事件の起こった翌年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が発生した。昭和20年8月まで続く長い長い戦争の始まりだが、その時そのように予想した関係者は、一人もいなかったであろう。
  中国大陸における日本の権益を守ろうとする行動は、中国民衆のナショナリズムの高揚を生み、抗日世論の高まりは日本の反発と危機感を高めた。そうした基本的な対立関係が、満州事変以前からいくつもの衝突を生み、それを収拾する「協定」を生みだしてきたから、今回の衝突もいま一つ類例を重ねただけと考えるのが自然だった。
 日本側は武力を背景に、衝突を回避する名目で、日本が権益を持つ地域と中国国民党の支配地域のあいだに非武装地帯を設けるよう要求してきた。非武装地帯の設定は北京のある河北省におよび、昭和10年に「冀東防共自治政府」がつくられた。冀東とは河北省の東部を意味し、日本の支那駐屯軍が進めた華北を国民党政府の支配から分離させる工作の結果、生まれた傀儡政権である。
 桶谷は、盧溝橋事件をきっかけとするその後の戦果の拡大について、日本も中国側も停戦の努力をそれなりにしたが、中国側の戦争意欲が旺盛な結果、結局話がまとまらなかった、という見方をしている。たしかに日本政府の中にも参謀本部の中にも、満州事変の時のように簡単に片付くと考え、強硬策を主張する強硬派がいる一方、早期の講和を求めるべきとする強い主張もあった。しかし現地軍と参謀本部のあいだの意思の不統一や近衛内閣の軍部に対する不信感、戦勝に酔う国民感情は、強い意思統一を必要とする早期の講和締結を妨げた。
 そして前年12月の西安事件で、国民党と共産党の提携が曲りなりにもなされ、蒋介石は7月17日に蘆山で、「われわれは一個の弱国であっても、もし、最後の関頭に至ったならば、全民族の生命をなげうってでも、国家の生存を求めるだけである」という演説を行った。 

 北京郊外の盧溝橋で始まった戦闘(12年7月)は、その後上海に飛び(8月)、首都南京を占領(12月)しても終わらなかった。駐華ドイツ大使トラウトマンをあいだに立てて蒋介石と和平交渉を行っていた日本は、13月に交渉を諦め、近衛首相は、「爾後国民政府を対手とせず」という声明を出した。
 4月から5月にかけて行われた徐州会戦は、「支那事変」という戦争の性格を決定的に変える戦闘だった、と桶谷は書いている。「持久戦」という思想を持ったことのない日本軍にとって、それは未知の戦争だった。日本軍にとってそれは、「決戦」という思想を放棄せざるを得ない局面に立たされたことを意味した。
  徐州会戦を題材にした火野葦平の小説『麦と兵隊』は、この年多くの読者を獲得した。「上海から、南京から、徐州へ、それからもっと先へ、戦場は果てしなく続いて居る」と火野は書いた。
  同じ題名の軍歌もつくられ、これもまた流行した。「徐州徐州と人馬は進む 徐州居よいか住みよいか 洒落た文句に振り返りや お国訛りのおけさ節 ひげがほほ笑む麦畑」(藤田まさと作詞)
  戦争の性格の変化は、小説にも歌にも反映されているように見える。

(つづく)

▼徐州占領(昭和13年5月)のあと、日本軍は武漢三鎮を占領(10月)したが、中国は政府を重慶に移して抗戦を続け、日本に持久戦を強いた。支那事変(日中戦争)が泥沼化する過程は、日本と米国の対立が顕在化し、深刻化する過程でもあった。米国は中国における自国の権益が侵害されていると抗議し、日本の謳う「日満支をブロックとする東亜共同体」の実現を承認しないと言い、重慶の国民党政府を援助し、日本を経済封鎖によって追い詰めていく。日本は「援蒋ルート」の封鎖を名目に、昭和15年9月に北部仏印に進駐し、翌16年7月には南部仏印にも進駐した。米国は対抗して日本の在米資産を凍結し、石油の対日輸出をすべて禁止した。 昭和16年4月に始まった日米交渉は、11月に国務長官ハルがいわゆる「ハル・ノート」を日本につきつけることにより、決裂した。
 12月8日の対米英開戦を、日本人はどのように受け止めたのか。朝、「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋に於てアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」というラジオの臨時ニュースが流れたとき、ほとんどすべての日本人は「蒼ざめた緊張状態」に襲われた。桶谷は、この国民的規模の緊張状態を受け止め「思想的自覚へ練りあげた」文章として、竹内好が雑誌「中国文学」第八十号(昭和1711日発行)の巻頭に載せた「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」を紹介している。 

 《歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打ち震えながら、虹のように流れる一筋の光芒の行方を見守った。胸にこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。
 十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持であった。(中略)建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。
 何びとが、事態のこのやうな展開を予期したらう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じていた。戦争は惨めであるとしか考えなかった。実は、その考え方のはうが、みじめだったのである。卑怯、固陋、囚われていたのである。(中略) 思うに人間生死の境は、常時の思惟をもって測られぬものがあるにちがひない。(中略)われら若年にして日露戦争を知らず、国民士気の高揚が行われる場面を、歴史理論の抽象によるほか、捉えようがなかった。今日、この国家の盛時に際会して、自らの内に非凡の体験をかち得たことは、生涯の幸と申さねばならぬ。》

 これは「宣言」の前四分の一だということだが、支那事変は彼ら中国文学者に、「引き裂かれるような鬱屈」を強いてきた。「日本は東亜建設の美名に隠れて弱い者いじめをしている」という疑惑を、彼らは拭うことができなかった。しかし米英との戦争が始まり、その疑惑は今や雲散霧消した―――。

 竹内好は戦後、大東亜戦争の思想的性格を分析した「近代の超克」という論文を発表したが、大東亜戦争は二重構造を持っており、中国に対しては侵略戦争であるが、対米英戦争は帝国主義間の戦争で喧嘩両成敗だというのが、その主旨だった。

▼戦前の日本の軍国主義体制下、国のために喜んで命を捧げることが当然とされる時代にあっても、そこに生きる個人は戦争の意義を求め、自分の死ぬ意味を求める。『昭和精神史』は、大東亜戦争中に行われた二つの座談会に少し触れているので、簡単に見ておくことにする。

一つは、高坂正顕、鈴木成高、高山岩男、西谷啓治といういわゆる「京都学派」の学者の座談会で、「世界史的立場と日本」と題して開戦の翌月の『中央公論』誌上に掲載された。(実際に座談会が行われたのは、開戦前の11月だった。)
  十九世紀の西欧の発展と膨張が非西欧世界に及び、植民地を獲得する。一方、植民地ないし半植民地となった地域、たとえばアジアは、西欧との接触により自己を自覚し、西欧への反抗を始める。西欧が即ち世界という一元的世界史にアジアが登場し、支配と反抗を通じて「統一的な歴史的世界」が形成される。それが二十世紀の歴史であり、その世界史の転換に主導的な役割を演じているのが日本である。「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」は、そういう歴史の必然として位置づけられる。しかし世界史の必然は、歴史をつくる主体的な働き無しにはあり得ず、彼らはランケの「モラリッシュ・エネルギー」という言葉をヒントに、力と道義の問題を議論する。
  座談会は、歴史の発展段階説の批判や西欧文明と日本文化の対比、日本の歴史を世界史の観点から遠近法をもって見る必要などを話題にしたのち、最後に現代日本と世界が直面している「時局」に及ぶ。「天地創造といふのは何も昔の古い出来事でなく今日の創造でなければならない。古い世界が破れて新秩序ができるといふこと、ABCD包囲線を如何にぶち破って新しい世界を創り出すか、これが天地の創造なんだね。」(高山)「国を通して新しい世界が開けてくるのだ。やはり高山君のいった天地の太初は現在にある。これは大事なことだ。」(高坂)というふうな発言があり、対米英開戦を予言するような次の発言によって結ばれる。
 「さうだ。世界史は罪悪の浄化だ。天国と地獄との境に歴史といふものがある。時の中にあって永遠に結びつく所に歴史といふものがあるのだ。」(高山)「西田先生も先日言ってゐられた。世界歴史は人類の魂のプルガトリオだ。浄罪界だ。戦争といふものにもさうした意味があるだらう。ダンテは個人の魂のプルガトリオを描いた。しかし現在大詩人が現れたなら、人類の魂の深刻なプルガトリオとして、世界歴史を歌ふだらう、って。人間は憤るとき、全身をもって憤るのだ。心身ともに憤るのだ。戦争だってさうだ。天地とともに憤るのだ。」(高坂)

▼もう一つは、『文学界』の昭和17年9月号、10月号に連載された「近代の超克」と題する座談会である。『文学界』同人の河上徹太郎、小林秀雄、中村光夫、林房雄、三好達治、亀井勝一郎に、鈴木成高、西谷啓治の京都学派、吉満義彦(神学)、下村寅太郎(物理)、菊池正士(物理)、諸井三郎(音楽)、津村秀夫(映画)が加わった大規模なものだった。
  司会の河上徹太郎が、冒頭、座談会の意図を語る。「近代の超克」とは一義的な概念ではない。12月8日に皆が体験した、われわれの知性を根底から揺さぶる内的衝動のことだ。これにめいめいが言葉を与えることで、ある和音が生まれるかもしれない。その和音が外に向かえば、現代日本文化の世界構想の核になるだろう。そういう期待がある。……
  しかしその期待はまるで満たされず、座談会は失敗に終わった、と桶谷は見る。まず「近代」という概念自体、ひとによって理解がばらばらで、司会者が議論の交通整理に追われているうちに、第一日目は時間切れとなった。
  第二日目もばらばらの議論は克服されなかったらしく、桶谷は参加者の発言を断片的に紹介するだけである。たとえば小林秀雄の、「要するに近代性の克服とは西洋近代性の克服が問題だ。日本の近代性の克服なんぞわけはない。」「近代人が近代に勝つのは近代によってである。」という発言。あるいは林房雄の、「記紀、万葉その他の古文献の文部省的釈義によって、日本人が出来るなどと思ってそんなことをやってゐる連中に、お前らは苦労したかといひたい。(中略)真剣に近代といふものを通って来たかとさへ反問したいね。」という発言など。
  筆者は思うのだが、「近代の超克」という言葉やテーマの設定ほど、当時の日本の知識人の心理を表したものはないのではないか。日本の憧れとしての西欧近代は、とても追いつけないほどの圧倒的な存在である。しかし日本は西欧に追いつき、打ち勝たなければならないし、見方によってはすでに西欧を超えているのかもしれない。現実と期待のはざま、無力感と全能感のはざまで揺れる戦前日本の知識人のやるせなさが、この言葉には反映しているように思う。
  十九世紀の半ばに日本は西欧文明と接触し、開国し、近代化への道を歩み始めた。社会の近代化の進行は、西欧でさえ機械を打ち壊す反対運動を生み、また自然や「手作り」に美を見出すモリスの美学など、さまざまな「懐疑」の念を生み出した。したがって近代化が外部からもたらされ、かつまた急激に進行した日本社会において、近代化への反発がより大きく強いものであったとして、すこしも不思議はない。
  明治の「文明開化」以来、日本社会は近代化=西欧化と日本回帰の往復運動を、幾度か繰り返した。1930年代の日本回帰は、近代化の優等生である日本の「過剰適応」の無理が生み出した反動作用であり、厳しい国際関係と共振して日本をいっそう出口のない状況に追い込んだように見える。

(つづく)

▼『昭和精神史』は、太平洋戦争の進行の経緯と文学者の作品や発言について、3章にわたって述べている。また「大東亜共栄圏」という空虚な理念と、戦後のインドネシアの独立戦争についても述べている。しかしそれらは格別目新しい話題でもないので、省略する。
  第十九章は「降伏と被占領の間」と題し、ポツダム宣言を受諾すべきか拒否すべきか、政権内のせめぎ合いについて述べ、天皇の「聖断」によって受諾の決定がなされた経緯を語る。そしてポツダム宣言の受諾が決まり、8月15日の玉音放送の行われたあと、いくつもの「自決」があったことを書き留めている。
  阿南陸相が8月14日の夜、「一死以て大罪を謝し奉る」の遺書を残して自刃した。桶谷は、「ポツダム宣言の受諾が国体を傷付けるといふ考へを変へなかったが、それが大御心に叛くといふヂレンマの中で死を選んだと思はれる」と書く。

8月16日に特攻隊の発案者であり軍令部次長の要職にあった大西瀧治郎が自刃した。遺書には、「特攻隊の英霊に申す、善く戦ひたり深謝す、最後の勝利を信じつつ肉体として散華せり、然れどもその信念は遂に達成しえざるにいたれり、吾死を以て旧部下の英霊と遺族に謝せむとす」とあった。

9月2日、戦艦ミズーリ号の甲板で日本の全権が降伏文書に調印した日、陸軍報道部に所属する陸軍大佐・親泊朝省の一家が自決した。阿南陸相を尊敬し、天皇親政をもって「国体護持」と考える親泊にとり、ポツダム宣言は受け入れることのできぬものだったからだ。

8月22日、芝の愛宕山で「尊攘同志会」の女性2名を含む12人が、手榴弾で自爆した。徹底抗戦の檄文をガリ版で刷り、都内で撒いたりしているうちに警視庁にかぎつけられ、下山するよう説得されたが応じず、自決に至ったのだという。

8月25日未明、代々木原で大東塾塾長・影山正平以下13名の塾生が、割腹自殺を遂げた。桶谷は次のような説明を付けている。

《中央にひもろぎを立て、円陣をつくって端座し、塾長が祝詞を奏したあと、全員が「弥栄」を唱へて、整然と割腹して果てた。それじたいが一つの荘重な儀式として行はれたこの集団自決は、その様式があらかじめ慎重に考へられ、激情や時務論風の動機を含まない、古典的な殉死として、記憶されてゐる。/殉死といへば明治天皇の崩御に殉じた乃木希典の自殺が連想される。しかし大東塾生の場合、一つの時代や国家の終焉に殉じるといふ限定に収まり切らないものがある。この後に起こることがすべて嘘であり、もし生きながらへるならば、自分らの思想がその嘘を容認することになるといふ自覚に殉じた死のやうに思はれる。》 

筆者は、阿南陸相や大西瀧治郎の自決は、本土決戦を主唱してきた責任者として、また特攻隊員を送り出した責任者として、当を得たものであると思う。しかし親泊大佐の一家心中や、芝の愛宕山と代々木原での集団自決は、ただ愚かしいと感じるだけであり、なんら共感を覚えるところはない。時代が大きく転換しようとするとき、このような「生贄」が時代の祭壇に捧げられることが必要とされるのだろうと、妙に納得するだけである。
  そういう筆者の受け止め方からすると、桶谷の筆は自決した人びとに、温かい理解の視線を向けているように見える。そのことは、『昭和精神史』という書物全体の「思想」に関わっているようにも見える。 

▼『昭和精神史』の最終章は、「第二十章 春城草木深し」である。桶谷は河上徹太郎の一文を取り上げ、ある貴重な瞬間について語ろうとする。 

 《国民の心を、名も形もなく、ただ在り場所をはっきり抑へねばならない。幸ひ我々はその瞬間を持った。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違ひはなかった。又、あの一瞬のごとき瞬間を我々民族が曽て持ったか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あったか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。ただ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起こしたいのだ。今日既に我々はあの時の気持と何と隔たりが出来たことだらう!》(河上徹太郎「ジャーナリズムと国民の心」)

 

桶谷はこの一瞬を、「もっとも純粋な白紙状態」、「原初の静謐な混沌」、「終末の感覚」など、どう呼んでもよいが、この謎のような瞬間がたしかに存在したことを強調する。そしてそれを、荘子の語った「天籟」という言葉を使って説明しようとする。八月十五日正午のしんと静まり返った瞬間を、われわれは「呆然自失」と表現した。「呆然自失」とは何か。そのときわれわれは何を聴いたのか。
  われわれは「天籟」を聞いたのだ、と桶谷は言うのだが、この辺り筆者にはよく理解できない。静まり返った謎のような瞬間を持ったことは、占領軍の占領政策とも関わる問題らしいので、しばらく桶谷の叙述を追って行こう。

米占領軍の政策は、日本軍の武装解除から日本人の精神の武装解除へと進んだ。日本人は不気味なくらいおとなしかった。はじめマッカーサーたちは、日本人がネコをかぶっていると思い、いまに牙をむき出すのではないかと警戒したが、それは杞憂だった。後年マッカーサーは、「日本国民は、私を征服者ではなく、保護者と見なしはじめたのである」と、『回想記』で回想している。
 《一つの国、一つの国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈服したことは、歴史上に前例をみない。日本人が経験したのは、単なる軍事的敗北や、武装兵力の壊滅や、産業基地の喪失以上のものであり、外国兵の銃剣に国土を占領されること以上のものですらあった。幾世紀もの間、不滅のものとして守られてきた日本的生き方に対する日本人の信念が、完全敗北の苦しみのうちに根こそぎくずれ去ったのである。》(『マッカーサー回想記』)
  桶谷は、これは「一面の真実であるが、全面の真実ではない」と言い、次のように語る。
 《何か別の存在への屈服が、「呆然自失」の瞬間に起こった。その心の状態が、占領政策に対する無関心を生んだ。従順は無関心のあらはれにすぎない。私にはさう思はれる。別の存在とは「天籟」のことである。》
  残念ながら桶谷の語ることは、依然として筆者の理解を超えている。

▼『昭和精神史』は力のこもった作品である。政治史を主とした日本現代史という面でも、文学史、文芸批評という面でも、読者に多くのことを教える作品であり、『昭和精神史 戦後篇』を併せてそこに注ぎ込まれた精力と時間を見れば、著者の代表作と呼ぶのがふさわしいかもしれない。
 しかし読了後、大きな疑問が残る。通常「精神史」というものは、その「精神」の特徴や形成と変化の事情を記述するのだが、『昭和精神史』には「昭和の精神」の形成も発展も変化も消滅も何もないのだ。というよりも、そもそも「昭和の精神」とは何かということ自体、『昭和精神史』においては明瞭でない。だから「昭和の精神」をテーマにするとき当然生じるであろう疑問、たとえばその特徴は何なのか、「明治の精神」とどこが違うのか、どのようにしてその違いが生まれたのかといった疑問にも、なんら答えるものになっていないのである。
 『昭和精神史』は、文庫版1300ページという膨大なスペースに、何を記述しているのだろうか。著者・桶谷秀昭は「あとがき」に、次のように書いている。 

 《一九四五年、昭和二十年の夏に、日本の敗戦による戦争がをはった。昭和はこれをもって二つの時期にわけられる。日本が戦勝国軍隊の占領下に置かれてゐた時期、私は旧制中学二年生から大学三年生であった。大学を卒業して五年たった頃から、「もはや戦後ではない」といふ声を聞いた。/しかし私の心の中では、何ひとつをはってゐなかった。戦争もをはってゐなかったし、戦後もをはってゐなかった。をはらせてたまるかと思った。》
 《昭和四十五(1970)年の晩秋に、三島由紀夫の自刃事件が起きた。この事件が契機になって、私は昭和の終焉の予感を抱きはじめた。精神過程としての昭和がをはる、といふ予感である。/また、この予感は、昭和の精神といふひとつのエートスがかって存在し、滅びようとしてゐるといふ直覚を生んだ。》

 つまり桶谷が書こうとしたのは、自分の中にわだかまる或る執着であり、その執着を言葉として取り出し定着することこそ、『昭和精神史』の執筆だった。彼は、昭和時代を生きた日本人の心の歴史を描こうと、「視野と認識の拡大」に努めたと書いている。しかし書き上げられたそれは、昭和期の一部の日本人の心の歴史であったとしても、ひとつの時代の「精神史」を名乗るには、大いに問題があるように見える。

 (つづく)

▼前回、少し舌足らずに先を急ぎ過ぎたようである。昭和の「精神史」を考える参考例として、明治の「精神史」を考えてみたい。

ある研究者は、明治という時代の状況や課題と関連させながら、「明治精神を支えるバックボーン」として三つのものを挙げている。(松本三之介『明治精神の構造』初版は1981年刊行)

 第一に、国家の問題を他人ごとではなく、自分の問題として捉える精神である。どのようにして日本の民族的独立を確保し、対等な国際的地位を獲得するかという問題をめぐる強い関心が、明治人に共通の精神態度を形づくっていた、と松本は言う。それは具体的には、幕末に諸外国との間で結ばれた治外法権の取り決めや不平等な関税制度を、どのようにして改定し撤廃するかという形で意識され、裁判権の回復と関税自主権の回復は、明治時代の最大の外交課題であり、国民の一致した願望だった。
 第二に、「進取の精神」を松本は挙げている。明治は、民族の独立を目指して立憲制の導入、資本主義的経済体制の確立など、新しい体制を構築することが喫緊の課題とされた時代だった。そこでは新しいものを良しとし、新しい制度や文物を積極的に取り入れようとする前向きな精神・態度が広くいきわたり、時代の特色を形づくっていた。
 第三に、「武士的精神」が継承されたことを、松本は明治精神の特徴のひとつに挙げる。武士的精神は、一方では伝統的な儒教道徳と結びつき、教育勅語に見られるような徳目を形づくることによって、臣民道徳を形成する素となった。
 しかし他方、それは国家社会を担う自律的な個人の気概や品性として再生され、自由民権運動を生み、公共的精神を支えた。民権運動の指導者・植木枝盛は、民衆が日常性に埋没し、政治的無気力と無関心に停滞している状況にあって、士族だけが国民の持つべき公共的精神と国家的関心を幕末以来担いつづけている、と評価した。
 社会主義者・堺利彦も、「いつの世にも品性を生命とする一団の士人なかる可からず」と言い、「いわゆる武士道は依然として今後の紳士の生命たらざるべからず」と語った。 

 本稿は、「明治の精神」ではなく「昭和の精神」を主題とするものであるから、明治の精神について述べるのはここでやめるが、松本三之介が抽出した「国家的精神」、「進取の精神」、「武士的精神」は、明治という時代や人びとの行動を見、検討していく上で、有効な議論の土台を提供していると思う。それでは桶谷秀昭の『昭和精神史』は、「昭和の精神」を検討するための共通の土台を、提供しているだろうか。 

▼前回述べたように『昭和精神史』では、「昭和の精神」とはそもそも何かという問題に、明確な答えを与えていない。「昭和の精神」はどのような特徴を持ち、「明治の精神」や「大正の精神」とどのように繋がりながら、どのように変化しているのか、その変化を生んだものは何であるかを、何も語っていないのである。その代りに桶谷が行ったのは、自分が「昭和の精神」と考えるものの顕われを、昭和史を舞台とする出来事の中に探り、描き出すことだった。
 桶谷の文章は、現代史への好悪・正否の判断をあまりあからさまには言わず、多くの場合、慎重に回避している。それでもときどき彼の記述や感想の間に垣間見えるものはあり、それを集めて彼の「歴史認識」や「昭和の精神」の輪郭を知ることはできる。

  まず二・二六事件の青年将校だが、彼らのように国のあるべき姿を思い、国家のために身を捨てて行動することが、「昭和の精神」の顕われだと桶谷は考えているようだ。筆者は、「二・二六事件はたしかに昭和政治史上の大事件だったが、いかなる意味で精神史上の事件だったのか、桶谷は何も言及していない」と書いたが、よく読むと次のような記述があった。蹶起行動の戦術的な拙さや、行動の細部が詰められないまま指揮官個人の判断に任されていた未熟さを指摘した、そのあとの部分である。
 《二・二六の蹶起行動の区々における姿はあらためてみると、みなさういふ人間的なもろさと美しさを持ってゐる。美しさは戦術の拙さの結果ではなく原因なのである。/ここで、さういふ美しさのもっとも鮮烈な表現を蹶起行動の終始において演じたのは、歩兵第三連隊第六中隊の兵を率いて立ち上がった安藤輝三大尉である。》桶谷は青年将校たちの「美しい行動」を評価していたのだ。
  また、東京裁判に関する記述について、筆者は、「東京裁判とそこでの被告の言動が『昭和の精神史』とどう関係するのか、何も言及されていない。それとも被告たちの主張をもって『昭和の精神』の顕われとでもいうのだろうか?」と、疑問を投げかけた。これについても桶谷の答えは、そのとおり、ということなのだろう。大東亜戦争は日本の自存自衛の戦いであり、西欧諸国と米国の植民地支配に対する戦いは、「昭和の精神」の顕われなのだ、というように。
  同様に、ポツダム宣言の受諾に反対し、「国体」護持のために奔走し自決した人びとも、「昭和の精神」の体現者ということになろう。
 桶谷は、《「近代文学」の批評家の中で、亡国の悲哀を痛切に胸に抱いたのは、武田泰淳ただ一人であった》と書き、《今日の日本には歴史の精神といふものが完全に欠落してゐる》、《日本民族の歴史の精神は、おしなべて皇国史観のレッテルのもとに否定された》とも書いている。彼にとって「昭和の精神」とは、要するに日本が米軍による占領を経験する以前の、大日本帝国時代の国民の「精神」らしい。それは昭和の一時期に一部で見られた「精神」であっても、昭和に生きた人々の心の姿を検討するための共通の土台となりうるようなものではない。

▼筆者は桶谷秀昭の『昭和精神史』を、失敗作と考える。それは彼の「歴史認識」に同意できないからではなく、彼の「昭和の精神」の捉え方が狭く、恣意的で、昭和時代を生きた日本人の心の姿が描かれていないからである。大日本帝国と心中した人々の心の姿の一面は、あるいは描かれているかもしれない。しかし「国体」という言葉と観念に振り回された彼らが、「昭和の精神」の一部を体現していたとして、どうしてそれ以外の人びとの「心の姿」は見ようとしないのだろうか。
 「国体」という言葉ないし観念は、呪いの呪文のようなものである。「国体」という観念の袋小路に迷い込んだ人びとの呪いを解き、覚醒させたのは、皮肉なことに昭和天皇の決断だった。
 二・二六事件後、反乱軍の行動にどう対処するのか決められず、右往左往する陸軍首脳に対し、「朕が股肱の老臣を殺戮す、その精神に於いても何の恕すべきものありや」と怒り、「朕自ら近衛師団を率い、鎮定に当たらん」とその尻を叩いた昭和天皇の決断が、反乱の帰趨を決めた。
 またポツダム宣言の受諾をめぐって膠着状態に陥った御前会議で、「国体」の護持をあくまで主張して受諾の拒否を言う陸軍に対し、引導を渡したのも昭和天皇の決断(聖断)だった。桶谷は昭和天皇の行動と「昭和の精神」の関係を、どう考えるのだろうか。

▼桶谷は、「精神」と「国民意識」は別のものだと言う。
 《精神という意識のはたらきは、個人の生活圏に密着した願望と意志を含みつつ、それを超えた意志において存在する。それは絶対といふ願望を抱いたり、人生や国家の究極相に相渉る思念に個人を駆り立てる。/さういふ精神過程は、経済過程と運命的に対応しながら、独自の軌跡を描いて、後者と対照的に異なる色彩と形態をあらはす。/その対照のいちじるしさにおいて、六十年代の日本は、ふりかへって呆然と困惑に陥るやうなものがあった。》
 「国民意識」は経済過程に密着し、豊かな社会になれば当然変わる。六十年代の日本経済の高度成長によって、「国民意識」は「呆然と困惑に陥る」ほど変化した。しかし「精神」は「国民意識」とは違う。「それを超えた意志において存在する」。―――

この辺りの桶谷の表現は難しく、秀れた表現なのかマユツバなのか判断し難いが、彼が日常的な個々の「意識」とは別に「精神」というものを措定しているということを、押さえておけばよいだろう。問題は桶谷が、自分の措定した「昭和の精神」の構図を守るために、戦後の日本人の意識変化の原因を、すべて占領軍の検閲に求めるような主張をすることである。
  桶谷は、「戦後体制は占領下の延長の上にある」と書き、占領軍の検閲体制に迎合したマスメディアの自主規制が、「占領体制が解けたあとも残り、さらに内在化して戦後日本の言語世界の枠になった」と主張する。それが「東京裁判史観」だというわけだ。
  しかし占領軍の検閲と自主規制によって生み出された「偽りの世界」は、占領軍がいなくなれば途端に瓦解するものだろう。検閲が亡くなったあとも自主規制がつづき、日本人はそれに気づかず騙されたままだというのは、日本人はそれほど愚かで意気地なしだと言うに等しい。そのような主張は、はたして成立するものなのだろうか。
 筆者は戦後の雰囲気を伝えるひとつの資料として、角川源義が昭和24年に「角川文庫」を発刊した際、文庫の後ろに載せた発刊の辞を思う。「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった」で始まる文章は、当時の人々の思いに強く訴えかけるものであったにちがいない。「戦後の日本人は、検閲や自主規制のために騙されている」という主張を、彼らはどう聞くだろうか。

(おわり)

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