父のアルバム
              【ブログ掲載:2019年1月4日~11日】


▼母が亡くなって無人になった家の整理をした。子どもや孫たちが引き取るものもあったが、引き取り手のない家具や食器、書物、布団などが残った。書物は古本屋を呼び、掛け軸や置物については古美術商を呼んで、なんとか処分した。布団や座布団などは、メルカリや中古品の地元情報サイト・ジモティーを利用して、引き取り手を見つけることができた。ゴミとして廃棄するのは簡単だが、もし利用する人がいるなら多少手間がかかっても引き渡して、役立ててもらえれば、という気持だった。
 五十冊ほどの写真アルバムが、最後に残った。家族の写真もあるが、大部分は父の交友関係や趣味の石仏などの写真である。これは一応目を通したうえで廃棄することにし、車に積んでわが家に持ち帰った。

 

▼父は60歳を越えてから写真を始めた。シャッタースピードや絞りを少しずつ変えて撮った写真が残っていたから、どこかで基礎から教わる機会を持ったのかもしれない。
 やがて石仏を撮るグループに参加して、仕事の合間に日本各地を回るようになったらしい。路傍のお地蔵さんや五百羅漢像などの写真には、撮影場所として大分県国東半島、兵庫県加西市北条町、群馬県六合村、長野県白馬村、岩手県遠野村、青梅、秩父等々のメモが付いていた。

 筆者は写真のことを父と話したことは一度もなかったし、石仏の写真を見せられても挨拶の言葉に困るだけだったろう。だが今アルバムの写真を眺め、添付されたメモ書きを読んで、知らなかった父の一面を見たように思った。 

 長野県小谷村の路傍の石仏の写真には、「野墓地の一角に草に埋もれた童子佛があった。 この山国では昔からたびたび飢饉に見舞われたといい、そのつど村びとは飢えと貧困に泣き、身売りや子どもの間引きなどの悲劇が起こったという。この世に縁の薄かった子供達のために先祖の墓と並べて地蔵を建て供養した。」という説明書きが付いていた。
 また、「好んで山林の楽しみを口にし山林に閑居するのはまだほんものではない。ことさらに隠逸を願うのはまだ完全に悟りきっていない証拠である」とか、「幸福は求めようとして求められるものではない。常に神仏を拝んで機嫌よく暮らして福を招き寄せるように心がけるばかりである。」という人生論ふうの文章もあった。

 だが添えられている多くはさらさらとスケッチしたような短い言葉で、次のようなものだった。

 「冬木立 人来たり人去る」

「泣きつつ祈る人の子に 落ち葉そそぐ」

「なんとなくあるいて 墓と墓との間」

「まっすぐな道でさみしい」

「木の葉散る 歩きつめる」

「うれしいこともかなしいことも 草しげる」

「何を求める 風の中ゆく」

「青葉の奥へなほ径があって 墓」 

種田山頭火の「俳句」を真似たわけではないだろう。父の遺した書物の中には山頭火も尾崎放哉もなく、そもそも俳句に関するものは皆無だった。だが上の言葉のスケッチは、「分け入っても分け入っても青い山」、「落ち着いて死ねそうな草萌ゆる」という山頭火の句の横に置いても、何の違和感もないように思う。
 父は書くことが苦にならなかったのだろう。そうしたスケッチ風のことばを思いつくまま、無造作に書きつけることができた。それは筆者にとって、軽い驚きを伴った発見だった。

 

▼筆者は父の経歴について、アウトライン以外はほとんど知らないし、知る人もすでにほとんどいないに違いない。
 父は大正5年、茨城県の農家に男4人女1人の兄弟の4番目として生まれた。一人だけ戦前の大学に進学したわけだから、学校の成績は良かったのだろうし、生家もそれなりの資産や収入があったのだろう。昭和16年に中央大学を卒業し中国大陸に渡るが、それが職を求めてなのか、それとも徴兵された結果なのかは、よく知らない。中国大陸にあった日系企業に就職し、そこでそのまま徴兵されたのかもしれない。筆者には、上海にいた時の話を断片的に聞かされた記憶がある。

 戦後内地に引き揚げ、昭和21年に結婚し東京に住んだ。「肥料配給公団」に勤務していたらしいが、やがて公団は解散し、失業する。どのくらいの期間失業していたのか、詳しいことは分からない。子どもが3人いたので、妻子を養うために神田駿河台下にあったレストランで働き、その後雑誌の校正の仕事などをしていた時期もあった。
 昭和36年ごろ知人たちと、ビルの管理や清掃を手掛ける会社を設立する。一家はその前後に渋谷区から狛江市に引っ越したのだが、それは会社設立の資本金に充てるために、渋谷の土地を売る必要があったからだろうと筆者は推測している。しかしその間の事情についても、本人や母に聞いたことはなかった。
 会社の事業は、社会の経済成長とともに順調に伸びたらしい。経営者としてそこで仕事を続け、「相談役」を退いたのは八十歳代半ばであり、3年後の平成17年に、89歳で亡くなった。

 

▼父は、戦前の男子としても背が低かったが、身体はがっちりしていた。相撲やプロレスを観るのが好きで、筆者は子どものとき学生相撲を観に連れていかれたことが何回かあった。力道山と木村政彦の真剣勝負を観に行った記憶もあるのだが、それは筆者の記憶のあやまりだろうか。
 また父は、漢詩や中国の故事・ことわざの類が好きで、関心があったようである。「豆を煮るに豆がらをもってす」といったことわざをときどき口にしては、うるさそうな顔をしている息子にその意味を説明した。しかしそういうことは例外で、多くの場合、父は息子に対し控えめで、話しかけようとはしなかった。だから父に関する話の多くは、彼と母が話していたことを筆者がそばで聞くともなく聞き取ったものである。
 いまTVの朝ドラのモデルになっている日清食品の安藤百福の話が、何かの折に出たことがある。一見するとモーロク爺さんのようなのに、話の勘どころになると、それでナンボになる?と鋭い質問をしたと、父は母に話していた。 

晩年、仕事をやめてから好んで読んでいたのは、内田百閒の文章だった。筆者は読んだことがないので、どのように面白いのかまるで見当もつかないが、文庫本で十数冊が遺されていた。

 

▼筆者は小学生のころから、父と言葉を交わすこと、顔を合わせることを避けていたように思う。父の発音は「茨城弁」のせいかイとエがあいまいで、江戸はイド、狛江はコマイとなった。農家の生まれのくせにニンジンやネギが嫌いで、ニンニクなどもってのほか、食が細く、酒を飲まず、食事を楽しむという「文化」を持たなかった。話に知的な切れ味や面白みが乏しく、ときどき口にする垢抜けないダジャレは、家族の顰蹙を買うだけだった。
 だから筆者は、父との会話を避ける理由を父の側に求めようとしていたが、事実はそうでないことに十分気付いていた。
 筆者は父との関係を想い起して、以前このブログに書いたことがある。 

 《……ひとつ屋根の下に暮していても、離れて暮らしていても、会話というものはほとんどなかった。子どもから父親に話しをすることはなく、父親から話しかけることもなかった。それは子どもが自分を避けていることを、父親が知っていたからであろうし、話しかけたときに返される残酷な反応を、彼がひそかに怖れたからかもしれない。

 詩人・吉野弘に「父」という詩がある。

 

「何故 生まれねばならなかったか。

 

 子供が それを父に問うことをせず

 ひとり耐えつづけている間

 父は きびしく無視されるだろう。

 そうして 父は

 耐えねばならないだろう。

 

 子供が 彼の生を引き受けようと

 決意するときも なお

 父は やさしく避けられているだろう。

 父は そうして

 やさしさにも耐えねばならないだろう。」 

 筆者が父親を避けたのは、けっして「自分の生を引き受けようと決意」したからではなく、やさしい心根からでもなかった。通常なら思春期の一過性で終わるべき感情が、いつまでも成熟しない精神によって、長く保持されたということなのだと思う。》(「新しい背広」20121216日)

 

 上の記述は、筆者と父との関係をそれなりに正確に表現しているが、多少踏み込みが足りないようだ。中島敦の『山月記』のなかの言葉を借りるなら、筆者の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」こそ、われわれのあいだの会話の無さを説明するものだった、と今思う。
  筆者は、父ともっと話をしていたらよかったとは思わないし、また、彼の歴史をもっと知りたいとも思わない。だが今ならずっと穏やかに、相手をおもんばかる余裕をもって、接することができるだろうとは思う。
  父が仲間と撮影旅行に出かけ撮ってきた石仏写真を観ながら、こういう同好の士が結構いるんだねと話を向け、短い感想をもらすぐらいのことなら、今の私は自然な態度でできるように思う。

 

▼フランス文学者だった桑原武夫に、「おやじ」という小文がある。(『桑原武夫全集』4 朝日新聞社 昭和43年)
 桑原の父、桑原ジツ蔵(明治3年~昭和6年 ジツはPCに用意がない漢字のためカタカナで表記)は、那珂通世、内藤湖南、白鳥庫吉らと並ぶ東洋史学者だったが、亡くなる2年前に倒れ、寝たきり状態で最晩年を過ごした。医師の提案で、家族か付き添い人か誰か一人が寝ずの番に就くことになり、桑原が付き添っていた晩だった。暗くした電気スタンドの明かりで本を読んでいると、父はふと目を覚まし、息子に気づき、声をかけた。「武夫、何か言っておかなければならぬことでもあるのか」と。 

 《最初よくわからなかったが、すぐ父の顔つきと語調から直観された。その直感にまちがいはない。みんなが寝しずまった深更に、死ぬ前の父に何か告白しておかねばならぬことがあって、私が枕頭にすわっていると思ったのだ。なんでも言ってごらん、といった意味のことをつぶやいた。私がよく夜おそく帰り、二、三度朝帰りしたこともあるところから、借金ができている程度のことならなんでもないが、ひょっとしてのっぴきならぬ女関係でもできているのではないか、そんなことが、衰弱しきった、しかし愛情にみちたおやじの脳裏にひらめいたのにちがいない。私の伯父やいとこにいろいろのことをしたのがある。しかし私については父の買いかぶりであった。
 私は耳に口をよせていった。
 「おとうさん、なにも心配していただくようなことはありません。そんなことは何もない。」
 そのときの父の、なんといううれしそうな顔、苦しいのか、もう何も言わなかったが、顔には安堵があった。すまぬというか、つらいというか、そのとき受けた強い感動は、きわめて単純なものであったのに、形容しようとするとむつかしい。
 やさしいおやじだった。》

 桑原武夫には、父親の生涯を見渡した「桑原ジツ蔵小伝」という文章がある。それは次のように結ばれている。
 「……少年の日の夢が老年に実現する、それを美しい人生という、とフランスの詩人はいった。那珂、白鳥、内藤の諸氏とともに、日本に世界にほこる東洋史学を樹立した彼は、美しい人生を送ったひとといいうるであろう。」 

この言葉は文句なく美しく、父親を語る息子の言葉として出色のものであろう。筆者はそのことを認めつつ、同時に彼の「おやじ」という率直な文章を好んでいる。

 (おわり)


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