1.南イタリアへ (バーリ、マテーラ、レッチェ)

48日(日)

 早朝の調布駅で530分発の高速バス・成田空港行きに乗る。乗客は思いのほか多い。75分に成田空港第1ターミナルに到着。スイス航空のカウンターはまだ開いていない。

 出発は1025分の便だから、一台あとの高速バスでよかったのだが、妻の意見にしたがって十分すぎる安全を見込んだのである。コーヒーとドーナッツで軽い朝食とする。

 妻は、2日前に指を切ったのでバンドエイドを貼っているが、少し腫れて痛む、という。切った時の様子はよく覚えていない、紙でスッと切ったのかもしれない………。

ちゃんと消毒はしたのか、と聞くと、最近のバンドエイドは消毒の必要はないのだというような、要領を得ないことを言う。

スイス航空LX161便は予定どおり10時半に出発、チューリヒに1550分に到着。チューリヒ空港は初めてだが、あまり広くなく、端の方には民家が見えた。成田空港ほどの大きさのようだ。曇り空から小雪が少しちらついていた。

乗り継いだバーリ行きの便・LX48201810分出発、20時に到着。入国手続きもなく、荷物を受け取るとすぐに外に出た。

イタリアの20時はちょうど夜が始まる時刻だった。着陸した時には周囲の様子は十分見てとれたのだが、荷物を受け取るわずかな間に闇が辺りを包んでいた。16番のバスでバーリ中央駅に向かう。

バスの窓から見る夜のバーリの街は、人通りも少なく寂れた感じだった。終点のバーリ中央駅で下車。荷物を引いて67分歩き、ホテル・モデルノ Hotel Modernoに到着。レセプションには若い美形の女性が1名。笑顔でてきぱきと手続きをしてくれる。部屋に入り、シャワーも浴びずにベッドに入った。

 

49日(月)曇

 

午前1時過ぎに目を覚ます。小用を済ませ、寒いのでベストを着てベッドにもぐりこむ。7時半に起床。8時に朝食。妻の指の腫れは昨日ほどひどくなく、ひと安心。

部屋に戻り、当面イタリアで必要なものをスーツケースから抜き出しながら、トルコのガイドブックを家に忘れてきたらしいことに気づく。イスタンブルは十数年前に一度行ったのでおおよその見当はついているが、カッパドキアは初めてである。ガイドブックが手元に無いと極めて不便だ。今回の旅行は出だしからよくないな、と苦笑する。

9時半にホテルを出る。風が強く吹き、寒い。東京の3月初めの気温である。

バーリはイタリア南部の中心都市のはずだが、人通りは少なく、商店はシャッターを下ろしている。路上で見かけるのはアラブ人や失業者風の男女であり、あちこちにスプレーの落書きが見え、街として荒廃した感じが強い。

中央駅に着きアルベロベッロ行きの私鉄Sud-Est線のホームに行くが、切符を売る駅員も乗客の姿もない。ガイドブックによれば、土日は電車は出ないのでバスを利用するしかないそうだが、今日は月曜日である。しかし寒風の吹きつけるホームには、しばらく待っても電車の出る気配は訪れない。

あきらめて、線路に沿って少し街を歩いた。人通りは相変わらず少ない。じきに隣駅に着く。Sud-Est線は始発駅と隣の駅のあいだは、500600mぐらいしか離れていないのだ。しかしここにも電車の通る気配はまるでなかった。

   

寒風の中を北に向かって歩く。海岸に出、魚市場(ここも閉まっていた)の横を通り、旧市街に入る。狭い小路が曲がりくねり、小路の上を建物が橋のように跨ぎ、街角の壁にはキリストや聖母マリアの絵や像がひっそりと祭られている。

   

路地を曲がるとカテドラーレが見えたので、中に入る。素朴な造りである。
 また外に出て、細い路地を行くと旧市街が終わり、城の前に出た。寒風を避け、中に入って一時休憩。

ギリシャへ行く船が出る波止場が近い。当初の旅の計画では、ブリンディシからギリシャのパトラへ渡るつもりだったのだが、春先には船が航行していないことが分かり、ひと月ほど前、急遽バーリからの出航に変えたのである。船のチケット販売所の位置を確認する。

昼食にしようとヴィットリオ・エマヌエーレ通りを歩く。しかし商店は軒並み閉まっている。通りを黙々と歩き、ただ一軒開いている食堂を見つけて中に入る。ドアが開くと寒風が吹き込む入り口近くのテーブルと、そのすぐ横の小さなテーブルを除けば、すべて満席だった。横の小さなテーブルに座り、ビールを注文し、やっと胸をなでおろす。二時近かった。

メニューを求めると、ウエイトレスの女性は、今日は祝日なので魚の定食だけよ、と言う。それで結構、それを下さい。

左の壁に沿ってテーブルをつなげて、年寄りから幼児まで二〇人ほどが集まり、騒いでいる。一族のパーティらしい。

入り口近い隣のテーブルには、われわれより一足遅れで店に着いた観光客らしい家族がすわった。父親らしい中年の男と目があい、互いにニヤリとする。お互い条件の悪いテーブルで、たいへんですな、といった意味である。他の店がどこも閉まっているので、ここしかなかった、と彼は肩をすくめて言った。

なぜ閉まっているのか理由を知っているか、と聞くと、今日はイースターだから休みなのだ、と彼は答えた。それでアルベロベッロ行きの電車がなかった理由が分かったが、イースターは日曜日のはずではないか、とすこし疑問も残った。

 

定食は悪くなかった。魚のすり身ややモッツァレラチーズの揚げ物と生ハムの前菜が出され、そのあと餃子のような詰め物のクリーム煮とリゾット。メインディッシュに出てきたのはグリルで焼いた車エビで、ひと皿に8匹も並んでいた。デザートはメロンとイチゴの盛り合わせ、チョコレートケーキ、最後にエスプレッソ。十分すぎる量だった。

2時間の昼食を終え、もう一度旧市街に戻って聖ニコラス教会を見物し、ホテルに戻った。

   

午後7時過ぎ、夕闇の迫る街を一人で散歩する。あいかわらず店は閉まり、人出が少なく、寂れた感じが強い。アラブ人が経営するらしい小さな店でビール(Moretti)を買い、妻が食堂の昼食から持ち帰った車エビとビールで夕食とする。ホテルに言って毛布を余分に持ってきてもらい、9時に寝る。

 

4月10日(火)晴

 

目が覚めるとまだ午前2時少し前。小用。浅い眠りをつづけ、6時前に起きる。昨日開けなかったスーツケースのポケットにトルコのガイドブックが入れてあるのを発見する。ひと安心だが、自分の整理の悪さに苦い思いもある。

7時に朝食。9時にホテルを出る。気温は低いが太陽が顔を出し、風もない。通りを行き交う人が多くみられ、昨日のさびれた街の印象がウソのように、活気が戻っている。街の「さびれ」は建物の汚れや落書きによるばかりでなく、人の姿の多い少ないも大いに関係するようだ。

今日は動いている私鉄AppuloLucane線の窓口で、マテーラまでの往復切符を買い、942分の電車に乗る。窓外に、やがて見渡すかぎりの広い畑や牧草地があらわれる。ところどころに低い石垣が見えるが、これはこぶし大の石の混じる土から根気よく石を除き、それを積んで垣としたのだろう。生えている雑草がひざ丈ぐらいで止まっているのを見ると、あまり肥えた土地ではなさそうだ。

1時間半でマテーラ・チェントラーレ駅に到着。地下のホームから地上に出ると、通りを行き交う人の多さにびっくりした。鄙びた山村を想像していたのだが、立派な地方都市の構えを見せる街並みで、通りに沿ってきれいに飾られた店々のショウウインドーが並んでいる。濃いブルーの空は良く晴れわたり、雲ひとつない。

ローマ通りを下り広場に出ると、その一角から「サッシ」と呼ばれる洞窟住宅の立ち並ぶ風景を見ることができた。緑の木々のほとんど生えてない土色一色の世界。さっそくわれわれも風景の中に入り、入り組んだ細い道を下り、また昇る。洞窟住宅「サッシ」は崖に横穴を掘ったものもあるが、柔らかく加工しやすいこの土地の岩石をブロック状に切り出し、これを積んで家にしたものが多いようだ。

ドゥオモが小高い丘の上に見えたので、急な石畳をのぼる。ドゥオモ前の広場から振り返ったサッシの世界の広がりは、見事なものだった。しかしさらに素晴らしい景色が待っていることを、そのときは知らなかった。


広場から横手に回り、サッシの世界を取り巻く高台の裏側に出た。裏は崖になっており、崖の下には細い谷川が流れ、その向こうの丘は岩肌の露出した部分を除けばと緑の草原で、地平線まで見わたせた。人家は一軒もない。土色一色のサッシの世界の外側に、緑でおおわれた無人の世界があること。この極端に対照的な世界を目の当たりにして、しばらく言葉が出なかった。


昼食をJITRAのサイトで紹介していたイル・カントゥッチョでとる。(探し当てたわけではなく、通りを歩いていてたまたま記憶にある名前のレストランを見つけたのだ。)

われわれが店に入った2時少し前にはまだ二組ほどの客しかいなかったのだが、じきに満席になった。前菜の盛り合わせと子羊肉のローストを注文。ナスの前菜料理が美味。身体が甘いものを欲していたので、チョコレートムースとコーヒーも頼んだ。料理を説明してくれるウエイトレスの笑顔と柔らかな物腰が、きわめて好印象だった。

412分の電車に乗り、帰る。電車の中で隣の座席の若い男が、「日本の方ですか」と話しかけてきた。シエナのイタリア語学校に留学しているという。しかし何人か日本人仲間がいるので、日常的に日本語を話してしまう環境なのだそうだ。人は良さそうだが、素直すぎてなんとなく頼りないという印象。だが、いまの日本の若者の平均的な姿かもしれない、とも思う。

終点のバーリ・チェントラーレ駅で学生と別れる。妻は、あなたの言い方が詰問調で、あの人に気の毒だった、と感想を述べた。明日のレッチェ行きの切符を買って、ホテルに戻る。

 

4月11日(水)曇

 

4時半に目覚め、5時半起床。妻の指は、昨晩呑んだ痛み止め薬のおかげか、昨日より痛まないということだが、化膿してソーセージのように膨らんでいる。

ホテルで朝食を済ませ、チェックアウト。9時37分の電車でレッチェへ向かう。乗客は少なく、向かい合わせの座席に足を伸ばす。電車の窓は土埃で汚れていた。しばらく走ると雨が降り出し、窓に吹き付けた。窓外にはオリーブの木を植えた畑がつづく。ときどき松林も見えるが、日本のものほど風にいじめられないせいか、ひねこびていない。

終点のレッチェ駅に12時過ぎに到着。雨は止んでいた。タクシーを拾い、ホテル名と場所を告げると、年配の運転手は頼まれもしないのにゆっくり車を走らせながら、町の説明を始めた。どうやらまっすぐホテルに向かっているのではないらしいと思ったが、これも悪くないと考え、彼の案内に従うことにした。結局、メーターの示す金額はかなりのものになったが、苦笑しつつ支払う。

ホテル・トーレ・デル・パルコ1419 Torre Del Parco1419 は街のはずれにあった。古い塔と城壁をホテルに改築したらしいのだが、インターネットで調べたホテルの写真に魅力を感じて、ぜひ泊まりたかった所である。しかし今日は、部屋に落ち着く前にしなくてはならない仕事がある。

ホテルに入り、レセプションに座る女性に妻の腫れた指を見せ、自分たちは今晩ここに泊まるのだが、この近くに良い病院はないか、と聞いた。それは丁度よい、隣が病院だ、と彼女は答えた。

荷物を預け、ホテルを出、彼女の指差した方角に歩いた。高い塀に囲まれた施設があることはあったが、看板もなく、建物も木々の奥にあるらしく門のあいだからは見えない。

そこを通り越してみたが病院らしい施設も現れず、引き返して門わきの守衛所をのぞき、ここは病院か、と尋ねた。そうだ、しかし紹介状が必要だ、というような返事だった。妻の指を見せ、どうしてもドクターに見せる必要があるのだ、と粘ったが、彼は、タクシーで5分ほどの所に病院があるからそこへ行け、と言う。

ホテルに戻り、レセプションの女性に、隣でこのように言われた、タクシーを呼んでほしいというと、彼女は電話を取り上げ、何かしきりに話したすえ、ここで待つように、と言った。病院の名前を聞くと、ヴィトー・ファッツィ(Vito Fazzi)病院だという。ほどなく若いタクシーの運転手が現れ、われわれは車に乗った。

 

車の中で、話しかけてくる運転手に応えながら、せわしなく頭をめぐらせた。レッチェの街にわれわれは2泊するが、その後も旅を続ける予定だから、手術をするなどといわれると困る。どうしても抗生物質で抑えていくしかない。ドクターにそう言わなければならない。抗生物質はイタリア語で何というのだろうか。
 
 持ってきたザックを開けてみると、あいにく和英辞典しか入っていなかった。とりあえず
anti-bioticアンティバイオティックと言う言葉を頭に入れたところで、病院らしい施設に着いた。建物の2階の上部に掲げたPRONTO SOCCORSOという大文字が見えた。(帰国してから調べたところでは、PRONTO SOCCORSOは救急センターとか急患窓口の意味だった。)

運転手は、ついて来い、というと受付の窓口に行き、受付の男に何か説明をする。受付の男は妻の指を手に取って見、パスポートを確認してから、中に入れ、というしぐさをした。運転手は私に名刺を渡し、にこやかに手を振って帰っていった。

受付の男は私と妻を小さな窓のない部屋に通し、医者らしい男に説明をしてから去った。私はあらためて事情を説明したが、中年の華奢な体つきの医者に、私の話がどれだけ通じたのかよく分からなかった。彼は途中で一度だけスロウと言い、怪訝な顔をする私にslouと書いて見せた。ああ、ゆっくりslowly話せ、ということだな、と分かり、妙に安心した。

彼はカルテに何ごとか書き込み、自分の肩書を記したスタンプを押し、そこにサインをして、これを持ってナントカプラスティカへ行くように、と言った。そして廊下に出て診療科目を表示しているアクリル板の前で、CHIRURGIA PLASTICAの文字を指さした。厚く礼を言って別れたが、心配が残った。CHIRURGIA PLASTICAは知らないが、CHIRURGIA は類推するに外科であろう。指を切開して膿を出すつもりだろうか。

 

長い廊下を歩き、エレベーターを待ちながら、頭は病院への支払いや旅行保険の手続きのことで忙しかった。保険契約の時点で妻の指は化膿していなかったから、申告義務に違反するわけではない。しかし原因となるキズをつけたのは旅行に出る2日前である。こうした場合、保険は適用されるのだろうか。

 もし適用されるとして、必要な書類は何だろう。これこれの金額をたしかに支払ったという病院の領収書はもちろん必要で、どういう病気でどういう処置をしたかという医者の診断書も欠かせないのではないか。領収書と診断書をもらわなければならない。

領収書は何というのだろう。不思議なことに、リチェブータという単語がすらすらと頭に浮かんだ。診断書は?そんな言葉は当然知らない。フランス語で証明書類をセルティフィカといったはずだから、それが通じるかもしれない……。

エレベーターを6階で降り、CHIRURGIA PLASTICAを探したが見つからない。通りかかった看護婦に聞くと、一度5階に降り、別のエレベーターか階段を使うようにという答え。この病院は建て増しで大きくなったらしい。

   


 やっと目指す診療室に入り、女医さんに見てもらう。彼女は妻の指をしばし眺め、私は横から、旅行中なのでアンティバイオティック(抗生物質)が欲しいと訴えた。彼女はうなずき、アンティビオティーコと呟いてカルテに記入を始めた。

診療室の窓から遠くに、塔を中心としたレッチェの街が見えた。部屋のカレンダーを見ると、4月8日の日曜日は復活祭Pasquaで祝日、その翌日の月曜日も祝日のマークがついていた。

女医は妻の指に薬を塗り、包帯を巻いて治療は終わった。いくらお支払すればよいか、と尋ねると、彼女は、コムーネがどうのこうのと言い、サインをしたカルテを渡し、もと来た小部屋に戻るように指示した。治療費は自治体が負担するから不要だ、というように聞こえたのだが、あるいは私の聞きまちがいかもしれない。


1階の窓のない小部屋に、先ほどの医者はいなかった。別の医者らしき女と男がカルテを見て処方箋を書き、サインをして私に手渡し、ファルマチーアに行くようにと言った。街の薬局でこの処方箋を見せて薬を買えばよいという意味だろう、やはり治療費はタダなのだ、と思った。

礼を言って部屋から出、病院の出口を探して院内をうろうろするうちに、FARMACIAと書かれた部屋の前に出た。ひょっとしてあの男の言ったファルマチーアはここかもしれない、という考えがひらめき、中に入り処方箋を見せると、白衣をはおった女性が薬をくれた。

クアントパーゴ?(おいくらですか?)。女性は笑いながら手を振り、不要だと言った。一介の旅行者なのに、治療費も薬代も無料。キツネに鼻をつままれたような、不思議な気分だった。

 

病院の外に出、巨大な建物の周りを歩きながらタクシーを探すが、一台も停まっていなかった。来るときに乗ったタクシーの運転手から名刺をもらったことを思い出し、名刺に書かれている番号に電話をかけた。
 5分で行くから、降ろしたところで待っててくれ、と元気の良い声が聞こえ、本当に5分後に彼は来た。ホテルまで送ってもらい、彼には十分なチップを進呈した。レセプションの女性に包帯を巻いた妻の指を見せ、あらためて礼を言って、チェックインの手続きをとった。

 

妻は食欲もないし疲れたから、部屋で休んでいると言った。一人で外出する。ホテルの前の道路をまっすぐ300メートルほど行くと、旧市街の端のイタリア広場に出る。そこから右手に曲がり、幾度か小路の角を曲がるとサン・トロンツォ広場に出た。売店で街の地図を買い、近くのバールでコーヒーを飲みながら、地理の見当をつける。

ドゥオモ広場へ行き、鐘楼を見上げる。ヴィトー・ファッツィ病院の6階の診療室から見えた塔はこれだな、と思う。ドゥオモの中は明日妻と来ることにして、ドゥオモと鐘楼、司教館、神学校に囲まれた広場で腰を下ろし、しばらく時を過ごした。


近くの商店でハムやソーセージ、チーズ、パン、ワインなどを買い込み、ホテルに帰る。遅い昼食兼夕食とする。

 

4月12日(木)晴

 

 7時起床。部屋の窓から椰子の木の植えられた広い中庭が見える。早朝の冷たい空気を吸い込みながら、しばらく椅子に腰かけ庭を眺めた。8時に朝食。レンガづくりのアーチが天井に縦横に走る食堂で、豪華な気分を満喫する。妻の指は悪くもないが良くもない、という。悪くなっていなければ、良しとしなければならない。


 9時半に外に出る。サン・トロンツォ広場にまず行き、サン・トロンツォの円柱を見上げ、円形闘技場を見おろしたあと、公園で一服。空は雲ひとつなく、春の日差しが心地よい。サンタ・クローチェ聖堂を見てから凱旋門を通り、北のはずれのサンティ・ニコロ・エ・カタルド教会まで歩く。墓地を持つ素朴な造りの教会の中を歩いていると、若者がおおぜいいる中庭に出てしまった。昔の修道院を大学施設としているらしい。



 旧市街へ戻り、ドゥオモ広場近くのレストランで昼食。食後、ドゥオモの中を見、ホテルに帰る。

 ホテルのそばまで帰ってきたとき、隣の施設の高い塀の上に、OSPEDALE……と書かれていることに気づいた。昨日ホテルのレセプションの女性が教えてくれた、「隣は病院」という情報は、確かだったのだ。しかし「病院」の後に何か付いている。……OSPEDALE PSICHIATRICO……。PSICO……が「魂」や「精神」を意味することは、イタリア語の知識がなくても分かる。

要するに、指の治療をしてもらいに精神病院に出向いたという失敗の「笑い話」なのだが、笑うとホテルの女性の善意を嗤うことになるような気がして、彼女にも言わず、妻にもこの話をしなかった。

   

 午後はホテルの中庭でのんびりと、持参した『遊びと人間』(R.カイヨワ)を読んだ。
 著者は「遊び」を4つに分類する。サッカーやチェスのような「競争」の要素の強いもの、ルーレットのように「偶然」を楽しむもの、ままごとや演劇のような「模倣」による遊び、そしてジェットコースターのような自分の内部器官の混乱状態を楽しむ「眩惑」。なかなかの力技であり、面白いと思う。

ところで「旅行」は、どのような「遊び」なのだろうか。非日常的な場に身を置く緊張感、美しい景色や街並みを見る解放感、書物によって知った知識を確かめる達成感、芸術作品を実際に見る美的体験、美味いものを食べ買い物を楽しむ満足感………。

旅行が多くの現代人にとって遊びであることは確かだが、どの面をとっても上の4分類には収まらないようだ、などと考えたりした。

明日の電車の時間をホテルで調べてもらうが、バーリ行きは8時過ぎの次は10時発になるという。初日に行けなかったアルベロベッロへ行くつもりなのだが、あまり時間は取れなさそうだ。

夕方、また旧市街に行き、ルスティコという名のチーズやトマトをパイ生地で包んで焼いたパンを買い、ホテルで夕食とする。

 



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