2.南イタリアからギリシャへ (アルベロベッロ、ナフプリオン、アテネ)

4月13日(金)曇のち雨

 

 イタリアに来てから天気は一日おきに、晴天と悪い天気を繰りかえしている。今日は悪い日の番だ。

 7時起床。8時過ぎに朝食をとり、9時にチェックアウト。9時半にタクシーを呼び、10時の電車でバーリへ戻る。気温は低く、途中から小雨が降り出した。背広の上にオーバーコートをはおった男や、毛皮のエリの付いた防寒着姿の女性が同じ車両に乗り込んでくる。間違って北国へ来たみたいだ、と苦笑する。

 1150分にバーリ駅に到着。荷物を駅に預け、アルベロベッロ行きのSud-Est線の切符を買い、駅の外に食事に行く。妻は食欲がなく、駅前のカフェでホットドッグとカプチーノの軽い昼食。

 

 Sud-Est線のホームは、高校生ぐらいの若者たちで混雑していたが、到着した電車には全員がすわれた。駅に停まるたびに若者たちが降り、また新たに乗り、この路線は主として中高校生を運ぶ足になっているらしい。大人の客は少なく、土・日曜日に運休なのも合点がいく。

 窓の外は畑が続くが、桃の花だろうか、白い花をつけた木々がときどき見られる。実をとるために栽培しているようだ。白塗りした壁の上に平たい石を円錐状に積んだ屋根の家、つまりトゥルッリも畑の中にときどき現れる。1時間半後にアルベロベッロ駅に到着。小雨に風も少し加わり、散歩を楽しむ天気ではない。

   


 10分ほど通りを歩き、左へ曲がるとすぐにトゥルッリの集落が見え、広場に出た。集落の一番奥にあるらしいサン・アントニオ教会をめざし、トゥルッリのあいだの坂道を登る。ほどなくして現れた教会は、素朴で洒落ていて、感じが良かった。


 天気の悪い日には、他の場所にいても何もできない。そういう意味ではアルベロベッロに来たことは、合理的だったかもしれない。しかし妻の体調が良くないので、早々に駅に引き上げる。駅舎で1時間ほど休み、少し遅れて来た電車で5時半にバーリ駅に戻る。

 

 駅で預けた荷物を受け取り、タクシーで港へ向かった。先日下見をした切符売り場で、乗船券を受け取る。パスポートの検査所が切符売り場の隣にあったが、今は使われていない。シェンゲン条約とかで、条約締結国の間ではパスポート検査を不要としたのだ。

 岸壁に向かって小雨の中を、荷物を引きずって歩く。他に乗船客の歩く姿はなく、案内表示もない。岸壁近くでやっと荷物検査の建物を見つける。ここで乗船券をチェックして荷物検査が終わると、あとは船に乗るだけだった。

ギリシャのパトラ行きのフェリーボート・SUPERFAST号は、岸壁に船体の尻の部分を着けて停まっていた。大きく開けた開口部に向けて、貨物を積んだトラックやトレーラーが列をつくっている。そのあいだをすり抜け、やっと乗客用の入り口を見つけて乗り込んだ。

エスカレーターで2階に上がったところで、赤いベストを着た係員にキャビンの位置を聞くと、荷物を引き取って案内してくれた。2段ベッドの部屋で、トイレ、シャワー、ワードローブ付き。ベッドに横になって手足を伸ばし、安堵のため息をつく。個室をとって正解だった。

妻は疲労で早く横になったので、夕食は一人でレストランに食べに行く。大柄でいかつい顔立ちのギリシャ人たちが、大きな声でお喋りしている。ビール、ルシアンサラダ、ポークチョップ、パン、チーズで約20ユーロ。水とヨーグルトを買って帰る。『遊びと人間』の続きを読んで、11時就寝。

 

4月14日(土)

 

 7時に起床。8時過ぎに妻と朝食。ギリシャ時間では時差で9時過ぎになるせいか、レストランに客は少ない。

外は小雨が降り、風が強い。黒い雲がおおう空の下、船はギリシア本土とペロポネソス半島のあいだの狭い海峡を東へ進む。両岸が見える距離だ。

 12時到着予定が2時間遅れ、14時にパトラに到着。下船。ギリシャ第三の商業都市だというが、波止場の風景は賑やかなものではない。50歳ぐらいの女性が妻に話しかけてきた。韓国人だと名乗ったが、達者な日本語だった。一人でイタリアを旅行し、これからギリシャを回るのだと言った。

 

 今日の宿泊地・ナフプリオンへ行くため、アテネ行の15時のバスに乗る。バスは左手に海、右手に山を見ながら、海峡沿いに走る。雨は上がり、陽光がさし始めた。白い岩肌のあいだに少し緑の草の生えている岩山が続く。喬木は一本も生えていない。

 17時にコリント郊外のイスティモス・バスステーションに着き、下車。ここでナフプリオン行きのバスに乗り換える計画である。イスティモス(Isthmos)という名のバス乗り場については、『地球の歩き方』のギリシャ版にも『Lonely Planet』のGreece版にも出てこない。しかしインターネットで調べるかぎり、パトラからバスでナフプリオンに向かう場合、ここで乗り換えるのがもっとも便利なはずである。

 バスの出発まで1時間半ほど時間があった。バス乗り場のカフェで「運河」の位置を聞くと、ほんの100mだというので、喜んで見に行く。

イオニア海とエーゲ海は、このペロポネソス半島の付け根の部分でさえぎられている。紀元前から権力者たちは、ここに運河を通すことを考え、ローマ皇帝ネロはユダヤ人の囚人6,000人を投入して実際に掘り始めた。しかし蛮族の侵入によって計画は中止され、結局幅23m、縦深90m、延長6キロメートル超のコリント運河が完成したのは、19世紀も終わる1893年だった。

運河には歩いて渡る「歩道橋」が懸けられている。雄大な景観に感激し、何枚もカメラに収めた。

 

18時30分にアテネからナフプリオンに向かうバスが停まり、素早く飛び乗る。ここで乗ったのはわれわれ以外に3人だけで、あとはアテネからの客だった。1時間ほどでこの地方の中心都市・アルゴスに着き、それから15分ほどして終点のナフプリオンに到着した。

ホテルを探す。しかしホテルはどこも、空いている部屋はない、という返事である。近くに空いているホテルをどこか知らないかと聞いても、復活祭の休みで今夜は難しいだろう、という。ギリシャ正教の復活祭は、今年はローマン・カソリックのそれと1週間ずれているのだ。

アルゴスに行けばあるだろうか、と尋ねてみたが、やはり答えは変わらなかった。すでにあたりは暗くなり、甘い期待はすっかり消えた。カフェやレストランの客がしだいに増え、華やいだ空気が町にあふれているのに、われわれは今夜の宿を求めて荷物を引きずって歩いている。

8件目のペンションで尋ねると、小太りのおやじが黙ったまま、ついて来いというジェスチャーをした。彼は小路を二度曲がり、角のひと気のない建物の入り口のドアをポケットから出した鍵束で開け、電気をつけた。次にその1階の部屋のドアを開けた。天井が、妻が手をあげると簡単に届くほど低い粗末な部屋だったが、ベッドメーキングはなされ、古いソファーもあり、シャワーもトイレも付いていた。

おやじは振り向き、33ユーロ、前金で、と言った。私は喜んで35ユーロをわたし、彼は鍵を置いて帰っていった。8時半を回っていた。

 

夕食を、シンタグマ広場に面した格調の高そうなレストランでとった。復活祭の前夜とあって、テーブルはほぼ満席、着飾った男女が多かった。タラモサラダ、野菜スープ、ムサカ、タコのグリルとビール。ケーキとコーヒー。

日本で旅行の計画を立てたとき、カトリックの復活祭Pasquaのことはうっかり失念していたが、明日がギリシャ正教の復活祭だということは折り込んでいた。しかしそれがギリシャ人にとって、観光地に繰り出すような休暇を意味するとは思わなかった。

だが、なんとか今夜の宿も確保し、妻の指も膿が半分ほど出て回復の途上にある。明日は天気も良くなるだろう。

焼いたタコの足が美味だった。満足してレストランを出る。

真夜中に、外を歩く人の声と足音で目を覚ました。教会の鐘が鳴り、花火か爆竹の音もする。パジャマのまま外に出てみた。花火は見えなかったが、真上の空に星がいくつかきらめいていた。

 

4月15日(日)

 

4時半に一度目覚め、その後うとうとし、7時半に起床。8時過ぎに外に出る。空に雲はあるが、一応晴れている。しかし肌寒い。朝食前に、ヴェネチア支配時代の要塞・パラミディに登ろうと、歩き出す。

   

街は祝日のせいか、まだ眠っている。パラミディは目の前の岩山の上の方に見えているのだが、登り口が分からずうろうろする。有名観光施設なのに案内標識の整備がおろそかなのは、ギリシャ人が朗らかなせいか、それとも勤勉でないということか。

消防署脇の坂の小道を登る。やがて石の階段が現れ、さらに上に登る。つづら折れの階段を折り返すたびに、眼下の視界が広がり、ナフプリオンの街の赤レンガ色の屋根の向こうの緑の入り江が大きくなる。入り江のさらに向こうに、低い山並みが横に広がっている。


階段を登りきったところにパラミディの入り口の門があったが、閉まっていた。張り紙があり、昨日と明日は8時から15時まで開く、今日は終日閉鎖と書かれてあった。幸い門が石の階段を登り切ったところにあったから、眺望を楽しむためには何の支障もなかった。ギリシャ人はやはり朗らかなのだろう。

10時にシンタグマ広場に面するカフェで朝食。街を散歩して宿に帰り、荷物を引っ張って離れたペンションに鍵を返しに行く。昨夜のおやじは今日もいた。

「カリメロ。エフハリスト。(おはよう。ありがとう)」と鍵を手渡すと

「パラカロ。(どういたしまして)」と、おやじ。

立派にギリシャ語で用を足せたので、気分が良かった。

 

KTELバスの切符売り場に行くと、なんと閉まっていた。張り出された紙を見ると、今日は特別で14時30分までバスはないらしい。この町であと3時間近くを過ごすことに、妻は難色を示した。荷物を抱えたままでは動きが不自由だし、だいいち今日はどこへ行っても休みの可能性が高いのだから、彼女の判断はおそらく正しい。

近くのタクシー乗り場で、ミケーネに行き、それからイスティモスまで行くといくらかかるかと聞くと、今日ミケーネはクローズドだ、まっすぐイスティモスまで行くと70〜80ユーロだろう、メーターで行く、と言う。期待していたミケーネの遺跡が閉まっていることに落胆したが、しかたがない。イスティモスまで行けば頻繁にバスがあるだろうと考え、タクシーに乗った。
 
 タクシーは時速
130qで高速道路を突っ走り、45分ほどで昨日のバス乗り場に到着した。ちょうど70ユーロだった。チップをはずむと運転手はトランクからオレンジのたくさん入った袋を取り出し、全部持っていけという。2個だけ取り出し、ありがたく頂戴した。

バスの切符売り場は、ここでも閉まっていた。昨日のカフェで、軽い昼食。1440分にほぼ満員のバスが着き、アテネに行くことを確認してなんとか乗り込む。

 

車窓から眺める海は、陽光に照らされ深緑色に輝いていた。島の向こうに島があり、さらにその向こうにも島影があり、エーゲ海はみずうみのように陸に囲まれているように見えた。

バスは1時間後にアテネのキフィスー・バスターミナルに到着。タクシーに乗り換え、ホテル・エリダヌス Eridanus Luxury Art Hotel に16時に到着した。部屋にはバスタブが付いていた。シャワーだけで1週間を過ごしたことに不満だった妻は、さっそく湯船につかった。

 

この3日間、レッチェからバーリへ戻り、フェリーボートに乗ってギリシャのパトラに上陸し、ナフプリオンへ行き、そしてアテネに来るという具合に、ひたすら移動をつづけた。

身体の移動がつまり旅であり、旅に苦労はつきもの、という古典的常識にしたがえば、これはもちろん立派な旅なのだが、「限られた時間内にいくつ世界遺産を見学するか」という当世風の旅行の基準から見れば、いかにも非効率である。旅行会社にはけっして採用されないプランだろう。

日程を一週間ずらしていれば、イタリアでもギリシャでも復活祭にぶつからず、つまらぬ苦労もなく、実りも多かったと思わぬでもない。しかしこれを書いている現在、順調で効率的な旅行では得られなかった体験をしたのだから、「元はとった」という気持ちもどこかにある。

容易に手に入るものの有難みは少ない。旅を終えたあとの満足感は、旅の効率とは相反する場合が多い。

 

17時過ぎにホテルを出た。アテネの繁華な広場のひとつ、モナスティラキ広場まで10分ほど歩く。アクロポリスの丘が間近に見えた。地下鉄に乗りエヴァンゲリスモス駅で下車。急な坂道を上へ上へと登る。最後の急階段はケーブルカーで登った。

リカビトスの丘は三百六十度の眺望だった。夕陽に照らされたアテネ市内が、一望のもとに見渡せた。無数の白い建物が、視界いっぱいに広がっている。アテネにはギリシア全人口の半分が集まっているという。アクロポリスの丘も、2キロメートルほど先のやや低い位置に見えた。風がひどく冷たかった。

モナスティラキに戻り、広場の近くで夕食をとる。ギリシアサラダ、サガナキ、ムサカ、シシケバブをひとつずつ頼んだ。どれも結構な味だったが、量の多さに苦労した。


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