3.ギリシャ(アテネ、サントリーニ島)

4月16日(月)
 
 今日は雲はあるが、次第に晴れそうな空模様である。
 昨日妻が喜んで入ったバスは、排水管に漏れがあるらしく、流すと浴室の床に水が出てきた。一夜明けても、まだ小さな水溜りが残っている。新しい洒落たホテルだが、ヨーロッパの建築の評判どおり排水設備は弱いらしい。朝食をとり、部屋をとり換えるようにホテルに言って、9時半に外に出た。


 昨日同様モナスティラキ広場へ出、近くのハドリアヌスの図書館の遺跡を見たあと、アクロポリスの丘を目指して道を登る。今日も復活祭の休日で、ハドリアヌスの図書館もパルテノン神殿も入場は無料である。
頂上に立つ神殿が少しずつ近づいてくる。たくさんの観光客が丘の頂上を目指して歩いている。アクロポリスの丘を登るのは、足腰がしっかりしていないとなかなか難しい。





パルテノン神殿は紀元前5世紀に建てられ、ローマ時代にはキリスト教会として、オスマントルコ支配下ではイスラム教会として使われたという。17世紀には東地中海の覇権をめぐるトルコとヴェネツィアの戦いがあったが、1687年のアテネの攻防戦の際、火薬庫の置かれていた神殿にヴェネツィア軍の放った砲弾が命中した。神殿は大爆発を起こし、屋根は吹き飛び、今見るような姿になったらしい。
神殿に着き、振り返るとアテネの街が白く広がっていた。
神殿の柱は、立方体に近い巨石を円柱のパーツに加工し、それをいくつも積み重ねて造ったものだった。紀元前5世紀にどのようにして巨大な石を丘の上まで運び、積み上げ、そして柱と柱の上に梁を懸け渡したのだろうか。


 現在神殿は復元工事の途中で、働いている人の姿はなかったが、石の柱に足場がかかり、頭上にはクレーンが見えた。こうした工事はもう何十年と続いているに違いない。

  

丘を降りる。ディオニソス劇場跡の座席に腰かけ、ハドリアヌス門を見、プラカ地区を歩いてモナスティラキ広場へ向かい、昨夜行ったレストランで昼食。3時少し前にホテルに戻った。


フロントで、部屋の変更はどうなったと聞くと、この男が直す、とボーイを指さし、ボーイはドライバーなどの七つ道具を見せて自信ありげにうなずいた。
部屋に入り、ボーイは浴室の排水口を開けて溝のごみを取り除いた。バスの蛇口をひねるが、今度は水が漏れ出ない。シャワーの排水口についても同様の処置をし、これで良いはずだ、5分間水を出しっぱなしにして問題なければ解決だ、といって引き揚げていった。
5分後にフロントから電話があり、どうだ、と聞く。OKと答え、水を止めた。ずいぶん単純な原因による溢水だったのだが、これまでに幾度も同じ処置をしているのだろう。日本でなら当然、建築業者の瑕疵として直させているはずのものだが、ギリシャではどういう理由かボーイにその都度活躍してもらう方法が選ばれている。

 

私の手持ちの地図には、ガイドブックの地図にもアテネで購入したものにも、地下鉄ケラミコス駅が乗っていない。ケラミコス駅がアテネの観光エリアから少し外れているからだが、ホテルからそう遠くない位置にあるはずだと見当をつけて、夕方歩いてみた。ちなみにその昔、ケラミコス一帯に陶工が多く住んでいたので、これがセラミック(陶器)の語源になったという。
ピレウス通りを少し歩き、右に入ると洒落た飲食店が何軒かあり、広場があり、広場の真ん中が地下鉄の入り口だった。ホテルからモナスティラキ駅に出るのと、時間はほとんど変わらない。
地下鉄はごく最近開通したのだろう。建物は新しく、地下5階以上掘り込んだ大きな地下空間はまことに立派だった。車両も新しくきれいである。
シンタグマ広場に出る。ここは国会議事堂前の広場で、アテネ市内の主要地点のひとつである。(ちなみに「シンタグマ」とは「憲法」の意味だ。)
今回の旅行計画の中で、ギリシャの旅程は多少気がかりな面があった。
 財政破綻に直面し、EUからの支援と引き換えに超緊縮財政を受け入れたギリシャ政府に対し、国民は強く反発し、ストライキが頻発していると報じられていたからである。
4月の初めにシンタグマ広場で、77歳の男が拳銃自殺するという事件が発生し、それに関連して緊縮財政政策に対する抗議集会が、Facebookで参加を呼び掛けられている、という話も耳にしていた。
しかし現実に広場に来てみると、ベンチに腰を下ろした市民のお喋りに余念がない光景があるだけで、緊迫した空気も荒廃した施設も見ることはなかった。広場のあちこちで、腹を出して無防備な姿勢で寝ている犬を何匹も見かけた。


国会議事堂前の無名戦士の墓の脇に立つ衛兵の交代を見る。



ケラミコスに戻り、スブラキの看板を掲げた店でビールとワインとスブラキの簡単な夕食をとる。

 

4月17日(火)

 

 曇。朝食後10時に外出。ピレウス通りをオモニア広場方向へ歩き、途中、ソフォクレス通りへ斜めに曲がる。道に沿って中国語の看板を掲げた店が50件以上並んでいる。取り扱っている商品自体は女物の衣服や靴、雑貨など、たあいもないものだが、彼らの雑草のような強さ、しぶとさを感じる。彼らはこの異国の地に流れ着くと、根を生やすべく次々と一族や知り合いを呼び寄せる。互いに情報を融通しあい、協力し合うことで力を伸ばしていく。
 オモニア広場近くの野菜市場、肉市場、魚市場を覗く。すぐに北上して国立考古学博物館に行くところを、方角を間違えプラカ地区に入り込む。土産物屋の店先をいくつか見て回り、妻のサンダルや財布を買う。
 ようやく考古学博物館に着いたときは、正午をだいぶ回っていた。博物館と同じ敷地にあるレストランで昼食。肝心の博物館は午後3時に閉館だと言われ、駆け足で回ることとなった。
 アガメムノンの黄金のマスクが、同じような他のマスクと一緒に無造作に置かれていた。両手を広げ、斜めに構えたポセイドンのブロンズ像は、やはり見事な迫力があった。黒絵式と赤絵式の大きな壺がいくつも展示してあった。
 4時にホテルに帰る。
 夕方ひとりでシンタグマ広場へ行き、空港バスの発着地点と時間を確認する。サンドイッチやワインを買って帰り、ホテルの部屋で夕食。

 

4月18日(水)

 

 小雨が降っていた。朝食後、9時過ぎにホテルを出る。ときどき風が吹くと、折り畳み傘があおられ、肩が濡れた。ホテルからもっとも近いテセイオン駅から地下鉄に乗り、一度乗り換えてシンタグマ駅に出る。広場に面した端のビルにある「ユーロチェンジ」でトラベラーズチェック500ユーロを現金に換える。コミッションは15ユーロだった。

 

 広場から200メートルほどの所にある国立歴史博物館で、近代ギリシアの独立への歩みの展示を見る。雨のおかげか見学者はわれわれだけで、気分がよかった。個人旅行には非効率な時間も多いが、こういう贅沢な時間に恵まれることもある。
独立の英雄たちの肖像画が多数あった。房のついた赤い帽子をかぶりトルコ風の衣装を身に着けた者が多かった。ターバンを巻いている者もいる。文化的にはオスマントルコの影響が圧倒的だったのであり、西欧ロマンティシズムの扇動と支援がなければギリシアの独立は当時困難だった、ということを示しているのではなかろうか。
ディオニシウス・ソロモスの肖像画もあった。テオ・アンゲロプロスが映画「永遠と一日」でとりあげた、ギリシア独立の知らせを聞いて「祖国」に馳せ参じた愛国詩人である。
 昨今の日本の知的流行では、近代の「国民国家」には批判的な目を向けることにきまっているようだが、そのオリジナルな姿は健康的ですがすがしい。
外に出ると、雨はほとんど止んでいた。入るときは雨で、早く中に入ることしか考えなかったが、博物館の建物は昔の国会議事堂だったという。騎馬にまたがったコロコトロニスのブロンズ像が建物正面の高い台座の上にあった。独立戦争で活躍した山賊の親玉である。

 

すぐ近くのアテネ市博物館に行った。トルコ支配下のアテネは鄙びた村に過ぎなかった、という話を何かで読んだ。独立を果たした19世紀の後半になっても、アクロポリスの丘の辺りは人家が少なく、羊飼いたちが羊を連れて行き来していた、という。アテネの往時を写した写真か絵を見たかった。
 アクロポリスの丘の麓で、羊たちが群れている写真があった。丘の南西方向から写したものらしい。逆に北東のリカビトスの丘の方向から写した写真もあった。アクロポリスがはるか遠くに見え、その麓に家々が張り付いていた。
 そのときはなぜか見逃してしまったが、買って帰った図版集を家で眺めていたら、同じ構図で描いた油絵もアテネ市博物館にはあるようだった。描かれたのは写真よりも200年も前で、イスタンブル駐在のヴェネツィア大使が部下たちとアテネに遊んだ情景が描かれている。パルテノン神殿がヴェネツィア軍の砲弾で爆発するすこし前で、神殿には切妻の屋根が乗っていた。

 

 プラカ地区で昼食。寒いのでストーブを燃やしている側の席を取る。食前酒にウゾを呑み、ドルマーデス(コメとひき肉をブドウの葉で包んで煮たもの)、タラモサラダ、スブラキを注文。松脂の匂いのするワイン・レツィーナを飲み、食後にコーヒーの粉が沈殿しているギリシャコーヒー。
地下鉄に乗り、ホテルに帰る。

 

 午後3時過ぎに古代アゴラを見に歩いて出かけるが、閉まっていた。15時に閉まる、と入口に掲示があり、あきらめる。近くの美術商の店を覗き、アテネの昔の風景写真を何枚か購入。

 

 夕方、一人でアクロポリスの丘の南西にあるフィロパポスの丘に向かう。午前中の雨が嘘だったように夕陽が照っている。古代アゴラの敷地の周囲を回り込むように道をとり、丘を登る。



手持ちのガイドブックには、フィロパポスの丘周辺では強盗事件が発生しているので、「昼間でも十分に注意し、夜間は出来るだけ行かないこと」と赤い活字で書かれている。多少緊張していたが、他にも丘を登る人の姿はあった。やがて松林のあいだからアクロポリスの丘が左手に見えた。丘の上から夕陽に照らされたパルテノン神殿を眺めると、ギリシャまで旅してきた甲斐があったという満足感が静かに湧いてきた。
日が暮れはじめ、別の道を通って丘を下った。途中、入り口を鉄格子でふさいだ横穴があった。「ソクラテスの牢屋」という表示がかかっていた。

 

4月19日(木)

 

 晴。朝食後、チェックアウト。タクシーでシンタグマ広場に行き、エアポートバスで空港へ。1時間で空港着。空港1階の手荷物預かり所にスーツケースを預け、手荷物だけ持ってサントリーニ行きの飛行機を待つ。11時10分発の予定の便だが、時間を過ぎても搭乗を知らせるアナウンスはない。どうやら風が強いので出発の決定が出ないらしい。
 ギリシアの飛行機便は世界一安全だ、という話を以前聞いたことがある。ギリシア人パイロットは個人主義者で、少しでも天候に不安があると、飛行機を飛ばすことにけっして同意しないからだ、というのがその笑い話のオチである。しかしアテネは、こんなに良い天気ではないか。
 12時半近くになって出発する旨のアナウンスがあった。飛行機は12時45分離陸、2時にサントリーニ空港に着陸。タクシーでとりあえず島の中心の町・フィラに行き、白い建物の間から濃紺のカルデラの海を見おろす。


サントリーニ島の景観は噴火と地震によって造られた。噴火によって巨大なカルデラができたあと、島が地震によって沈み、カルデラは海とつながった。ホテルの多くは外輪山の上からカルデラの内側の壁にかけて建てられているので、海を真下に見おろすことになる。観光写真でよく見かける景色に出会えてまずは安堵し、やっと遅い昼食をとる。
 バスターミナルに行き、4時45分のバスで島の北の端の町・イアに向かう。バスは島の東側の海岸線を横に見ながら走った。人家はほとんどなく、草原が海に向かってなだらかに下り、その先にエーゲ海がある。20分ほどでイアのバス停に着いた。
 バス停近くの旅行案内所で予約しているホテルの名を告げたが、職員は首をひねり、聞いたことがないという。とりあえずイアの街の中心らしい教会前のスクエア(広場)に行き、あとは地元の人に聞いて回ることにする。
 


 スクエアは5分ほどの距離だった。そこから見下ろすカルデラの海の景色にしばらく見とれてから、近くの土産物店に入り、ホテルの名を伝え、どこにあるか知らないかと聞く。知らないというので、インターネットで予約した際のプリントを見せた。すると親切にも電話を掛けてくれた。しばらく電話を耳に当ててから、相手が出ない、と首を振った。私も電話をかけてみた。呼び出し音が続くが、出る気配はない。
 一般に欧米の住所は道路名と番地で構成されており、道路が見つかればあとは簡単である。しかしサントリーニ島はムラ社会のため住所など必要ないというのか、プリントのアドレス欄にはイアOIAとあるだけである。
 別の土産物店でも聞いてみた。いや知らない、という。何軒目かの店では、逆の方向に300メートルほど行ったところで聞いて見ろ、という。言われたとおりにカルデラのふちに沿って逆方向に歩く。食料品店があったので聞くが、収穫なし。妻が不機嫌になっているのが、気配でわかる。

 同業者なら知っているかもしれないと、つとめて明るく妻に言い、ホテルの看板を出している建物に入り、尋ねる。やはり収穫はなかった。夕暮れにはまだ間がありそうだが、時間の浪費は早く切り上げねばならない。
 予約したホテルは断念し、別のホテルに泊まることにした。またスクエア(広場)に戻ることにして歩き出す。手荷物を引っ張りながら歩くわれわれの側を、次の便のバスが通り過ぎていった。すでにわれわれがイアに着いてから1時間半が過ぎていた。
 はじめに電話をかけてくれた土産物店に戻り、先ほどのホテルが見つからないことを話し、どこか別の良いホテルを紹介してほしいと頼む。店主は、プールは付いていなくてもよいか?と聞く。もちろん、プールなど必要ない。急な崖の昇り降りは構わないか?もちろん構わない。
 店主はどこかに電話して何ごとか話し、それから電話機を私に渡した。女性の声で、1泊125ユーロだと言い、ホテルの前に出て待っている、と言った。店主が、スクエアに出てカルデラの海を見おろすと、チェスの盤のデザインのテラスが見える、それがホテル「アリス・ケーブ」だと教えてくれた。
 店主に礼を言い、スクエアに出た。言われたとおり下を見おろすと、夕闇の迫る中、50メートルほど下に、確かにチェスの盤のような模様のテラスがあり、Gパンにピンクのセーターを着た女性が立って、上を見上げていた。思わず、おーい、と呼んで手を振ると、女性も両手をあげて輪を描くように振った。
 つづら折りの急階段を何回か曲がりながら降り、やっとアリス・ケーブAlis Caveに到着。迎えてくれたピンクのセーターの女性は60歳ぐらいのひとだったが、岩壁に掘った横穴の部屋を二つ見せ、どちらでも好きな方を選べと言った。どちらも本来4人で泊まる大きな部屋だった。



  部屋は白い漆喰で壁と天井が塗られ、部屋の真ん中に小さなテーブルが置かれていた。小さな台所が付いていて、ナイフやまな板、食器類もある程度そろっていた。
 しばらくして女性は手にいっぱい資料をもってやってきた。食事は付いていない、トイレに紙は流さないように、といった注意事項から、島の観光案内やレストランの案内まで、手際よく説明した。あなたがアリスかと聞くと、いや、アリスは夫の名で、自分はクリスタだと名のった。
 クリスタが帰った後、外に出た。すでに8時に近く、岬の先に進むと、夕陽が沈むところだった。簡単な食事をとって早めに寝る。



 

4月20日(金)

 

目が覚めると、雲ひとつない上天気だった。宿の前の濃紺のカルデラの海を、テラスから眺める。風は冷たい。崖の階段を上り、昨夜教わったパン屋に行き、パンとジュースを買って帰り、台所で淹れたコーヒーといっしょに朝食。



バスでフィラに行く。ケーブルカーで海岸まで降りたり、崖道を昇り降りするロバの隊列を眺めたり、土産物店を覗いたりしながら、景色を楽しむ。ケーブルカーの駅舎に、昔の島の写真が何枚も掛けてあった。1925年と1939年の噴火の写真もあった。



昼食はカルデラを見おろす店でとった。料理はまずかったが、食後に注文した甘いヴィンサントが気分に合い、いい味だった。

 

バスで島の南のアクロティリまで行き、遺跡を見学。紀元前1500年頃の大噴火によって埋もれた世界である。 
夕方、日暮れ時に、宿の近くの岬に行く。エーゲ海に沈む夕日を見に観光客が集まってくる。中国人、韓国人の若者が多い。みな立派なカメラをぶら下げていて、グループやカップルで撮りあったりしている。

 日本人の観光客もいるが、どことなく雰囲気が中国人、韓国人と違う、と感じる。年齢が少し高めであることが理由の一つだろうが、肩の力が抜け、気負いもなく、普段着のままそこにいるというスタイルの者が多い。

崖地に立つ白い建物群は夕日に照らされ、朱く輝いていた。
クリスタが勧めてくれたレストランで夕食。8時過ぎに入った当初は客が少なかったが、9時を回ると地元の人間らしい客でいっぱいになった。
会計のとき、クリスタのホテルに泊まっている、というと、女主人は相好を崩して喜んでいた。


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