陸軍特別攻撃隊   高木俊朗

               【ブログ掲載:2018年6月29日~8月3日】

 

▼先々週から筆者の前立腺の具合が極端に悪くなり、病院通いでだいぶ時間をとられるようになった。そのため予定していた旅行を取りやめ、テニスクラブへ出かけることも控えるなど行動の幅は狭まったが、逆に読書に専念する時間が生まれるという面もあった。いつかそのうちに読もうと思い「積ん読」している書物のなかから、『陸軍特別攻撃隊』(高木俊朗著 文春文庫版1986年)を選び、この機会に読んだ。文庫本で3冊、「あとがき」も入れれば合計1438ページ、400字詰めの原稿用紙に換算して3千枚以上というボリュームである。

「特攻隊」という言葉を聞くと、ひとは通常、「カミカゼ」という言葉を思い起こすようだ。つまり「特攻隊」とは海軍の「神風特別攻撃隊」のことであり、ゼロ戦に爆弾を括りつけて米軍の艦船に体当たりした若者たちだというのが、現代日本人の平均的な「特攻隊」理解であろう。九州・鹿児島の「知覧」は沖縄戦に飛び立った陸軍の特攻基地、「鹿屋」は海軍の特攻基地だった、という知識は一部にあるものの、全体に陸軍の特攻隊に関する理解や関心は薄いようだ。
  筆者の手元にある『特攻とは何か』(森史朗 2006年)や『指揮官たちの特攻』(城山三郎 2001年)を開いてみても、海軍の特攻隊や特攻隊員の話のみである。
  高木俊郎の『陸軍特別攻撃隊』は、題名のとおり陸軍の組織した特攻隊に関する事実の克明な記録である。陸軍の中で特攻隊が企画され組織された昭和19月以降、軍司令官が「逃亡」する昭和20月まで、一日単位で関係者の行動が具体的に記述されている。高木は特攻隊を「論じる」ことを禁欲し、ひたすら関係者に会って話を聞き、日記や手記を読ませてもらい、日本軍や米軍の記録を調べ、21年かけてこの本を書いた。単行本(上下巻)の初版は、昭和4950年である。

著者の高木俊郎は明治41年(1908年)生まれ。昭和8年に早稲田大学卒業後、松竹蒲田撮影所に入社。昭和14年からは陸軍報道班員として日中戦争に従軍し、記録映画の製作に従事。太平洋戦争中は陸軍航空本部の報道班員としてジャワやビルマ戦線に従軍、昭和20年に知覧町の航空基地に転属となり、多数の特攻隊員を見送った。
  「報道班員」とは、国民の戦意高揚を図るために陸軍・海軍それぞれの報道部に作家や画家、カメラマン、新聞記者等を「徴用」した制度で、「支那事変」以後多くの文化人がこの制度により戦地に赴いた。
  高木は戦後、司令官の私的な名誉心や権勢欲によってなされた無謀な「インパール作戦」を告発する文章や、特攻基地・知覧をめぐるノンフィクションなどを発表し、この『陸軍特別攻撃隊』で菊池寛賞を受賞、1998年に亡くなった。

▼昭和19年、戦局は好転せず、日本の敗色は日増しに強まりつつあった。6月に米軍はマリアナ諸島のサイパン島に上陸、マリアナ沖海戦で日本海軍は空母や航空機を大量に失う。(中部太平洋艦隊司令長官・南雲忠一は戦死)。7月初め、サイパン島陥落。守備隊3万人玉砕。また大本営はインパール作戦の失敗を認め、作戦中止を命令した。東条英機はそれでも首相の座を明け渡すことに抵抗したが、718日、ついに内閣総辞職に至る。米軍はその後もグァム島、ペリリュー島、モロタイ島に上陸、占拠し、その勢力はフィリッピンに迫りつつあった。
  1010日、米軍の機動部隊が沖縄を空襲し、12日、「台湾沖航空戦」が起きた。大本営は「航空母艦10隻、戦艦2隻を豪撃沈、航空母艦3隻、戦艦1隻を撃破」という戦果を発表し、国民は久々の勝利の知らせに沸いた。各家庭に酒の特別配給もあり、都内では戦勝祝賀の踊りの催しや旗行列なども計画された。
  しかしこれは全くの誤報だった。高木俊朗はその原因として、「練度のたりない搭乗員が、戦果を確認できないままに報告したこと」を挙げている。中には、撃墜された友軍機の火災を、敵艦撃沈と誤認した例や、一つの状況が重複して報告された例もあり、司令部が確実に調べず、有頂天になって発表したからだった。大勝利のはずの日本軍は実は惨敗し、海軍の航空部隊は出撃機の半数を失い、陸軍の雷撃隊の第九十八戦隊は1機が生還しただけで他は未帰還だった。だが大本営は、虚構の戦果の上に、フィリッピン方面に陸海軍の主力を集中し、決戦を挑む「一号作戦」を発動するよう命じた。(10/18)。

▼『陸軍特別攻撃隊』は、陸軍で最初の「特攻隊」である「万朶隊」と「富嶽隊」がいかに編成され、彼らがどのような思いを持ち、どのように出撃して戦果を上げ、また上げられなかったかを、隊員ひとりひとりについて詳述する。
 「万朶隊」は、茨城県の鹿島灘に近い鉾田陸軍飛行学校で教官を務めていた岩本益臣大尉を隊長として編成された。岩本大尉は操縦と爆撃の技術に定評があり、1年以上「跳飛爆撃」の研究と訓練を続けていた。
  「跳飛爆撃」(スキップ・ボンビング=海軍では「反跳爆撃」と呼んだ)とは、高い高度から爆撃するのではなく、爆撃機は超低空で艦船に接近し、爆弾を投下する攻撃法である。投下された爆弾は海中に沈まないで海面をスキップし、目標に命中する。米軍は昭和18年3月に、ニューギニアに向かう日本の輸送部隊をこの方法で攻撃し、ダンピール海峡で8隻の輸送船全部と駆逐艦4隻を沈めるという戦果を上げていた。

この攻撃法の難点は、対象が輸送船団でなく戦艦の場合、高度を低く一定に保つために対空砲火が命中しやすく、撃墜される確率が極めて高いことだった。体当たり攻撃ではないが、それに匹敵するきわめて危険な攻撃法だった。しかし岩本大尉は、「跳飛爆撃」を実戦に活用できる自信を持つようになっていた。それだけに陸軍航空本部が体当たり攻撃の一番手に自分を選んだことを知ると承服できず、強い憤懣を懐いた。
  「同じやるなら、跳飛爆撃をやらせてもらいたいですよ。それなら本望です」と、岩本は体当たり攻撃に批判的な親しい上司に語った。体当たり機は爆弾を固着させ、操縦席からそれを投下することはできない。「おれたちは、爆弾に縛りつけられなければ、死ねないと思っているのか」と、岩本は悲痛な声で言った。
  それでも1022日、万朶隊の操縦者、通信係、機体整備班など24名は、鉾田飛行場を後に、台湾経由でフィリピンに向かった。下士官たちは岩本隊長から、「われわれはフィリピンで特殊任務に就く。これについては改めて教えるが、なお一層、必死必殺の決心を固めてもらいたい」と訓示されただけだった。

「富嶽隊」は、浜松の教導飛行師団の西尾常三郎少佐を隊長に、26名で編成された。

▼戦闘機や爆撃機が撃墜される寸前、操縦士が敵の戦艦に体当たり攻撃をかけることはあった。しかし体当たり攻撃を一つの戦法として組織的に実行することは、古今東西に例がない。
  富嶽隊の隊長・西尾少佐は、日華事変で蘭州への長距離爆撃で金鵄勲章を与えられるなど腕の良いベテラン・パイロットだったが、「特攻隊」隊長に指名されたことに次のような憤懣を口にしたという。

 「六七重爆という優秀な飛行機と、これだけの腕のいい者を、どうして体当たりだけに使うのか。浜松重爆隊の腕を思う存分ふるわせて、いよいよ最後の時に体当たりさせたらいいではないか。それなのに、なぜ、優秀な六七重爆の機材をはずし、爆弾を落とせないように改装したのか」。
  西尾隊長に伝えられた命令は、次のようなものだった。「ルソン島東方、マニラを基点として三百五十キロの海面に、敵の有力なる機動部隊が行動中なり。富嶽特攻隊はこれに必殺攻撃を敢行すべし。」
 この命令のどこにも、「体当たり攻撃」の文字は使われていない。陸海軍の特攻隊の命令では、最初から最後まで「体当たり攻撃」という明確な表現をせず、「必殺攻撃」というあいまいな文字を使用した。その理由を著者は次のように解説する。
 《軍の命令は、すべて、天皇陛下のご意思である。命令に体当たり攻撃の文字を使えば、天皇陛下が、それを命ぜられたことになる。命令にその文字を使わなかったのは、どこまでも、体当たり攻撃は天皇陛下のご意思ではなかったことにするためである。/これは、体当たり攻撃部隊の編成を計画した大本営の当事者自身が、体当たり攻撃は非道の方法であって、天皇陛下が命令されてはならないことだと自覚していたからである。……/もう一つには、体当たり攻撃は命令ではなくて、各自の自発意思に基づいた行動にしておきたかった。そうすれば、特攻隊員は、国難のために一命を捨てて省みない義烈の士とすることができる。また、それは、壮烈な愛国美談となって、今や崩れかけてきた国民の戦意を、刺激し高めることができる。……/そして、このことはまた、体当たり攻撃を計画した者や、航空軍、飛行師団の指揮官、幕僚などが、責任のいい逃れをする口実ともなり得るのだ。》

 新聞は特攻隊を賛美する愛国の美談を報じ、国民は感激してそれを読んだ。特攻機は確実に命中し、敵艦船を撃沈できるという迷信ともいえる考えが、多くの国民に植え付けられ、戦争に対する正しい判断を封じる結果となった。

▼高木俊朗はこの書物を書くために、関係者の多数が亡くなっている中で、多くの証言や手記、記録の類を掘り起こしている。そして特攻隊員一人ひとりについて、その階級や氏名、陸士の期数、出身の村の名前や家族の状況を正確に記し、戦闘の経過や亡くなった状況をひたすら調べ記録しようとする。事実を正確に記録することが、何よりの「手向け」であると言うかのように。
  大岡昌平は『レイテ戦記』のなかで、次のように書いているが、高木も大岡と同じ思いでペンを握ったのだろう。ちなみに高木は大岡の歳年長である。

 《私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、できるだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私にできる唯一のことだからである。》(『レイテ戦記』1971年)

  高木はこの書物の中で、特攻機の一部をわざと毀し、出撃を免れようとする特攻隊員の姿や、わざと敵艦隊との遭遇を避けるように飛行し、基地に帰還する特攻隊員の姿を描いている。だが同時に、特攻隊を志願する若者たちの姿も、関係者の手記を引用することで紹介している。

 《……下士官以上の全員を集め、私は、いよいよ一億総特攻の日が来たことを告げ、戦隊全員が、死に直面して恐れない覚悟が必要であると説き、最後に、軍命令で「と」号要員の何名か分派することのやむを得ないことを、キッパリと宣言した。/一同はもちろん、かねて覚悟はしていたと思われるが、さすがに顔色が変わった者が多かった。ただし、戦後十八年の現在、今の心境からすると、大変なことのように思われるが、当時、気のたった戦場でのこの宣言に、眉一つ動かさない、冷静沈着な勇者も何人かは確かにいた。/そのあとで私が「と」号要員を志願するものは手を上げるようにというと、三十数人いた将校下士官は一斉に右手を高く上げた。一人でも、遅疑した者は見受けられなかった。それは全く、いわゆる時の勢いであり、その場の雰囲気でもあった。》

  この書物を読んでいくと、人生経験が少なく操縦技術も未熟な若者たちが、なぜ特攻要員に選ばれやすいのかという事情がよく分かり、筆者はため息をついた。

▼高木はこの書物の中で、富永恭次という第四航空軍司令官について、多くのページを割いている。富永は、東条英機が総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務し、権勢を振るっていたとき、その下で陸軍省の人事局長、次官を務めていた。東条がサイパン島陥落など戦局悪化の責任を問われ、辞職したあと、後任の陸軍大臣・杉山元によってフィリピンの第四航空軍司令官に飛ばされたのである。
 富永は航空部門についてまったくの素人であり、航空部隊を指揮する力はなかった。歩兵操典の精神を信奉し、「歩兵の神髄は奇襲作戦と白兵突撃にある。航空も奇襲と突撃でやらねばならん」と言うのが口癖だった。なにかというと最前線で指揮を取ろうとするので、部下の参謀たちは陰で、「富永上等兵」、「富永歩兵連隊長」と呼び、歩兵と航空を一緒にされてはかなわない、と嘆いた。しかし富永は感情的な頑迷さで参謀たちを叱り飛ばし、彼らの言葉に耳を傾けることはなかった。
富永軍司令官は特攻隊員を前に訓示することを好み、最後は常に次のように締め括った。
 「諸氏だけを体当たりさせて死なせるのではない。諸氏のあとからは第四航空軍の飛行機が全部続く。そして、最後の一機には、この富永が乗って体当たりをする決心である。安んじて大任を果していただきたい」。富永は激励の訓示が終わると隊員の一人一人と握手をし、下士官たちは感激して司令官を信頼の眼差しで見つめた。
 しかし戦局がいっそう悪化した昭和20年の年明け早々、富永は病気を理由に南方軍・寺内寿一総司令官に辞任を申し出、拒否される。日夜、第四航空軍司令部は各地の飛行場に兵士を残したままマニラを逃走、ルソン島の北に撤退。さらに富永と参謀たちは、台湾に軍司令部を移すことを画策する。16日、台湾の部隊視察を名目に、富永は台湾に向け軍偵察機で逃亡した。
 台湾の第八飛行師団司令部では、富永の突然の来訪に驚き、師団長は怒りを面に表した。「いま富永に会えば、わしが富永の逃げてきたことを認めることになる。卑怯者には会わないのが武士の情けというものだ。」
  富永はこの後予備役に編入され、現役から追われたが、7月に再度召集され満州の師団長となった。―――

▼こうした処遇に対して、憤激する軍人は少なくなかった。しかし高木によれば、もともと日本の軍隊では、高級司令官が問責され、譴責を受けることはなかったのだという。
  日本の陸軍刑法の前身では、将校は自裁、下士官は斬首の刑罰の規定があった。自裁とは切腹であり、将校たる者が面目に関わるような過失をすれば、自分で切腹して責任をとるべきだと考えられていたのである。
  明治41年に陸軍刑法が作られとき、将校の処罰規定は無くなった。士官学校出の将校は、処罰規定など決めておかなくても、自分で責任をとるはずだという建前である。だが建前は結局、建前でしかなかった。高木は言う。
 《もっとも重大なことは、高級司令官は作戦の失敗の責任を問われないことであった。この点は、大本営の中枢にあって、幾多の無謀愚劣な惨敗をくり返した作戦担当の参謀に対しても同様であった。》
  高木は、ノモンハンの戦闘で敗走した連隊長や部隊長が自決を命じられたにもかかわらず、この作戦を計画、強行した関東軍司令官や参謀が、何の処罰も受けなかった例を挙げている。また、無謀愚劣なインパール作戦を強行した牟田口廉也司令官が、天皇からねぎらいの金一封を与えられ、戦争終了まで予科士官学校長であり続けたことも、この例として挙げている。
  南方軍総司令官・寺内元帥も、南方戦線全域で敗戦を重ねながら、開戦から降伏までその職にあった。とくにレイテ島、ルソン島の惨敗における寺内の判断の誤りの責任はきわめて大きいのだが、これも責任を問われていない。高木は嘆息して言う。
 《日本軍は高級者ほど、責任を問われることなく終わった。このような奇怪、無責任な状態が続出した理由としては、まず大本営の基本の態度にある。大本営は、天皇の軍隊が負けることはないとの信条をもって、終始、作戦の失敗を認めなかった。》
  日本とは反対に米国では、真珠湾の責任を追及されて太平洋艦隊司令官・キンメル海軍大将は罷免され、レイテ海戦のとき小沢艦隊のおとり作戦にひっかかり、主力の栗田艦隊を逃したハルゼー海軍大将は、海戦の直後に軍法会議の予審に召喚された。

(つづく)

▼高木俊朗によれば、海軍の特攻隊と陸軍の特攻隊には小さくない違いがあったという。海軍の特攻機は戦闘機をそのまま使い、これに250キロ爆弾を積み、米軍の空母の甲板を破壊することを狙っていた。それにより日本の連合艦隊がレイテ湾に突入するまで、敵の空母艦載機の行動を封じようとしたのである。
  陸軍の特攻機は、爆撃機を体当たり攻撃用に改装したもので、参謀本部では大量の爆薬を積んで体当たりすれば、空母や戦艦も撃沈破できると考えたのだった。 富嶽隊の重爆機は副操縦席や機関銃座をはずし、800キロの爆薬を積み込むようになっていた。また万朶隊の軽爆機も、機首の先端に起爆管用の長い金属管を突き出すように取り付け、体当たりのみ可能で爆弾を投下できないように改造されていた。
  しかし万朶隊の岩本隊長は独断で、マニラの航空分廠に頼んで爆弾を投下できるように改造の手を加え、部下にも、「出撃したら、爆弾を命中させて帰って来い」と密かに伝えていた。 

1025日、海軍の関行男大尉の率いる「神風特攻隊敷島隊」が出撃し、米戦艦の奇襲に成功する。『米国海軍作戦年誌』によれば、米側の損害は、護衛空母1隻が沈没、護衛空母6隻と駆逐艦1隻が損傷を受けたとされている。
  護衛空母とは商船を改造した船体の弱い、載せる機数も制式空母よりずっと少ない空母だが、日本側はこれを正式空母と同一視し、特攻攻撃の推進に拍車がかかる。一方米軍側は、体当たり攻撃による損害の大きさに驚き、防御策を検討した。

《アメリカ軍は、いつも、臨機応変に、対応策を研究し、実行することを怠らなかった。そして、同じ損害をくり返さないように努めた。アメリカ軍の考えは柔軟であり、日本軍は逆に頑迷に支配されていた。/このアメリカと日本の考えの違いが、のちに特攻隊の犠牲を大きくし、効果を減少させることになった。》(『陸軍特別攻撃隊』) 

▼マニラのリバ飛行場で準備を進めていた万朶隊の岩本大尉は、第四航空軍の指令部に呼び出された。これは引見好きの富永司令官の意向を忖度して、幕僚が呼んだとされているが、岩本隊長と5名の将校は飛行機1機に乗り、司令部に近いニルソン飛行場に向かった。しかし機体は途中で米軍機に撃墜され、将校全員が死亡した。(115日)
 万朶隊の残された下士官たちは1112日、4機に分乗して発進し、レイテ湾に敵艦船を発見して攻撃し、戦果を確認できないまま散り散りになった。
  同じ日、富嶽隊もルソン島の東方海面の敵機動部隊を目標に出撃したが、敵艦隊の姿は見えず、全機帰還した。
  13日、第四航空軍は万朶隊の戦果を発表し、新聞記者たちはそれを材料に記事を書いた。
 《……機を見ていた佐々木伍長の操縦する四番機は、好餌たる一戦艦を認め、一番機に続いて急降下体当たりを敢行すれば、久保軍曹の二番機も遅れはせじとばかりに戦艦に突入、舷側まぢかの海中に突っ込んで轟然爆発、粉骨を持って戦艦を轟沈したのであった。その勇壮極まる最後は、掩護に任じた生井大尉に親しく認められるところとなった。……》
  大本営も同日戦果を発表。「必死必殺の体当たりをもって戦艦1隻、輸送船1隻を撃沈」したとして、体当たり攻撃に参加した万朶隊の4人と援護戦闘機の1人を讃えた。
  その同じ日、富嶽隊の西尾隊長も出撃し、敵機動部隊に突入し、戦死した。

▼特攻機には、ふつう戦闘機が護衛(掩護)に付いた。戦局が進むと、付ける戦闘機が足りず、特攻機が裸で発進して敵の戦闘機の餌食になる例が増えたが、この護衛の戦闘機が戦果を確認する仕組みになっていた。
 1112日の万朶隊の戦果は、『米国海軍作戦年誌』にある「レイテ水域で揚陸舟艇修理艦2隻が特攻機により損傷」に該当するものと考えられる。それにしてもなぜ軍は、万朶隊が体当たり攻撃で大戦果を上げたという、誇張ないしウソの発表を行ったのか。考えられるのは、海軍に対する陸軍の対抗意識だと高木は言う。神風特攻隊の華々しい発表を見て、陸軍側はそれ以上の戦果を上げたことにしなければならなかった。
 《……新聞記事を呼んだ国民は、すべて事実だと信じ込んだ。そして特攻隊の壮烈な行動に感激し、賞賛の言葉を惜しまなかった。……しかし、その結果、特攻攻撃が実力以上に評価され、過信されることになった。たちまちのうちに、これは万能絶対の威力を持つかのように思いこまれることになった。そして特攻隊が出さえすれば、勝利を得られるかのような、考え違いをおこさせた。こうしたことが、特攻隊の悲劇をさらに大きくさせる原因となった。》(『陸軍特別攻撃隊』) 

 敵戦艦に「急降下体当たりを敢行」したはずの佐々木伍長は、攻撃後はミンダナオ島の飛行場に不時着し、翌日、大本営発表のあった2時間後、発進した飛行場に帰還した。同僚たちは喜び迎えたが、第四航空軍の参謀たちは困惑した。大本営発表をした以上、発表に事実を合わせなければならないと、彼らは考えた。参謀たちは佐々木伍長に、「お前は員数外だぞ。この次の出撃の時は、必ず死んで来い」と言い、その後なんども執拗に出撃を命じた。
 参謀は、「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を爆撃ではなく、体当たり攻撃によって上げることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を沈めさえすればよいと考えているが、それは考え違いである」と言った。
  佐々木伍長は答えた。「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」。伍長が大佐や中佐に向かってこのようなことを言うのは、重大な非礼で軍規違反だったが、佐々木伍長は処分覚悟で反抗の意思を表した。
  参謀は言った。「佐々木の考えはわかるが、軍の責任ということがある。今度は必ず死んでもらう。いいな。大きなやつを沈めてくれ」。
  それから先、佐々木伍長は幾度も出撃を命じられるが、爆弾を命中させて帰還したり、天候不順や敵艦を発見できずに帰還したりということを繰り返し、昭和21月、生きて帰国することができた。

 この佐々木伍長については、最近、鴻上尚史という劇作家・演出家が『陸軍特別攻撃隊』をベースに、90歳を超えた佐々木友次へのインタビューを加えて、『不死身の特攻兵――軍神はなぜ上官に反抗したか』(201711月)という本を書いているので、いずれあらためて取り上げたいと思う。 

▼生還した特攻隊員に軍が死ぬことを要求した例を、もう一つだけ挙げておこう。

 万朶隊、富嶽隊のあと、陸軍は靖国隊、八紘隊、一宇隊、鉄心隊、護国隊、勤皇隊など12隊を編成し、フィリピンに送り込んだ。いずれも爆撃機ではなく、戦闘機を使った特攻隊だった。
  佐々木伍長がマラリアで医務室に寝かされているとき、同じ部屋に寝かされた男が、靖国隊の隊長・出丸中尉だと名のった。出丸中尉は出撃したが体当たりはできず、小さな島に不時着し帰還した。帰還後、彼は外部との接触を禁じられ、軟禁状態にあった。佐々木伍長が遇ったとき、彼はマラリアと下痢でやせ細っていた。 佐々木伍長は、「死ぬのは焦ることはないと思います。私はむちゃな命令では死なないことにしています」と言った。出丸中尉は、「そうだな。操縦者の身になってみたら、とてもできないことがある。それを特攻隊員だからやれというのは、むちゃな話だ」と言った。
  年の暮れになり、病室の佐々木伍長も出丸中尉もマラリア熱は治まっていたが、体力は回復していなかった。そこへ師団参謀が、軍医の制止を振り切って荒々しく入り、出丸中尉に出撃を命じた。出丸中尉の胸元をつかんで引き起こすと、「すぐに飛行場へ行け」と言った。出丸中尉はしばらく参謀の顔をにらんでいたが、「よし、死んでやる」と叫んだ。
  支度を終えた出丸中尉の顔は険しく、歪み、足はまっすぐに歩けず、よろめいた。佐々木伍長が窓から覗いていると、やがて爆音が聞こえ、一式戦闘機が一機だけ、まっすぐ離陸するのが見えた。出丸中尉が再び戻ってくることはなかった。

(つづく)

▼高木俊朗の『陸軍特別攻撃隊』は、陸軍の特攻隊が編成されてフィリピン戦線に投入され、やがて特攻隊が所属した第四航空軍が壊滅し、軍司令官が逃亡するまでを記録している。特攻隊はその後、沖縄の戦闘でいっそう大規模に使用されることになったのだが、その記録は上の書物には含まれていない。
 沖縄の戦闘に参加する陸軍の特攻機は、薩摩半島の知覧飛行場から発進し、一部は宮崎県都城などから飛び立った。沖縄まで650キロメートル、海上2時間余の飛行ののち、沖縄を攻撃する米艦隊への体当たりを目指した。高木は、知覧から飛び立った特攻隊員たちと彼らを送り出した町の人びとを、聞き書きや紀行文の連作という形で20年後に描き、『知覧』(のちに改題して『特攻基地知覧』)として発表した。特攻隊について書かなければと決意した高木は、まずその最後の地の情景を描き、それからさらに10年をかけて『陸軍特別攻撃隊』をまとめたのである。

 全体として短編エッセイ集の趣きの『特攻基地知覧』のなかに、1か所だけ特攻作戦についてのマクロの数字と著者の見解を記した部分がある。それによると、沖縄の特攻作戦で戦死した陸軍の特攻隊員は1015名であり、そのうち体当たりで亡くなった者は第六航空軍667名、第八飛行師団(台湾)235名、合計902名だという。知覧からの特攻隊は、第六航空軍に属していた。
 海軍の特攻隊の犠牲は別にあり、陸海軍合わせて沖縄で喪失した特攻機総数は2393機だという。
 一方、特攻隊が与えた米軍側の損害については、『米国海軍作戦年誌』に記録がある。高木はその中の、昭和20318日から622日までを区切って集計してみた。これは米軍が「沖縄上陸のために日本本土を攻撃してから、沖縄戦の終るまでの期間」である。

 《アメリカ艦船の損害は、損傷191隻、沈没11隻である。沈没したのは駆逐艦、上陸用舟艇などの小型艦艇ばかりであった。》
 《太平洋戦争の全期間に、体当たり攻撃で、制式航空母艦、戦艦、巡洋艦は沈んでいない。》
 《特攻作戦の目的は、連合軍に精神的打撃を与えることと、多少でも損害を与えてその累積の効果をねらったという。それにしては、特攻隊の犠牲は大きかった。》(『特攻基地知覧』昭和40年)

▼体当たり特攻戦法は、どの程度有効だったのか、あるいはどの程度有効でなかったのか、それを教える書物は少ない。『つらい真実――虚構の特攻隊神話』(小沢郁郎 1983年)は、この問題を検討した数少ない書物のひとつである。
 著者は、「6歳で満州事変、12歳で日中戦争、16歳で太平洋戦争、20歳で敗戦」を迎えた典型的な「戦中世代」である。「高等商船学校に進学し、昭和二十年には海上にあって戦闘の一端に巻き込まれていた」著者は、「特攻隊たることを自他に誓っていた」という。
 しかし突然、敗戦の日を迎える。《私(たち)小戦士をおそったのは、自己の死の意義を信じて死んで行った人々への灼くような羨望であり、「特攻隊をふくむ人々の死は、ムダだったというのか?!」という疑問と怒りとであった。多くの友人・知人が死んでいた。とくに戦争末期の特攻隊員として失われた者の多くは、私の年齢の上下三年に集中していた。戦後の私は、同世代をふくめての「戦争での死」を考えることから再出発しようとした。》

 著者は、戦後発表された特攻隊に関する研究や調査資料、証言や体験談を広く渉猟し、集め、内容を突き合わせ、不合理な部分を合理的な推論によって修正し、その全体像を把握しようと努めた。『つらい真実――虚構の特攻隊神話』には、著者がそのようにして得た特攻隊の「犠牲」と「戦果」が、記されている。
 特攻隊の戦果について、著者の結論部分だけを言うと、次のようなものである。

 命中率については、低くはない。しかし練達の飛行士による急降下爆撃の実績に比べれば、はるかに低い。また効果という面では破壊力が低く、その軍事的効率を高く評価はできない。(「撃沈」したのは駆逐艦以下であり、巡洋艦以上は一隻もなかった。)
 敵に与えた恐怖感を強調する意見もあるが、その心理的効果が敵の作戦の運行を阻害するほどであったかどうかが、検討されなくてはならない。残念ながら、体当たり攻撃が実施されているのにレイテでもルソンでも敵は進行し、沖縄も占領された。
 航空特攻の効果は、フィリピン戦期から沖縄戦期にかけて著しく逓減した。このことに指揮官や現場の幹部たちは気づいており、技術練度の高い者ほど、高い犠牲をかけて低い戦果しか生み出さない体当たり戦法に否定的だった。しかし戦士であるよりは軍事官僚であった日本軍首脳、幕僚、参謀クラスは、つじつま合わせをする頭はあっても深刻な事態への対応能力を持たず、特攻攻撃をいたずらに続けながら、「本土決戦」と「一億玉砕」を叫ぶだけだった。―――

▼体当たりを行う特攻隊員の心理について、小沢郁郎は次のように言う。

 《体当たりにのぞんだ特攻隊員のほとんどの今生の念願は「命中」であり「効果ある死」であって、単なる戦死ではなかった。ひとたび発進してしまった特攻隊員の九九%までが、それまでのいきさつはどうあれ、いまはただ命中だけを希ったことを、私は疑わない。これはどのような記録からも言える体当たり攻撃の公理に近い。》
 そして「それまでのいきさつ」、つまり特攻隊員「志願」の問題について、小沢は次のように語る。
 《大体、志願問題については、この「志願」という言葉自体に錯覚が起こりやすい。戦後の(旧日本軍隊の消滅した時期の)用法では、「志願」とは当事者の意思の自由な表明の状態における選択を意味する。志願しない者に対する蔑視や差別のないことが保証されなければならない。が、旧軍隊が一番に嫌ったことが、その「自由」であり「個人」であったのである。ついウッカリ、戦後社会に空気のようになってしまっている「自由」が、戦中の日本軍隊の中にもあったなどと考えたら、大変なまちがいである。
 端的に言えば、軍上層部は「自発的に志願せよ」と命令できたのである。自発性を強制できたのである。ここに志願問題の鍵がある。一般に「志願」とは当人の意思・希望の表明を意味する。自発性を前提とする。が戦争末期には、上長者の意向の強制と、それへの忍従をも意味した。》
 もちろん、と小沢は言葉を続ける。軍上層部の与えた虚像を信じて、「これこそ有意義な死」と確信した若者たち、本心から国に殉ずる気持ちで死んで行った若者たちも多かった。
 《それを否定しようとは思わない。否定したら歴史の真実に反する。だが同時に、「熱望者」だけであったことも否定する。そして、忍従させられた者までも「志願者」に繰り入れて、特攻隊を一律に神話化しようとすることを拒否する。それこそ歴史の真実に反する。》

  死者に対する遺族や関係者の悲しみは深い。若者たちが、自ら進んで満足裏に死んだと、遺族のほとんどが思いたいであろう。その遺族の悲しみに乗じて、多くの若者にムダ死にを強いた責任ある者が、特攻隊は希望者を募ったのであって強制したものではないと言い、強制されたというのは、死者を冒瀆するものだと言う。そのように虚構の特攻隊像をつくり、神話化することにより、自分の過去の責任をごまかし、正当化する。
 《ここには、絶望的なまでの腐臭がただよっている。/若者たちの献身が純粋で美しくあればあるほど、その若者たちの生も死も利用しつくす者の醜悪さは際立つ。特攻隊は、その実施時の実態においてとともに、その「神話化」の過程において、昭和期天皇制軍隊の恥部――指揮官・参謀クラスの醜悪さをかくすイチジクの葉として利用されつくしている。》
 ここには特攻世代・小沢郁郎の抑えきれぬ怒りの噴出が見える。

(つづく)

▼前々回、鴻上尚史の『不死身の特攻兵――軍神はなぜ上官に反抗したか』(2017年)を少し話題にしたので、ここで軽く取り上げておこう。

 鴻上は、特攻攻撃に9回出撃し、陸軍参謀から体当たりして死んで来いと怒鳴られながら、故郷に生還した佐々木友次という人がいたということを本で読み、大きな興味を懐いた。そのような日本人がいたんだ。佐々木さんはあの時代に何を考えていたんだろう。どうしてそのようなことが可能だったのか。生きて飛行場に戻って来たとき、上官や仲間の反応はどうだったのか―――。
  鴻上は、テレビ局のプロデューサーやディレクターから「終戦特番」の相談があるたびに、佐々木友次の名前を出して説明したが、取り上げる番組はなかった。鴻上自身も、佐々木友次はとうに亡くなっているものと、思い込んでいた。戦争は遠い過去であり、歴史の一部だという頭が、どこかにあった。
  佐々木さん、生きていますよ、と或るテレビ局プロデューサーが鴻上に伝えたのが、2015年だった。鴻上は時間をつくって札幌へ飛び、入院中の佐々木友次に会うことができた。92歳の佐々木は、それから半年とたたずに亡くなったが、鴻上は奇蹟的に彼と話をすることができた。
 21歳の若者が、絶対的な権力を持つ年上の上官の命令に背いて生き延びることを選んだ。それがどんなに凄いことなのか。僕が21歳の時にそんなことは絶対にできなかっただろう。間違いなく挫けて、諦めて、絶望していただろう。……佐々木さんの存在が僕と日本人とあなたの希望になるんじゃないか。」
  そう考えて鴻上はその後、いじめられている中学二年生が元特攻隊員と会うという設定の小説『青空に飛ぶ』を書き、この『不死身の特攻兵』を書いたのだという。

▼佐々木伍長はどうして9回も特攻出撃を命じられながら、体当たりせずに生還し、ついには故郷へ帰りつくことができたのだろうか。どのような条件が、日本軍の絶望的な状況と軍隊内部の過酷な人間支配の下で、佐々木伍長の生還を可能としたのだろうか。筆者が高木俊朗の『陸軍特別攻撃隊』から読みとったのは、次のようなことである。
  第一の条件は、佐々木の飛行技術の優秀さである。佐々木は子どものころから空を飛ぶ飛行機に憧れ、飛行学校に入学したあとは貪欲に飛行技術を学んだ。暇があれば飛行機に乗り、技術を磨き、万朶隊の岩本隊長にも可愛がられた。佐々木の飛行技術は仲間から畏敬されただけでなく、雨の中を夜間飛行し、燃料不足で田んぼに不時着しなければならなかったようなときにも、無意識のうちに発揮され、彼の身体を守った。
  第二の条件は、岩本隊長がマニラの航空分廠に頼んで、爆弾を投下できるように密かに特攻機を改造したことである。そして彼は部下に、謄写版で印刷したフィリピンの島々の地図を配り、「出撃したら、爆弾を命中させて帰って来い」と言った。地図には、フィリピンの全飛行場146箇所の位置が記されていた。
  岩本隊長は佐々木伍長に生き残るための手段を与えたが、さらに「爆弾を命中させて帰って来い」という言葉は、体当たりをするべきでないという「思想」を彼に与えた。その「思想」は、参謀たちの強迫や恫喝にさらされた佐々木に耐える力を与え、彼を支え続けた。
  第三の条件は、「運」であろう。戦場にあって、勇敢に戦うより逃げ回る方が、生き延びる確率が高くなる、ということはない。『陸軍特別攻撃隊』には、ひそかに機体を毀して出撃を免れようとする隊員や、敵艦隊を発見できなかったと言って戻ってくる隊員の姿が描かれている。しかしそのような行為は、仲間たちから怪しまれ、ウソと見抜かれ、軽蔑される。仲間から怪しまれ軽蔑される士官や兵士に、「運」が向くことはない。
  佐々木伍長は第4航空軍の中の有名人であり、人気があったと、高木は書いている。そして次のような、4回目の特攻出撃の時のエピソードを記している。

1128日に、佐々木伍長一人に特攻出撃命令が出された。参謀長は、「今日の直掩隊は必ず敵艦船の上空までお前を誘導する。そしてお前の突入を確認することになっている。万朶隊の名に恥じぬよう、立派に体当たりするんだ」と言った。
 6機の直掩隊とともに、佐々木伍長ははただ1機の特攻隊として出発した。レイテ島に近づくと、予報とは異なり快晴だった。しかし先頭を飛んでいた直掩隊の隊長機は、翼を左右に振り、急に旋回してやって来た方向を向いた。佐々木は、敵機が現われたかと警戒して四方を見回したが、米軍機の姿は見えなかった。しかし直掩隊の隊長機が引き返すのだから、その後ろに従い、基地まで帰った。
  佐々木は直掩隊の隊員に、引き返した理由を尋ねたがわからなかった。しかしやがて、隊長が佐々木に同情し、わざわざ殺すことはないと、適当なところまで行って引き返したらしい、という話を耳にした。隊長は参謀長には、レイテ湾上空は予報通り雲が多く、敵艦船を発見できなかったと報告していた。―――

佐々木伍長は、大型船を撃沈したこともあった(7回目の出撃)が、爆弾が命中しなかったり、機体の不調で出発できなかったり、ということもあった。
  1222日に出撃命令がでたとき、彼はマラリアで高熱を発し、寝込んでいた。そしてマラリア熱がようやく治まったとき、日本軍の航空機は底をつき、佐々木が乗る特攻機は残されていなかった。

▼『特攻隊振武寮――証言:帰還兵は地獄を見た』(2009年)という本がある。著者は、「元陸軍少尉」という肩書きの大貫健一郎とNHKディレクターの渡辺考。
  戦争末期、高等教育を受けたものを将校として採用する「特別操縦見習士官」制度ができ、大貫健一郎はその期生としてパイロットの訓練を受け、沖縄戦へ特攻隊として知覧から出撃した。本書は、大貫の特攻兵体験の話と、渡辺考の調べた時代や制度の記述で、構成されている。鴻上尚史が佐々木伍長のことを知ったのは、この本である。  

 米軍は特攻機の突入を未然に防げなかったレイテ戦を教訓に、沖縄にレーダー網を張り巡らした。160㎞先の動体を確認できる最新鋭レーダーを搭載した15隻の駆逐艦を沖縄本島の周囲に配置し、特攻機来襲の30分前には、それを察知できるようになった。十分な余裕をもって、対空戦闘態勢を整えられるようになったのである。
 大貫健一郎は、4月5日に知覧を出発し沖縄を目指すが、その途中、グラマンが現われ、撃ち落される。しかし幸運にも徳之島にたどり着くことができ、そこには陸軍の飛行場があり、旧知の特攻隊仲間と再会することもできた。その後喜界島にわたって困窮生活をおくり、6月末に飛来した重爆撃機に乗り、28人の仲間は福岡の飛行場にようやく帰還することができた。
 特攻隊の帰還者は、福岡高等女学校の庭に整列させられた。司令官が訓辞を垂れたあと倉澤少佐という参謀があとに残り、「なんで貴様らは帰って来たんだ。貴様らは人間のクズだ」と大貫たちを罵倒した。「そんなに命が惜しいのか。いかなる理由があろうと、突入の意思がなかったのは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか」。倉澤の罵倒は炎天下に30分続いた。
  大貫たち帰還者は高等女学校の寄宿舎に入れられ、外出はもちろん、外部との手紙も電話も禁じられた。寄宿舎には「振武寮」と看板がかかり、銃を持った衛兵が入口に立ち、周囲には鉄条網が張り巡らされていた。「先に入寮している隊員たちと、けっして話をしてはいけない」と、倉澤参謀は言った。いくつかの部屋には特攻隊帰還者がすでに入れられていたのだが、物音ひとつせず、彼らとすれ違うとみな憔悴しきった顔をしていた。
 「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修行が足りないからだ。『軍人に賜りたる勅諭』を言ってみろ」と倉澤参謀は言い、部屋で「軍人勅諭」や「般若心経」を墨で書き、また、なぜ生きて戻ってきたのか、「反省文」を書くことを、彼らは毎日強いられた。
 大貫たちは6月半ばに、「お前たちは沖縄作戦には使わない。本土決戦が間近だから本土特攻として死んでもらう」と言いわたされ、原隊に戻ることを命じられた。大貫は原隊に戻り、本土特攻の命令が出ることを待ち続け、終戦の日を迎えた。

▼倉澤元参謀は戦後、戦時中に使っていた拳銃に実弾を入れて持ち歩き、軍刀を手放さなかったという。そして80歳になり、親の遺品を整理していた時に見つけたと言って、ようやく自宅近くの田無警察署に提出した。
 大貫健一郎は一度、仲間たちと倉澤を殴ってやろうと考えたことがあった。特攻隊の慰霊祭に出席していた倉澤に近づき、倉澤を天幕の外に呼び出すと、特操出身者5~6人でまわりを囲んだ。
 「私たちを覚えていますよね」
  倉澤は慌てて首を振った。「覚えがない。おたくさんどちらさんですか」
 「実はね、あんたに死ぬほど殴られたんだ。今日はお返しをしたい」
 倉澤は顔を真っ青にして、「どちらさんでしょうか。私はあなたたちを存じ上げない」と言った。
 「忘れたわけではないだろう、少尉の大貫だよ」―――
 倉澤は、あの時は悪かったと詫び始め、「あの鬼のような奴がとても小さく見え、殴る気がすっかり失せてしまった」と大貫は語っている。
 倉澤元参謀は2003年に86歳で亡くなった。

 (つづく)

▼「特攻隊」とひとくちに言っても、はっきりとした出自の別があり、関係者はそこに微妙な感情を懐いていたようだ。
 たとえば最初の「神風特攻隊」としてフィリピンの戦闘で戦果を上げた「敷島隊」隊長の関行男大尉は、海軍兵学校出の優秀なパイロットだったが、海軍の特攻隊戦死者に占める海軍兵学校出身者の割合はけっして多くない。『つらい真実』(小沢郁郎)の引用するところによれば、多かったのは海軍予科練習生(予科練)出身で、全体の7割弱を占め、次いで予備士官等の学生を即席で飛行士に養成したもので3割弱、兵学校出身者は約4パーセントにすぎない。防衛庁防衛研修所戦史室の編集した書物は、この割合については何も触れていないという。
 陸軍の特攻隊ではこの割合は不明だが、海軍の予科練にあたる「少年飛行兵」や「予備士官」にあたる「特別操縦見習士官(特操)」の割合が大きく、士官学校出身者の割合が小さかったことは、言えるらしい。「本土決戦」を理由に陸士出身の戦力を温存したと言えば聞こえは良いが、飛び立つのがやっとというボロ飛行機に、技術の未熟な「特操」や「少年飛行兵」を乗せて特攻に出したところに、軍の組織エゴイズムが透けて見えるであろう。
 「特別操縦見習士官(特操)」とは、航空要員を急速に拡充するために陸軍が昭和18年にドロナワでつくった制度で、大学生や専門学校生などを航空要員として採用するものだった。採用されると「曹長」となり、任官と同時に「少尉」となるという特典が魅力で、多くの学生が応募した。沖縄で戦死した特攻隊員の「少尉」の多くは「特操」出身、「伍長」は「少年飛行兵」出身である。
 報道班員として知覧で特攻隊員と親しく交わった高木俊朗は、その印象を次のように書いている。
 《少年飛行兵出身の下士官で特攻隊になったものは、愛国の熱情に駆られて、ひたすら体当たり攻撃を志したのが多かった。この点が、特別操縦見習士官制度で操縦者となった学徒出身の将校と、かなり気風が違っていた。》(『特攻基地知覧』) 

▼特攻隊員の手紙や遺書が公開されているが、そこに出自による微妙な差異を読み取ることが可能かもしれない。彼らが書いた手紙や遺書はすべて軍の検閲を受けたから、父母や家族への感謝の思いや、出立前の静かな心境や感懐を記したものが大部分だが、そこから漏れるものがないわけではない。
 たとえば20年5月に知覧から飛び立った上原良治少尉(特操2期)は、父母にあてた「遺書」に次のように書いている。

 《……私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。……/戦争において勝敗をえんとすればその国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は火を見るより明らかであると思います。/私の理想は空しく敗れました。人間にとって一国の興亡は実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は実に些細な事です。》

 検閲官が見逃したことにも驚くが、22歳の若者の透徹した思考と、自分の死を前にして兵舎の中でそれを明晰に綴る意志の力に、誰もが驚嘆することだろう。上原の遺書は『きけわだつみのこえ』の巻頭に掲げられているが、同世代をはるかに超える異色すぎる文章かもしれない。
 もうひとつ、穴沢利夫少尉(特操1期)の、婚約していた女性にあてた遺書を引用する。

 《……婚約してあった男性として、散っていく男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。/あなたの幸せを希う以外に何物もない いたずらに過去の小義に拘るなかれ あなたは過去に生きるのではない 勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと……今更何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言ってみたい
 一、読みたい本 「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
 二、観たい画 ラファエル「聖母子像」 芳崖「悲母観音」
 三、智恵子 会いたい、話したい、無性に
 今後は明るく朗らかに
 自分も負けずに 笑って征く》

だが多くの遺書は、たとえば次のような内容のものだった。

《戦いは実に熾烈を極め我が皇紀ある二千年の日本もこの沖縄の一戦にある時が参りました。小生も微力ながら御奉公出来ることを名誉此の上なしと嬉しく思っています。……/日本男子として生まれ此の皇国の興廃をなす此の一戦に臨めるは本快とする処であります。齢は僅か二十歳の身、階級は伍長の身であれど昔ながらの大和魂は此の胸にみなぎっています。》(志水一:少飛14期)

《不省陸軍特別攻撃隊第三隊降魔隊員に選ばる 男児の本懐之に過ぐるもの無し 皇恩に報ゆるは此の時ぞ 果して万分の一をも報ゆる事を得んや 誓って轟沈以って任務の完遂を期す ……忠即ち孝、不省悠久の大義に生きるの嬉しさ此の上も無し》(宮川三郎:印旛乗員養成所14期) 

▼これまで5回にわたり特攻隊形成の事情や消滅までの経過を見てきたが、特攻隊員が死地に赴いた心理については、触れてこなかったようである。沖縄戦で特攻隊を戦場上空まで誘導することを任務としていた直掩機のパイロットが、戦後、高木俊朗に語った発言を引いておこう。特攻隊員の心理の最大公約数として、適当な記述だと思う。

 《あの時は、個人の苦悩や懐疑は超越していました。この国家存亡の時、一身を捨てて祖国を守る、犠牲の精神に徹して、いつの日か祖国に栄光あれと念じた至誠だけは、はっきりと、みとめていただきたいのです。特攻隊は神様ではありません。死を恐れなかったわけでもありません。ただ彼らを、また私たちを、はぐくみ成長させてくれた両親、同胞、社会、そして山河、それらを包含する祖国。天皇によって代表された大日本帝国。これらの祖国を、われわれは死をもって守り通さねばならないと考えただけなのです。それが特攻隊の根本精神であったと思います。アメリカ人にはバカ爆撃とまで呼ばれましたが、われわれは降伏ということを考えてみたこともなかったのです。》(『特攻基地知覧』) 

▼さて、特攻隊の問題をどう考えるべきなのか、ここで少し整理してみたい。
 「特攻隊」を全体的に論じた著作『つらい真実――虚構の特攻隊神話』(小沢郁郎 1983年)については、前々回に紹介した。小沢がこの書物を書いた当時、生き残ったかっての特攻隊員たちは50代半ばから後半の年齢であり、若者たちを特攻攻撃に追い込んだ旧軍人たちも、まだ60代、70代で健在だった。旧軍人たちは、特攻隊は「志願制」であり、「戦力の貧困を献身報国の至誠をもって補足しようとする自発的な戦法」だったと言い、特攻隊への批判に対しては、「特攻隊員の英霊を冒瀆するな」と言った。
 死者を悼む遺族は、若者たちが自らの意志で、にっこり笑って祖国のために死んで行った、と思いたいはずである。若者たちの死は犬死だったという言葉には、まず感情的な反発を覚えたであろう。
 しかし体当たりを命じた者と命じられた者の、違いを無視することは許されない。多くの若者にムダ死にを強いた責任ある者たちが、遺族の悲しみに乗じて若者の愛国の熱情を賛美し、そうすることで自分の過去の行為を正当化する―――。そういう醜悪な構図への怒りこそ、小沢郁郎に特攻隊を論じさせた原動力だった。小沢の特攻隊論の結論部分を、少し長くなるが以下に紹介する。 

 《私は、よく戦った者を高く評価する。いまとなってみれば、戦うべからざるおぞましい侵略戦争であったにちがいないが、当時の若い戦士たちに、それを認識できる条件はなかった。正義と信じて、よく戦った者の美しさは胸を打たずにはいられない。
 だからこそ、よく戦わなかった者、よく戦わせなかった者を軽蔑する。若者や下級将兵が、死を期して抵抗意識に駆られるのはよい。が、事実上の軍事力にならない「意識」だけをかきたてて、それが反撃力と強弁したような指導者をにくむ。「クソの役にも立たぬ」体当たりに若者を投じた無能と反人間性に怒りを禁じえない。「自存自栄のため」の戦争と言いながら、どうにも敗北が不可避となったときに、一億玉砕を主張し、民族の滅亡を高唱した指導者に呆れはてる。
 そして戦後になって、多くの人が自由と平和の価値に人間としてのよろこびを疑わなくなっているときに、自由と平和を最大の敵とした人たちが、過去の愚行の正当化を言う厚顔さに絶望する。》

 《つらい真実を認めず、虚構にしがみつく人たちを支えている精神的風土――高木俊朗氏が的確に指摘した「敗戦時における戦争諸責任究明の不徹底さに根源を持つ」アイマイさの「民族的伝統」は、復活横行している。特攻をふくめての多くの人の死は、いまになって死者を顕彰することではなく、まさにそれがむなしかったというつらい真実を直視するときにのみ、大きな意味を持ちうる。それをくり返さぬ決意と努力こそが最大の鎮魂であろうから。》

▼それからさらに35年経ち、旧軍人たちはもちろん特攻隊員たちも世を去った。世の中から特攻隊に対する生々しい感情は消えたが、特攻隊を生み出した日本の精神的風土や日本人の組織体質は、変わっていないように見える。

 日本の精神的風土として指摘できるのは、過剰な「精神主義」である。東条英機は帝国議会の施政方針演説で、「申す迄もなく、戦争は意志と意志との戦いであります。最後の勝利は、あくまでも、最後の勝利を固く信じて、闘志を持続したものに帰するのであります」と述べ、議員たちは拍手を送ったと、鴻上尚史は『不死身の特攻兵』で紹介している。そして鴻上は、東条は「勝利」「最後の勝利」と言いつづけたが、その具体的内容については一度も語っていないと指摘する。
 「断じて行えば鬼神も之を避く」とは、軍の指導者たちが愛好したフレーズだが、「気力が勝敗を決める」といった発言を一国の指導者が行い、国民がそれを許すとすれば、「随分甘い」と国民自身も批判されなければならない。
 鴻上は、35年間劇団を経営してきた自分の体験を踏まえて言う。《職場の上司も、学校の先生も、スポーツのコーチも、演劇の演出家も、ダメな人ほど、「心構え」しか語りません。心構え、気迫、やる気は、もちろん大切ですが、それしか語れないということは、リーダーとして中身がないのです。》
 《「精神」だけを語るのはとても簡単なのです。けれど、自分たちを分析し、相手を分析し、必要なことを見つけ出すことがリーダーの仕事なのです。それができなければ、リーダーではないのです。/リアリズムを語らず、精神を語ることが日本人は好きなのでしょうか。》(『不死身の特攻兵』)

▼体当たり攻撃に出撃して生還した佐々木伍長に、出撃して必ず死ぬことを強要した参謀や、遭難からようやく帰還した大貫健一郎たち特攻隊員を寮に閉じ込め、「そんなに命が惜しいのか、お前たちは人間のクズだ」と罵倒し続けた参謀。敵とどう戦い、どう倒すのかという本来の課題からはるかに離れ、陸軍の権威や秩序を維持するという逆立ちした思考が、参謀たちを盲目的に支配していた。そのグロテスクな行動から見えるのは、リアリズムを徹底して忌避し、「精神主義」に逃げ込みたがる日本人の性向だろう。
  鴻上は、「リアリズムを語らず、精神を語ることが日本人は好きなのでしょうか」と言うが、おそらく日本人の「真面目さ」は「精神主義」と親和性が高く、油断するとすぐにリアリズムから足を滑らせる傾向があるようだ。
  米軍が戦場の体験を活かし、合理的に対策を立てて柔軟に対応したのとは対称的に、日本軍は少数の大本営参謀が現場の実情を知らないまま、効果のない戦術を頑迷に繰り返すことを指示した。体当たり戦術ははじめ、限定的に使われることが考えられていたが、半年も経たないうちに主要な攻撃方法となり、昭和20年に米軍が沖縄に上陸すると、日本航空軍の唯一の手段となった。
  米軍はレーダー・ピケットを張り巡らし、戦闘機を手厚く配置して迎え撃つ体制を整えた。一方日本軍は、搭乗機の質も搭乗員の飛行技術も落ち、特攻作戦の効果も効率も格段に低下したにもかかわらず、若者たちは体当たり攻撃に出撃させられた。
 《志願であれ、強制であれ、多くの若者たちの最後の願いは「有効に死ぬこと」であって「ムダ死にしたくない」であった。》(『つらい真実』)しかし多くの場合、若者の最後の願いはかなわず、特攻隊機は体当たりする前に機械の不調や飛行技術の未熟で海に堕ち、またグラマンに撃ち落された。
  日本軍を評して、「下士官・兵士は勇敢で優秀、中堅幹部は普通、指導者は愚昧」という趣旨のことを語ったのは、ノモンハンで日本軍と戦ったソ連軍・ジューコフ元帥だった。太平洋戦争の歴史を知れば知るほど、日本がアメリカの物量に敗けたという以前に、軍の指導者の判断力や組織の運用力、戦略・戦術面の柔軟な適応能力などで、日本は圧倒的に負けていたことを理解するのである。

リアリズムを厭い、精神主義に逃げ込む日本人の傾向は、先の戦争とともに終わったという保証は何もない。

(おわり)


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