ひとはいかにして誤った考えを抱くに至るか
   ―――「豊洲市場問題」を例に―――

                【ブログ掲載:2017年3月17日~31日】

 

▼昨年、小池都知事が誕生してから、オリンピックの会場や豊洲市場の問題が、途切れることなくマスコミの話題となっている。
  オリンピックの会場問題は、原案通り会場が決まることで話題としては終わったが、築地市場から豊洲市場への移転問題は、つぎつぎと問題らしきことがらが露見し、先が見通せない。ついに都議会では、問題を究明するために「百条委員会」を設置し、石原元都知事以下の関係者を呼び、証言を求める騒ぎにまでなった。
 筆者は、オリンピックの会場問題も豊洲市場問題も、およそ関心がなかった。オリンピックを招致しておいて、いまさら「開けません」というわけにはいかないから、「見直し」たところで、どこかの可能な施設に落ち着くわけである。また、市場を築地から豊洲に移転させるべきことは明らかであり、それ以外の選択肢があるはずがなかった。
  結論の見えている話に、関心を持てるはずがない。 

▼多少回り道だが、「中央卸売市場」という制度についての説明から始めよう。  生鮮食料品について、不特定多数の生産者と不特定多数の消費者を結び付け、公開の場で公正な取引が行われる「卸売市場制度」が構想されたのは、大正の末だった。この構想の下、昭和10年に東京でつくられたのが築地市場である。
 卸売会社は、生産者から販売を委託された水産物や野菜や果物がどれぐらいの量であるかを明示したうえで、セリにかける。セリに参加する仲卸は事前に品質を調べ、上場された量を念頭に、値段を競い合う。
  現実の市場では、商品の規格化が進んでいることと短時間に大量の品をさばく必要性から、実際にセリにかけられる品物は多くはないが、品質と量から卸売価格が決まるという市場の原則は生きている。
 市場の開設者である東京都の役割は、市場施設をつくり業者に使用させることと、公正な取引が行われるように監視することである。昭和10年につくられ、すでに80年以上経つ築地市場は狭く、その建物は老朽化が進み、鉄道輸送による入荷を前提に設計された施設配置が、人や品物の動線の現状に合わないことも明らかだった。
 都ではまず築地での再整備を検討した。築地市場の面積は23ヘクタールであるが、それ以上の広さのまとまった土地が手に入る見込みがない以上、再整備するしか方法はなかった。しかし狭隘な築地で、市場活動を続けながら再整備工事を行うことは技術的に困難であり、長い時間がかかり、経費もかかる。
 市場機能を一時どこかに移し、その間に再整備工事を一挙に行うことも検討された。1990年ごろには、まだ汐留の貨物操車場がほとんど使われない状態で残されていたから、ここへの一時移転が事務的な検討の対象にあがったこともあった。しかしその案はアイデア以上に進むことはなく、築地で再整備を行うことに決まった。 汐留の貨物操車場はその後の再開発で、超高層のオフィスビルやホテル、おしゃれなレストランやブティックなどの立ち並ぶ、先進的な街に生まれ変わっている。

▼卸売市場がなぜ広大な土地を必要とするかと言えば、大量の商品を集め、短時間で小口に分けて搬出するという機能上、施設は立体化になじまず、平面の動線がもっとも便利だからである。また、商品の品質を見極め、需給バランスを考慮して迅速に価格を決定する機能を十分発揮するためには、現在の築地市場で働いている仲卸や買出し人の専門性が欠かせない。

単なる集荷、分荷の物流施設なら、郊外に広い土地を見つけることも可能であろうが、卸売市場としての価格決定機能を満足に持つためには、現在の築地市場の近くに広い市場用地を確保することが必要だったのだ。しかしそのような土地が容易に見つかるはずがなく、築地での再整備工事が少しずつ始まった。
  豊洲に50ヘクタールほどの土地がある、という話が非公式に築地市場にもたらされたのは、1996年だった。歓迎すべき情報だったが、大きな問題があった。一度決まって動き出した事業は止めることが難しい、という役所の仕事の通弊だけでなく、築地の業界の賛成を得ることが、なかなか容易でなかったからである。
  築地市場では水産物と青果物を扱っているが、売上高の大きい水産業界の発言力が大きく、その中でも多数の組合員を持つ仲卸組合の発言力が大きい。
  水産仲卸は現在641社(店)ということだが、規模の格差が大きく、売上高が100億円以上ある者がいる一方、1億円に満たない零細仲卸が全体の3分の1強を占める。規模の大きい仲卸は、豊洲の新天地でさらに事業を伸ばそうと考えるが、零細仲卸の多くは築地にしがみつく方を選ぶといわれる。 
  卸売市場の移転や建設は、開設者である東京都の権限と責任に属することだから、都の一存でどのようにでも決められそうなものだが、実際は市場を使用する関係業者の意向を無視して決定するわけにはいかない。 
 既存存の方針を変更し、築地市場を移転させる方向に舵を切ることは、それが都市政策としていかに合理的な選択だったとしても、個々の業者の経済的利害に直接関わることがらだったから、容易な問題ではなかったのである。
 

1999年の選挙で石原都知事が誕生し、その年の秋、都知事は築地市場の豊洲への移転を決定した。96年からの3年間のあいだに、どのような業界調整が行われたのか、外部の人間には知る由もないが、動き始めていた数千億円の大プロジェクトを止め、合理的な方向に修正した努力は快挙と言ってよい。
 石原は都議会の「百条委員会」への出席を求められているが、それに先立って33日に記者会見し、そこで「豊洲移転は既定路線」であり、自分は「都職員や議会が判断したものを裁可した」だけだと語った、と報じられた。石原の発言はあいまいで、「築地市場の豊洲移転」という意思決定の責任を、自分以外の者にも荷わせたいというそぶりが窺えるが、そのような卑屈なまねをする必要はない。「土壌汚染」の問題については後で触れるが、築地市場問題の長い歴史を考えれば「豊洲移転」の決定が英断であることは間違いなく、それを最終的に決定したのは当時の石原都知事なのだから、彼は胸を張っていいのである。 

▼ところで、「築地市場の移転問題」とか「豊洲市場の問題」などとしきりに言われているが、いったい何が問題なのだろうか。
  前回触れた、石原元都知事の記者会見を取り上げた朝日新聞の記事によると、「都はなぜ、土壌汚染が残る豊洲を、食品用地に選んだのか?」ということが「問題」らしい。同じ記事の中に、「豊洲の土地から大量のベンゼンが検出されたときに、なぜ移転の見直しをしなかったのか?」、「都は購入した土地について、東京ガスの瑕疵担保責任をなぜ免除したのか?」という「疑問」が書かれているが、いずれも同様の趣旨と考えてよいだろう。
  報じられている百条委員会での質疑を見ても、「問題」をそのように絞ってよいようだ。 

都の豊洲の土地の購入経緯は、報道によれば概略次のようなものである。

  ①  都は、市場用地として豊洲の土地を手に入れたかった。
  東京ガス㈱は、豊洲の土地について独自の構想があり、都に売ることを渋った。
  東京ガス㈱は土地が工場跡地であり、有害物質が残されていることを説明した。
  都は覆土や土の入れ替えにより有害物質の影響を除去し、土地を市場用地として使用することは可能だと判断した。
  都は東京ガス㈱に対し、土地の汚染除去は関係法令の定めるところまでやれば、そのあと追加の除去作業が必要になった場合は、都の責任において行う旨を約束し、土地を購入した。

 豊洲の土地を是が非でも購入したい都と、売却にあまり乗り気でないが、都の意向を無下に断ることもできない東京ガス㈱の関係として、上の経緯に不自然なところはどこにもない。
 マスメディアがしきりに口にする「瑕疵担保責任」とは、譲渡した土地に「隠れた瑕疵」があったような場合に問われる民法上の責任である。あらかじめ土壌汚染の可能性を説明している東京ガス㈱と、それを承知で購入した都のあいだに、この問題が発生するはずがない。
 上の経緯から検討すべき「問題」を抽出するとすれば、④の土壌汚染対策措置を取れば豊洲の土地を市場用地として十分使用できる、と考えた都(石原)の判断が正しかったのかどうかという点であり、土壌汚染対策措置は実際に正しくなされたのかどうか、ということであろう。 

▼有害物質の人体への影響を議論する場合、どのような経路で、どのくらいの量が人体へ入るのか、人体に何が起きるのか、を明確にしなければならない。環境汚染の場合には、摂取経路の確定が真っ先に行われる必要がある。
 「しかるに、豊洲市場の場合、摂取経路がわからぬまま議論されている」と、「環境リスク」研究の第一人者だった中西準子が指摘する。(「豊洲への早期移転が望ましい理由」中西準子 WEBRONZA 2/13

中西は、自分の周囲の女性たちの反応を、次のようにレポートしている。
 ≪(昨年の秋ごろ)誰もが「もう、安心してマグロの刺身もダメね」というような心配を口にしていた。筆者は、あるとき、聞いてみた。どうして、と。「あんな水で洗った刺身なんか食べられない」。
  地下水は、市場では使わないと説明すると、「では、水はどうするの?」となり、掃除も含めて水道水を使うと答えると、「水道があるのか」とつぶやくような声になった。そこにいた他の人も、大半は、市場では井戸水で魚や、まな板を洗うと考えて、ニュースを聞いていたようだった。/もちろんこれは、完全な間違いである。≫(同上)

上の「笑い話」は、「摂取経路」についての間違った思い込みによるものだが、中西準子は「豊洲新市場予定地における土壌汚染対策に関する専門家会議」の議論と資料を丁寧に検討し、次のように解説してくれている。 

・東京ガス㈱の調査と除染は「かなり丁寧に行われ」、2007年に終了した。
 ・市場側の調査と土壌改良工事は膨大な(調査地点数は4122地点に上った)ものだったが、2014年に完了し、その後2年間、201の井戸で地下水のモニタリングが8回行われた。(結果はほぼ地下水環境基準内だったが、最後の9回目に基準値超えが多く出て騒ぎになり、現在再調査が行われている。)
 ・地下水の水質は、処理を行わずに下水に流せるレベル(地下水環境基準の10倍)とされ、ベンゼン、シアン化合物については「地下水環境基準に適合することをめざす」とされた。(ベンゼン、シアンについて厳しい措置が加えられたのは、大気に拡散した場合のリスクの懸念からだったが、現実には「このリスクはきわめて小さい」ことがその後に示され、付加措置は不要であることが明らかになった。) ・「リスク計算」はきちんと行われており、≪その意味で豊洲市場の予定地の安全性は、十分証明されている。≫(同上) 

▼土壌汚染があっても、それがすぐに人の健康に悪い影響を与えることを意味するわけではない。
 「土壌汚染対策法」は人の健康へのリスクを判断する基準として、「有害物質含有量基準」、「有害物質溶出量基準」、「地下水水質基準」の三基準を設け、これに従って土壌を判定することとしている。豊洲の土地は判定の結果、「土壌汚染あり」ではあるが、地下水を飲み水にするわけではなく、汚染された土壌に人が直接触れるわけでもないため「リスクなし」とされ、「形質変更時要届出区域」に指定されている。この場合、有害物質の除去や封じ込めの措置は求められず、大きな工事などのときに届け出が必要なだけである。
  それでは地下水のモニタリングの結果、「環境基準の何十倍の有害物質が検出された」と言って騒いでいるのは、何なのだろうか。
  中西準子の説明によれば、「土壌環境基準」は法によって異常に厳しく設定されていて、水道水の水質基準と数値が同じなのだという。つまり土壌の「有害物質溶出量」が水道水の水質基準を超えると、土壌汚染と認定されてしまう。
  具体的に言えば、「1リットルの水に100グラムの土壌を入れ、振盪器で6時間振盪した液体の上澄みで、お茶を入れみそ汁をつくり、ご飯を炊くということを370年続けても安全」というレベルでなければ、「土壌汚染あり」と認定されるということである。
 なぜこのように不合理な「環境基準」が設定されているのか、大いに疑問だが、この実態を知れば、「環境基準の何十倍の有害物質」が検出されようと、大騒ぎするようなことではないということになるだろう。
  専門家たちはその辺の事情を呑み込んだうえで「土壌汚染」の問題を議論していたのだが、マスメディアを通じて「問題」が社会に拡散するなかで、いつのまにか「環境基準」を絶対視し、採取した地下水がその基準以内に収まらなければならない、という雰囲気がつくられてしまった、と中西は書いている。(「有害物質溶出量」の測定は作業が大変なので、便宜的に地下水の採取で代用している。) 

 中西は同じ論文の中で、「安全」「安心」のためと称して過剰な調査や対策を行うことの、問題性を指摘している。

 ≪安全の対策にお金がかかることを問題視すると、お金より命が大切でしょという人も多い。………お金がかかる、時間がかかるは、エネルギーを使っていることでもある。エネルギーを得るために、私たちはどのぐらい環境破壊をしているか。エネルギーを節約すれば、それだけ環境負荷を減らすことができる。だから、効率よく安全対策や環境対策をしなければならない。≫(同上)

 公害問題、環境問題に先進的に取り組んできた中西の、「膨大な費用が掛かるということは、それだけの環境破壊をしていることになることを、ぜひ認識してほしい」という言葉に、耳を傾けるべきであろう。 

▼都議会の予算委員会(3/14)質疑で、自民党の議員は小池都知事に、築地市場でも土壌から環境基準を超えるヒ素などの有害物質が検出されていたと報じられたが、安全なのか、と質問した。
 小池は、コンクリートやアスファルトで覆っているから安全だ、と答えた。

 議員は、コンクリートで土地が覆われているのは豊洲も同じであり、築地と同様安全ではないか、と質問した。
 小池は、法令の定める基準は満たしているが、なお都民からの信頼性が得られていないという意味で、安心とは言えない、と答えた。
 議員は、築地市場の建物は閉鎖型でなく、ハトやカモメ、ネズミが自由に入り込む、といってパネルに貼った写真を示し、豊洲市場の建物は閉鎖型である、どちらが衛生的なのか、と質問した。
 小池は、豊洲はまだ開業していないので、比較はできない、と答弁した。 

 都は東京ガスから購入した土地に環状2号線等の道路を通したので、豊洲市場の用地は40ヘクタールほどになったが、それでも築地の1.71.8倍の広さである。都はそこに、「閉鎖型」の市場施設を建てた。市場のホームページには、次のような説明がある。
 「市場施設を閉鎖型として品物を高温、風雨等の影響から守り、品質、衛生管理を強化します。/産地から消費者まで温度管理が途切れないようにし、魚や野菜の鮮度を保持します。(コールドチェーン)」
 従来の市場の建物は築地も含め、屋根と柱を主にした「開放型」の施設である。それをカーテンウォールなどで仕切られた「閉鎖型」の建物にし、稼働させると膨大な電気代が掛かることになるが、それを承知で都は、「安全」「安心」を優先させたということなのだろう。 

 小池都知事の答弁は、これらの事実の上に立っているとはとても言えない。豊洲市場が「安全」であることは不承不承認めたが、なお「安心」とは言えないと強弁する。しかし「安心」などという心理上の問題を持ち出して、彼女はどうするつもりなのだろうか。

 もしも小池百合子が信頼される政治家であるなら、彼女が「築地市場に比べ、豊洲はこれだけ品質管理、衛生管理が向上する」、「安心してよい」と説明すればよいのである。中西準子の説明を聞いて目からウロコの取れた女性たちのように、都民も実態を理解し、納得することであろう。
 都民の「安心感」は政治家が作り出すものであり、それを理由に他者を攻撃したり、仕事をさぼったりする口実ではない。

▼さて、「築地市場移転問題」あるいは「豊洲市場問題」の騒ぎから、「ひとはいかにして誤った考えを抱くか」が見えてくるように思う。
  第一に、問題の全体像を見ず、一部分を知っただけで結論を急いだり、俗受けする構図に当てはめて理解するところから来る過ちである。
 朝日新聞は、石原元都知事を喚問した320日の都議会百条委員会の様子を報じ、
 ≪………何度も立ち止まる機会はあった。だが、妥当性を判断する者が不在のまま、移転ありきで汚染対策や費用負担交渉など眼の前の課題をクリアすることが優先された。≫と批判的に解説した。
 土壌汚染の残る土地、豊洲。「立ち止まる機会」はあったのに「移転計画を見直さ」ず、「移転ありき」で突っ走った東京都。都庁の無責任体質。―――朝日の解説はもっともらしく、その意味で分かりやすい構図を描いて批判しているが、問題の正しい理解ではない。 

問題の出発点は、喫緊の課題となっていた築地市場の老朽化した施設をどうするか、ということだった。狭い土地で営業を続けながら改築することは困難であり、また長い時間をかけて改築できたとしても、立体化された施設が使い勝手の悪いものとなるのは明らかだった。それでも移転する土地がないとすれば、現地で再整備工事に取り掛かるしかない。都は、一度は築地市場の現地での再整備方針を決め、工事を始めたのである。―――
  築地市場移転問題の経緯を調べれば、都と市場の業者が途中で「立ち止まり」、開始した無理な再整備計画を「見直し」、豊洲新市場の開設に向けて方向を転換して現在に至ったことが、見て取れるはずだ。そういう過去の経緯への理解がないから、問題のうちの一部である「土壌汚染」だけを突出させ、バランスを失した結論を導き出して騒ぎたて、議論の混迷が生じるのである。
  新しい市場の用地に、「土壌汚染の残る土地」を選びたい人間はいない。しかし新しい市場用地として「土壌汚染の残る土地」しか残されていない場合、どうするべきなのか。
 「土壌汚染は克服可能だが、用地の狭さを克服することは難しい」と考えた都の判断は、筆者にはごく自然で合理的なものに見える。そして出来上がった豊洲市場の施設は、土壌汚染問題の専門家から「安全」のお墨付きを得るものになった。
  しかし「土壌汚染」と「食品用地」しか眼に入らない人びとには、両者を直線で結ぶロジックだけが正義の発言に見えるのだろう。 

▼第二に、「面白さ」に飛びつき、「流れ」に掉さして流され、舌先でコトバを転がして恰好を付けるだけの「ジャーナリスト」が多すぎることが、問題を混乱させ視界をふさいでいる。最近の週刊誌に、次のような記事があった。

 ≪世の中、不思議なものである。安倍1強の風向きが微妙に変わってきた。/東の「豊洲」、西の「森友」という二つの疑惑が、その原因である。いずれも公有地の売買をめぐり、政治が中立であるべき行政を捻じ曲げたのではないか、との疑いが持たれている。≫(『サンデー毎日』3/26号所収「倉重篤郎のサンデー時評」から)

 説明は無用だろう。この「時評」を書いた記者は、「東の豊洲」について何も調べず、また調べる必要性も感じていない。「豊洲」と「森友」と「安倍政権」の三題噺を、うまくまとめたとニンマリしているだけである。
 「面白さ」に飛びつくのはジャーナリストの性であるから、いけないとは言わない。しかし「面白さ」にもいろいろなレベルがあるのであり、自分の足で歩いて調べ、「面白い」問題を発見する者もいれば、コトバを器用に転がすだけの志の低い者もいる。
 インターネット時代は、真偽のほどの確かでない情報が溢れかえる時代である。レベルの低い「面白さ」で満足するジャーナリストたちは、情報の真偽を調べ問題を掘り出すせっかくの機会を放棄することで、自分の首を絞めていることに気がつかないのだろうか。 

▼この豊洲問題に限らず、ニュースの一般的な視聴者がマスメディアの主張の誤りを見抜くことは、容易ではない。
  報道される事件はほとんどの場合、自分と関わりのないものであり、自分と関わりのない事件について右から左へ聞き流して終わるのは、自然なことだ。またニュースの一般的な視聴者が、ニュースに「面白さ」を求めたとしても、非難されるいわれはない。
 だが一般視聴者の「甘さ」につけ込み、甘い言葉をかけてくる扇動家の存在に、ときには注意してみることも必要だろう。「気を付けよう 甘い言葉と 暗い道」。現代社会の危険は、誰もが注意する「暗い夜道」よりも、もっともらしい顔をした「甘い言葉」の方に、より多く潜んでいるものだ。
 たとえば小池百合子という政治家について、筆者はほとんど何も知らず、彼女が都知事に当選してからは、マスメディアに身体を晒し続けるそのタフさに驚くだけだった。だがこの豊洲市場問題を利用して彼女が巧みに「敵」をこしらえ、「世論」がそれを叩くように仕向け、彼女自身は高い人気を得ていることを知り、意外に「食わせ者」なのではないかと思うようになった。
 マスメディアは今のところ、小池の思惑通りの構図を描いては、思惑通りの声を上げている。石原元都知事の、「小池都知事は安全と安心を混同して、問題を混乱させている」、「豊洲を開場しないことで、都民に経済的損失を与えている」、という非難はきわめて正当なのだが、その内容にふさわしい受け止めがなされたようには見えない。
  ひとびとの興味は石原の言葉の真偽よりも、長いあいだ華やかに振舞ってきた彼が「老残」の身をカメラに晒し、百条委員会で弁明に追われたという、「見世物」の方に流れてしまう。小池はそのことを、十分計算に入れていたように見える。 

 小池は7月の都議選まで、「豊洲問題」を引っ張るつもりかと見られていたが、さすがにそこまでの無茶はできないと判断したらしく、選挙の旗印にはしないと述べた。(3/25
 「都民ファースト」の幟を立てた「小池ファースト」劇場が、次に何を出し物にし、どのように幕を引くのか、さほど興味があるわけではないが見ていきたいと思う。

 (終)

ARCHIVESに戻る