鶴見俊輔

             【ブログ掲載:2015年8月14日】

 

▼先月下旬、鶴見俊輔が亡くなったという記事が新聞に出ていた。朝日新聞は7月24日の1面と社会面に大きなスペースを割いて鶴見の経歴や活動を紹介しただけでなく、上野千鶴子の追悼文を載せ、翌25日の社説でも取り上げるといった念の入れ方だった。
 社説は「鶴見さん逝く」、「個々の行動に宿る理念」と題し、《リベラルな立場からの発言・執筆で、戦後の思想や文化に大きな影響を与えた哲学者で評論家。反戦平和の為に行動する姿勢を貫いた知識人だった》と書いた。また、《一貫していたのは、特定の主義や党派に拠らず、個人として考え行動する姿勢だ》と述べた。もし、「鶴見俊輔」を百字で説明せよ、という設問があるなら、その模範解答と言ってもよいだろう。
  しかし鶴見の経歴や活動の輪郭を知ったとしても、その人間や思想の理解にはなかなか行きつかない、という印象が筆者にはある。

 ▼筆者は鶴見俊輔について、よく分からない、という印象を懐きつづけてきた。
 鶴見は朝日の論説委員が書いているように、60年の安保闘争時には一人の市民として反対運動に参加し、ベトナム戦争が激しくなった65年には、呼びかけ人となって「ベ平連」を立ち上げた。21世紀に入り憲法改正の世論が広がりを見せると、憲法9条を守ろうと「九条の会」を生み出す呼びかけ人となったが、それらの活動を通じて「一貫していたのは、特定の主義や党派によらず、個人として考え、行動する姿勢」だった。
 「反戦」や「平和」は、複数の国家・国民間の関わり方の問題であり、優れて政治的な課題である。
 「政治的」というのはこの場合、国家・国民間の武力や経済力、価値観の絡まり合う関係の中で、戦争を起こさず平和を維持するという目的に沿って、国家の行動を冷静に選択することを意味する。個人の「反戦の思い」をお題目のように唱えることは、国家の行動の選択に影響を与える行為ではあるが、それ以上のものではない。
 鶴見は非政治的人間であり、徹底的に非政治的考え方を貫く人間である。どのような政治的課題に対しても彼の関心は「個人の生き方」にあり、政治的課題は「個人の生きる姿勢」の問題に還元されてしまう。
 筆者の「よくわからない」という印象は、ひとつにはこのあたりから生じているように思う。 

▼鶴見が高く評価した「生き方」は、自分の頭で問題を考え、工夫し、一貫している人々の人生だった。彼はそういう見事な「生き方」を庶民の中から発掘することに、多くの時間を費やした。他方で彼は、戦前の日本の、状況の変化のままに容易に思想を変えた学校秀才・知識人たちの「生き方」を批判し、同志を募って厖大な「転向研究」を行った。
  彼が高い評価を与える生き方をした日本人には、政治的には「保守・反動」に分類される人間が多い。たとえば戦中の統制的な政治・経済に反対して投獄され、戦後は反共、再軍備の運動に挺身した「反共自由主義者」渡辺銕蔵(わたなべてつぞう)や、神道系の思想家・葦津珍彦(あしづうずひこ)などがそれである。 

筆者も鶴見の紹介する「見事な生き方」に、共感するものはある。しかしミクロの経済現象をいかに積み上げて行ってもマクロの経済現象の理解には行きつかず、かえって「合成の誤謬」に陥ることがあるように、「見事な生き方」を積み上げていっても社会現象の理解には到達しない。
  筆者が感じる「よく分からない」印象は、筆者の関心と鶴見の執着の方向のズレによるものかもしれない。 

▼鶴見の文体も、筆者には「よく分からない」原因の一つだったように思う。
  それはいたって平明で、なんら韜晦することなく率直に考えを語っているように見えるのだが、なぜか筆者は文章のリズムに乗れず、読後感はいつも爽快さからほど遠かった。かって議会答弁を「言語明瞭、意味不明瞭」と評された総理大臣がいたが、鶴見の文章は筆者にとって、言語明瞭、文意も明瞭なのに、納得するためには何かが欠けているような感じだった。
  このことはが必ずしも筆者の誤解や偏見ではないらしいことを、のちに鶴見の発言を読んで知った。鶴見は次のような発言をしていた。

《………おやじ(鶴見祐輔 筆者註)は紋切型、対句を巧みに使って安心感を与えるリズミックな文章をつくった。そこから見ると私の文章は異様な感じになる。私は自分でも読めない字を書いているし、一つのセンテンスから次のセンテンスのあいだに継ぎ目がない。接続詞がない。……/私には紋切型が自分の文章に入ってくるんじゃないかという恐れがある。》(『期待と回想』1997年)
  つまり鶴見の文体は、自分で意識的戦略的に選び取ったものだというのだが、この選択は次の大学の講義の話とも関連する。

鶴見は粉河哲夫との対話で、いま大学では教えていないのかと問われ、日本の大学では大集団を相手にするから、「なんとなく面白い話をしなきゃならないという誘惑に耐えられない。あれで失敗するんだ」と答える。(『思想の舞台』鶴見俊輔・粉河哲夫 1985年) 

《粉河:鶴見さんは、教えていらっしゃる頃はどういう先生だったんですか。
  鶴見:おもしろい話をするという誘惑に耐えられなかった。話をおもしろくしているんです。それがよくないと思う。だから、メキシコで1年いると、学生5人、カナダに1年いると、学生10人でしょう。それに助けられているわけ。まともな話ができる。たくさんいると、もりあがらせてしまう。
  粉河:でも、それは非常にいいことなんじゃないですか。学生にとって。
  鶴見:いや、よくないでしょう。自分にとってはよくないですね。》 

鶴見の言う「話をおもしろくしてしまう」ことへの警戒心は、読み手に「安心感を与えるリズミックな文章」を書くことに対する警戒心と繋がっているようだ。筆者にはよく理解できないのだが、社会の潮流に安易に同調するまいという鶴見流の自戒なのかもしれない。

▼鶴見俊輔についての筆者の印象を短い言葉にすると、「よく分からない」ことのほかに、「党派的でない」こと、「一貫性」、「強力な生命エネルギー」、ということになるだろうか。
 一言で言えば、よく分からないし、読みたい文章でもないのだが、鶴見はどこか気になる存在だった。それは彼がたいへんな読書家であり、書物と人間の「目利き」であることへの畏敬の念が、筆者にあったということかもしれない。
 たとえば鶴見が評価しているのを見て、筆者は谷沢永一『紙つぶて』を読んだ。『紙つぶて』は歯に衣着せない超辛口の書評集で、日本の微温的・権威主義的風土の中では内輪誉めの対象とされていた書物の多くが、辛辣鋭利な言葉で一刀両断にされていた。
  筆者は谷沢の鋭利な一刀両断の批評にも感心したが、谷沢が称揚する大石慎三郎(江戸期歴史学)、宮崎市定(中国史)、森銑三(書誌学)らをこの書評集から知り、読んでみておおいに得るところがあった。また谷沢や開高健と若いころ同人雑誌の仲間だった向井敏を知り、向井の書評をガイドブックにいろいろな書物の世界を楽しんだりした。
  鶴見の書評は、筆者にこのような豊かな広がりをもたらしたが、これは彼が党派的思考と無縁であるところから来ている。筆者は鶴見の良い読者ではないが、その書物や人間に向けられた眼力に、相応の敬意を払ってきた自分の判断は間違っていなかったと思う。 

《自分が生きてゆくにつれて視野が開ける。そういう遠近法を捨てることはできない。しかし、そういうふうにして開けてくる景色には、自分にとって見えない部分が含まれる。この自分にとって見えない部分を見るというのは、できないことだが、見えないものの気配を感じることはできる。そういうふうでありたい。/自分の思想は自分にとって落し穴だろうが、そこからはいでる道は、自分の思想の落し穴への気配を感じようとすることから、ひらける。すくなくとも、見えやすくなる。》(『思想の落し穴』(1989年)) 

鶴見は上のような感想を著作のあとがきに記しているが、筆者にとっては鶴見の書いたものを読むことが、自分の「見えないものの気配を感じること」につながっているようである。



ARCHIVESに戻る