山口昌男
               【ブログ掲載:2016年2月5日~2月19日】


▼『山口昌男の手紙』(大塚信一 2007年 トランスビュー)という本を読んだ。著者・大塚信一は、岩波書店の編集者であり、社長職にも就いた。
 大塚は国際基督教大学(ICU)の学生だったとき、助手として勤務していた山口昌男と知り合ったという。社会学や文化人類学を学んでいた学生たちは、大学からバスで15分ほどの所に住んでいた山口宅で読書会などを開き、山口の指導を受けたりしていたが、大塚もそうした学生たちのうちの一人だった。
  大塚と山口の付きあいは、その後大塚が「岩波書店」に勤め、「思想」の編集を担当するといったこともあって、いっそう深まったらしい。
 この本には山口昌男から著者に向けて書かれた手紙84通が年代順に掲載され、一定のまとまりごとに大塚の注やコメントが付けられている。最初の手紙は1967年3月、ナイジェリアから出されたものであり、最後の手紙は19894月に北イタリアからから出されている。実務的な短いものもあるが、多くは外国に滞在する山口昌男が、その読書や思索を熱く語る長文のものである。 

▼収録された最初の手紙が書かれた時期、山口はナイジェリアの大学で社会人類学を教えながら、現地の部族のフィールドワークを行っていた。その様子が手紙には、生き生きとイラスト入りで綴られている。
  翌年(1968年)春、山口は大学の契約期間を終えて日本に帰る途中、パリに立ち寄る。人類学専門の小さな本屋で親しくなった店主から、山口は同世代のフランスの人類学者を紹介され、交遊の輪は「数珠つなぎ」的に拡がる。
 王権、道化、神話、儀礼、トリックスター、スケープゴート、カーニバル、祝祭といった山口の関心に共鳴し、共に語りあえる仲間に巡り合い、山口の手紙は熱を帯びる。
 「小生はどうもこのところ、故国でより、異国で話の合う人間が多くなり、好かれる度合いが多くなった気配があります。日本に帰ったら、ますますきらわれるのではないかと思っています。………どうせ故国の人との意思疎通は、二、三人の人を除いては考えていないことですから」と、山口は手紙に書く。
 フランスの同世代の人類学者たちとの交遊が縁となり、翌年、山口はパリ・ナンテール校の客員教授として招かれ、「政治の象徴人類学」についての講義を行う。そしてレヴィ=ストロース教授のゼミでナイジェリアでのフィールドワークをベースにした発表をやり、教授から絶賛される。 

1977年、メキシコ大学に客員教授として滞在した山口は、アパートの近くの画廊で開催されていたホセ・ソラーナのエッチング展を覗き、画廊の持ち主と親しくなる。この画廊の持ち主の人間関係を通じて、山口の交遊はかってのパリ同様、「数珠つなぎ」的に拡がる。やがてこの交遊関係は詩人・オクタヴィオ・パスにつながり、西欧的な単線的歴史観を批判するパスと山口は、互いに畏敬し合う仲となる。

山口昌男の手紙は、そのような外国での彼の交遊や活動をつづり、また、書物を買うために送金を頼んだり、日本の学者仲間への罵倒をつづっている部分もある。(罵倒された学者の名前は、残念ながら「伏せ字」になっている。)しかし圧倒的な量を占めているのは、読んだ本の感想やそこで触発された思索である。
 山口の読書は彼の関心の赴くままに、人類学、哲学、言語学、美術史、記号論、思想史、と広大な領域にまたがり、関心はさらに映画や演劇、絵画や音楽にまで拡がる。
 山口の手紙を読む者は、彼が世界の知的流行を追い求めたのではなく、彼自身が知的世界の先端にあり、彼の関心と思索の軌跡が知的流行を創り出したことを知るのである。

要するにこの本は、著者・大塚信一と山口昌男との交流を、山口からの「手紙を柱に据えて綴」ったものだが、70年代以降に精力的に展開される山口の「思想」の生成の現場を、開示するものともなっている。

70年代に自分の「思想」を十冊ほどの書物として発表した山口昌男は、80年代に入ると時代の寵児となった。山口の交際範囲は学界や出版界という狭いサークルを越えて拡がり、書店の棚には山口の影響力をうかがわせる「○○の神話学」、「××の記号論」といった名前の書物が、いくつも並んだ。
 しかし大塚信一と山口のあいだには、逆に距離が生まれていた。大塚は80年代半ばに、岩波書店で雑誌「へるめす」を編集したが、そこに山口が寄稿する論文が「山口本来の姿ではない」と、不満を覚えた。山口の論文は、のちに『「挫折」の昭和史』、『「敗者」の精神史』としてまとめられるのだが、以前の論文に見られた「叙述と理論のあいだの緊張感とそれに基づく迫力」が乏しく、大塚にとって「簡単に賛同できるものではなかった」。
 山口を取り巻く人びとの中で、編集者の占める割合が「驚くほど小さくなった」こともあり、大塚は山口との距離をあえて縮めようとはしなかった。 

 1990年に山口昌男の還暦を祝う会が開かれた。お祝いの挨拶を終えた大塚を、一人の女性が会場の隅の方へ引っ張って行って京都の旅館の女将だと名のり、次のような話をしたという。
 「山口先生は私の宿を気に入ってくれて、もう何回も泊まってくれました。でも、その度に私は困ってしまうのです。夜、外から帰ってきた山口先生と寝酒をおつき合いするのですが、その度に先生は嘆くのです。『大塚が冷たい』と言って。男泣きに泣いたこともあります。大塚さん、どうしてやさしくしてあげないのですか。先生は、あんなにあなたのことを気にかけているのに………。」
 大塚は彼女の話を聞いて胸を打たれたが、「できるだけ、おっしゃるように心掛けます」と、あいまいに答えることしかできなかった。説明のしようがなかったのである、と大塚は書いている。 

▼筆者はこの本を読んでいて、優れた編集者の仕事の背後には、並みでない量の勉強があるに違いないということを思った。
 この本には、著者・大塚信一から山口昌男に宛てた手紙は一通も掲載されていないから、どのようなものだったかは推測するしかない。しかし山口が自分の思索やアイデアや感想を手紙に熱く書いて送ったという事実は、山口が大塚を、共に語るに足る人間と見なしていたことを示している。
 それは山口にとって、大塚が自分の良き読者、厳しい批評者であり、自分の問題意識を的確に理解しているという信頼感から来る。こうした信頼関係は、編集者としてのカンの良さや付け焼刃の勉強で築けるものではないだろう。  
 この厳しい批評者の眼こそ、山口の「後期」の仕事に不満を抱かせ、結果として距離を取らせることになるものだった。 

知の既成秩序の牙城と言うべき岩波書店に、知のラディカルな組み替えを主張する山口昌男の良き理解者がおり、山口本人よりもさらに厳しくその姿勢を持続したという事実は、なんとも面白いと思う。




▼前回、『山口昌男の手紙』(大塚信一著)について感想を書き、それから別の話題に移るつもりでいた。しかし考えてみると、「山口昌男」に対する筆者自身の考えを何も述べないで終えるというのも、まことに変なものである。
 筆者は山口の良い読者ではなく、その著作について積極的に語りたいという意欲も湧かないのだが、それでもやはり一言発言しておくべきだと考えなおした。
 大塚信一は山口昌男を「天才」と評したが、たしかに山口の広大無辺の読書力と抜群の記憶力、そして自分の宇宙を構築してみせる力技は、天才と評するにふさわしいかもしれない。山口はその関心の赴くままに広大な知的領域を駆け巡り、同時代の世界の知識人を触発し、共通の問題関心のもとに仕事を進めた。
 山口昌男の関心は一言でいうと、未開から文明までを貫く人間社会の生理と力学を明らかにすることだった、ように筆者には思える。
 近代文明社会は未開社会と異なり、理性的思考を育て、合理的制度をつくって運用し、合理性が社会を支配しているように見える。しかし山口からすれば、合理的な「表層」の下に社会を実質的に動かす「深層」のダイナミクスが存在するのであり、「深層」の生理と力学こそ彼の関心事だった。そして彼は、社会の秩序を搔き乱し崩壊させるファクターに、熱い関心を寄せた。

▼たとえば山口は、「スケープゴート(贖罪の山羊)」という現象を「文化の根源的な活力を保証する仕掛けの一つ」と捉え、次のように論ずる。(「スケープゴートの詩学へ」『文化の詩学』Ⅱ 1983年所収)

人間の精神は、同じ状態が継続することに耐えられないようにできている。同じ状態の継続は、世界を停滞に導く。《時間は摩滅して、マイナスの力が蓄積される》ので、儀礼を通して《はじまりの力とほとんど暴力的に接触することによって、はじまりの輝きを取り戻す必要》がある。
 《年毎の収穫祭においてカーニヴァル的行事を行い、前年の災いや穢れを特定の対象に担わせてこれを秩序圏外に追放するのは、社会が自らの活力を定期的に回復するために不可欠の手段》なのである。
 このような定期的に行われる社会の蘇えりの儀礼のほかに、社会の抱えているディレンマの解決手段として使われる不定期的な儀礼がある。
 ひとは自分が属する政治秩序の中で、階層の上部に対して潜在的に憎悪を懐き、下にその感情を転化する。転化によって憎悪は部分的には解決するが、満ち足りない思いも蓄積される。
 《こうした不満は、解決の道が与えられないと暴力か無気力によって破滅的な方向をたどることになる。社会は、こうした負に向かうエネルギーを頂点に向け、頂点にあるものを儀礼的に破滅させることによってカタルシス的効果を得る、というディレンマ解決の方向を見出した。王殺しにまつわる神話・儀礼は、こうした解決の先行形態であった。》
 しかし王権は、底辺の存在に自らの運命を肩代わりさせようとする。西欧社会ではユダヤ人が、《知的には王とともに、社会的には底辺として》、二重にスケープゴートとしての性質を帯びていた。
 こうしたユダヤ人の役割を、もっとも効果的に利用したのはヒトラーだったが、スターリンは、国内の経済政策の破綻から大衆の注意をそらすために、トロツキストという政治的悪魔の像をでっちあげ、スケープゴートとした。
 《この二人の独裁者は、日常生活の深部で密かに働いていた<排除>の論理を公然と白日の下にさらけ出し、かっては周期的に儀礼とか祝祭の名のもとに行われていたことを、時間の枠から外して日常的なテロリズムの手段に転化してしまったのである。》―――

人類学特有の術語と生硬な抽象的表現が読解を難しくしている面もあるが、合理性が支配する日常世界の下に社会の「深層」のダイナミクスを見るという、山口の問題関心がどのようなものか、見当を付けることができるだろう。

▼筆者は、山口昌男の良い読者ではなかった。山口の初期の文章を集めた『人類学的思考』や『本の神話学』、『文化の詩学』などを、むかし人並みに読んではみたが、文体になじめず、厖大な量の引用に辟易しただけに終わった。
 上に紹介した「スケープゴート」に関する文章も、様々な研究者たちの論文からの引用が多くの部分を占める。通常の論文ならば、自分の主張の裏付けとして引用がなされるのだが、山口の論文では主客が逆転し、山口自身の主張は、引用と引用のあいだを繋ぐ「狂言回し」のセリフ程度の役割しか、果たしていない。
  長々と引用された文章が山口の主張でもある、と仮定して一応上のようにまとめてみたものの、筆者には山口の文章に対する反感と違和感が強く残る。

 しかし山口昌男は、自分の引用過多の文章スタイルについても「悪文」についても、十分自覚的であった。「私はジャン=リュック・ゴダール及びワルター・ベンヤミンと並ぶ引用魔と周りの人間に名誉ある称号を頂戴している」と書き、悪びれたところはない。(「贋学生の懺悔録」『人類学的思考』所収)
  また自分の「悪文」については、弁明、と言うよりも、開き直った反論を試みている。(「文化の中の文体」 『文化の詩学』Ⅱ 所収)
 山口は、「私の文章は悪文であることについては定評があるらしい」と言いながら、「洗練された文体は俗世間の常識的美学との妥協の産物であると思われ、そうした文体を身につけることによって、俗論家に堕することを怖れてきた」と書く。そして、文体というものは「現実に対する構え」を示すものであり、ラディカルな主張を述べる文章が古風な美文調であることで、主張者の感受性が意外に反動的であることを暴露する場合もある、と述べる。
  自分の場合は、「これまで日本語の文章という形で定着したことのないような知の形態を追いすぎているせいか、語彙貧困の故か、文章が邪魔になって仕方がないときがある。自分が切開こうとする展望に、文章がついてこないというもどかしさがつきまとう時がある」と弁解する。
  そして、「現実を多次元的に捉えようとする立場から言えば、悪文の条件を構成する曖昧性こそは、現実の別の、ふつうの文章体では浮上することのない次元を顕在化させるきっかけを与える仕掛けである」と、真正面からの反論を試みる。
  現実を挑発し、秩序や価値の転倒を志向する山口昌男の面目躍如、というところであろうか。
 自分の基本的姿勢に立脚するここまで見事な「開き直り」を見せられれば、悪文非難は苦笑しつつ口をつぐむしかない。

▼筆者は山口昌男の良い読者ではなく、彼の文章には辟易させられたと書いたが、しかしこれまで山口の著作から得たものがないわけではない。「1920年代」に関する筆者の長年の疑問に対し、山口昌男の発言はそれに応えるある種のヒントを与えてくれたように思う。

 第一次世界大戦の敗戦国ドイツでは、経済的困窮や政治的混乱の一方で、文化面では様々な実験的な試みがなされ、実り豊かな成果が生まれたとされている。たとえば建築家や画家が集合した「バウハウス」は、斬新なモダニズムの建築やデザインを生み出したことで知られ、「表現主義」の運動は美術や映画の世界で花開いた。あれはどういうことなのか、という漠然とした疑問が以前から筆者の中にあった。
 あるいは幾何学的な直線や曲線を多用する「アール・デコ」と言われる20年代のデザイン様式は、何を象徴しているのか。
  あるいはクロッシュ(鐘)という名の丸型の帽子をかぶり、シンプルなドレスを身に着け、目の周りを黒々とアイシャドウで囲んだ女性のファッションが20年代に流行したが、あれも「時代精神」と関係するのだろうか。―――

雑誌「現代思想」が1979年に、「1920年代の光と影」を特集する臨時増刊号を出している。山口昌男はその巻頭論文、ではない、「巻頭インタビュー」に登場し、「1920年代」に総括的な概観を与えている。

 《かって、二十年代という不安定であるけれども開かれた感受性によって輝いていた時代というかひとつの風景があった。ある時、その上に灰が降り注ぎはじめ一夜にして見えなくなってしまった。》
 《二〇年代というのは、たとえば風俗というかたちであらわれるもの、見世物とか流行とか、要するに絶えず移ろいゆくものに、もっとも注意深い眼を注いでいくような、そういう感受性が活気を帯びていた時代だと思うんです。ところが三十年代以降に起こった出来事―――つまり、すべて重々しいものを永遠化しようとする試み――がそういう感受性を壊してしまった。》
 《祝祭的なものを抑圧し、見世物的なものを抑圧し、逆に、リアリズムというかたちで世界を凍結してしまうような方向へともっていったわけです。それが、政治的な領域においてだけではなく、さまざまな学問の領域においても起こっていったのではないか。………多義的なものや曖昧なものを一切排除していったのではないか。》
 《二十年代にあれだけ集中的に面白いことが起こったのに、よく四十年間も忘れてきたものだという気がします。》
 《都市にはまだいたるところに片隅があって、その片隅にはさまざまな不確定空間が潜んでいた。都市のもっている新しさのようなものさえ、見慣れぬ形として、そういう不確定なものとしての片隅や暗闇と呼応していたということがあると思うんです。ですから、都市そのものが祝祭を引き寄せるような空間をいたるところにもっていたのではないか。そしてそこにそれを読み解く人間が現われてくるわけですね。二十年代の作家や詩人たちには多かれ少なかれそういうところがあるように思えますね。》

 事物を固定した意味から解き放つ、祝祭的、見世物的な空間への山口昌男の親和的感受性が、1920年代という「時代」の読み解きに縦横に生かされている。

▼一般に、一つの思考法は別の思考法と対比することで、その輪郭はより鮮明となり、その特徴は明瞭に浮かび出る。現実を挑発し社会の秩序を搔き乱すものへの山口の関心を見定めるためには、社会の秩序の擁護に重点を置く者の思考と対比するのが一番、ということになる。
 80年代の初めに「大衆社会批判」の旗を掲げて評論活動を始めた西部邁との対談がある。(「知のルビコンを超えて」1983年 『知のルビコンを超えて』―-山口昌男対談集―-1987年 所収)
 西部は、「山口さんに対してというより、山口さんに率いられた一つの知の潮流」に対し、混沌や反秩序を特権化しすぎていないか、という疑問をぶつける。「カオスというのはあくまで秩序によってこれから切り取られるべき対象ではないか」、「反秩序あるいはカウンターカルチャーといった時にも、やはり論理の主導権はカルチャー(秩序)の側にあるのではないか」というのが、西部の疑問の基礎にある。

西部《………言語と言ってもいいし、あるいはもっと広く記号と言ってもいいかもしれないけれども、何かそういう秩序をつくる能力が人間の根源的レベルにあるとしなければ、どうも説明がつかない気がする。そういう意味で、最近のそういった社会情勢、つまり、社会がいろいろな意味で混沌とした状態を示すこととタイアップするような形で、人間の隠し持った黒々としたカオスに―――先ほどそれを特権化といったのですが―――あまりにも強くフットライトが浴びせかけられているのではないかなという気がするんです。》
 しかし山口は軽くいなす。
 山口《いやいや、全体としては西部さんのように心の拠り所を与えてくれる立場の方がフットライトを浴びてますよ。(中略)ところで、カオスといえば「黒々とした」と直結するのはあまり感心できませんね。ぼくは陽気な混沌を強調してきましたが、「黒々としたカオス」を主張したことはありません。(中略)混沌を「黒々と」といった偏見による単純化を行ったうえで、社会情勢と直ちに結びつけるのは、あまりいただけませんよ。モデルと目前の現実とを混同したやり方だと思います。》
 西部は角度を変えて食い下がる。
 西部《ぼくは、最近、<倫理>という言葉をしばしば使うんですが、それは何もぼくが道徳主義者だからではなくて、自分なりのスタイルを見つけようとすると、そこはかとないものなんですが、ある種の倫理観みたいなものが必要なのではないかと感じるからなのです。つまり、ぼくの思う<倫理>っていうのは、一方では人間の過去の記憶、歴史の堆積から決して離れることはできない、しかし同時に自分のなかに、それから離れようという止み難い欲求というものがある。そのせめぎ合いのなかで、初めて文体にある種の品位が生まれるんじゃないかということなんです。》
 山口《ぼくは<倫理>という言葉は、生涯使わないで済ませたいと思っています。ぼくが演劇性という概念に固執するのは、人間のアイデンティティを<倫理>という言葉を用いて大状況から説明することを避けて、常に文脈に即して考えていきたいからなんです。それに、あなたの言うような意味での<倫理>という言葉は、かってT.S.エリオットが「伝統」といって表現していたものに近いと思うのです。》 西部は戦線を立て直すために、自分の得意な議論の構えの中に山口を引き込もうとする。
 西部《………言葉っていうのは何だと言えば、いつも愛と恐怖、あるいは信頼と不信の両方を語り得るものであって、その危ういバランスが崩れたときに、たとえば暴力が噴出したり、絶対的な抑圧が支配したりってことになると思うんです。……そういう意味での非常に両面的な、どっちに転ぶか分からない危うい均衡にしかない言葉というものに対する恐れを知ることが大事であって、それがさっきから議論になっている文体の問題とか、秩序と混沌の問題にも関係してくるんです。(後略)
 山口《この種の問題の立て方は、ぼくより山崎正和さんあたりとやっていただいたほうが話がはずむんじゃないですか。(笑) (後略)

 山口昌男は、西部邁の振り下ろす剣の切っ先を易々とかわしているように見える。そのことは山口の思考がかずかずの修羅場をくぐり、よく練られたものであることを意味するのだろう。
  議論する者どおしが同じ方向を向いている「対談」が多い中、この山口昌男と西部邁の対談は、明瞭に対立するお互いの思考の輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、出色のものといえる。

おわり


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