「靖国」を考える

              【ブログ掲載:2013年10月6日~12月1日】

 

▼「靖国問題」について、いくつか関連する本を読んでみた。「問題」が捩じれ、入り組み、袋小路に入ってしまっているようで、ちょっと覗いただけの人間の手に負える問題ではない、という印象だった。
 ただ、問題の入り組み捩じれた構造を解きほぐし、整理し、見晴らしをある程度良くすることは可能だろう、とも思った。
 頭の「整理体操」をすることは、このブログの目的のひとつである。「ストレッチング」のコツは、無理をせず、「心地よい痛み」を感じる程度に筋肉を伸ばすところにあるが、頭のストレッチングが思考のコリをほぐし、元気を回復するのに役立つかどうか、試してみることにする。
 【なお以下の記述は、意見にかかる部分を除き、『靖国神社』(赤澤史朗 2005年)、『靖国問題の原点』(三土修平 2005年)、『靖国問題』(高橋哲哉 2005年)に拠る。】

▼明治2年、新政権の樹立のために犠牲となった者を、天皇の忠臣として祀る招魂場が九段に創設された。この招魂場が「東京招魂社」という名で正式に神社となり、明治12年に「靖国神社」と改称された。
 官軍の戦死者の功績を顕彰し慰霊することが、靖国神社の目的だった。したがって祀られた神は官軍の戦死者であり、旧幕軍の死者や西南戦争の「賊軍」の死者は祀られていない。
 神社の例大祭も当初は、13日(鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破った日)、515日(上野で彰義隊を破った日)、518日(函館五稜郭が降伏し戊辰戦争が終結した日)、922日(会津藩が降伏した日)の4回と定められた。(例大祭はのちに日露戦争の凱旋記念日に変更され、戦後はそれが平和国家にふさわしくないとして、さらに変更された。)
 戦前の靖国神社は他の神社と異なり、陸軍省を中心とする軍の管理下にあり、陸海軍が祭式を取り仕切った。祭神は、軍が霊璽簿という名の名簿を天皇に上奏し、その裁可によって合祀を決定するという形をとっていた。 

神社神道の「神」は、山や川などの自然を神格化したもの、天孫降臨神話によって天皇と血続きとされるもの、歴史上実在の人物が没後しだいに神格化されたものなど、雑多である。が、没後間もない人間が神社の神に祀られるのは、恨みを残して敗死した者を祀る「御霊信仰」を除けば従来は例がなかったという。
 また「合祀」という形で祭神を増やしていく神社も、日本の伝統にないものらしい。
 靖国神社は神社神道という日本伝統の形を取りながら、近代国家・日本の必要を満たすために新たに「発明」された施設であり、装置であったといえる。

 

▼敗戦後、靖国神社は重大な岐路に立たされた。日本の軍国主義の根が、天皇を中心に据えた祭政一致の権威主義的政治体制にあったとして、占領軍(GHQ)が国家と神道(宗教一般)との結びつきを禁じたからである。(「神道指令」1945年、「宗教法人令」1945年)
 靖国神社のあつかいについて三つの選択肢がありえた、と三土修平はいう。
 第は、靖国神社は軍国主義精神涵養のための政治的施設であり、宗教ではないとして、解散させる。
 第は、戦没者追悼の公的施設として、神道的形式を払拭した記念堂として、誰もがわだかまりなく追悼できる場として再出発させる。
 第は、神社としての側面をそのまま保持させる代わりに、政教分離の制度の下、民間の施設として存続させる。
 GHQは日本政府の意向も聞き、第3案で靖国神社が存続することに同意した。靖国神社は「公共的なもの」であることを捨て、「一宗教」であることを選ぶことによって、存続を許されるだけでなく、「信教の自由」の原則の下、その祭祀儀礼や思想内容を保護されることになった。
 「今にして思えば」と、三土はいう。第2案が採用されて、神道的宗教性を払拭する形で記念堂としての靖国神社が存続したなら、「戦没者は公務に殉じたのだから、国家が公的に顧慮してほしい」という人々の穏健な願いも満たされ、その後の「靖国問題」の紛糾も起こらなかっただろう、と。
  しかしその道は選択されなかった。靖国神社の戦後史は、「一宗教」となることで存続を許された靖国神社が、ふたたび「公共的なもの」であることを主張し、「公共性」を奪還しようとする過程として見ることができる。

 なお靖国神社に祭られている死者は、公表されている「戦没事変別合祀祭神数」によれば、次のとおりである。

 明治維新 7、751柱

 西南戦争 6、971柱

 日清戦争 13、619柱

 台湾征伐 1、130柱

 北清事変 1、256柱

 日露戦争 88、429柱

 第一次世界大戦 4、850柱

済南事変 185柱

満州事変 17、176柱

支那事変 191、250柱

大東亜戦争 2、133、915柱

合計 2、466、532柱 (平成16年10月17日現在)

(つづく)

▼戦後日本の知的風潮と社会の空気を特徴づけるものは、独特の「平和主義」である。
  日本人は太平洋戦争の敗戦体験から、「戦争はもうコリゴリだ」、「二度と戦争はしたくない」という強い思いを引き出した。戦没学徒の手紙や手記が編まれ、「わだつみの思い」を継承することの大切さが語られた。
 非武装を定めた「平和憲法」が支持され、「反戦平和」運動が一定の共感を集めたのは、この強い思いからだったし、60年代初めまで社会に流れていた「社会主義」への親和感が、この思いと関連性を持つことも明瞭だった。
 独特の平和主義と書いたが、戦争をしたこと自体に罪を感じ、軍事力を持つことを否定するにいたる「平和主義」は、政治的というよりは宗教的な色合いが濃いと評することもできよう。
 広島平和記念公園に建てられた原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という碑文が刻まれた。「誰の犯した過ちか」、「過ちは繰り返させませんから」とするべきではないか、という議論が当初よりあったが、「平和主義」の立場からは「人類全体の誓い」として、矛盾なく納得されるのである。 

 戦後の靖国神社も、日本社会の空気と無関係ではなかった。宮司が陸軍大将出身者から軍歴のない宮家の出身者(筑波藤麿)に替わり、靖国神社の「目的」も、国事に殉じた御霊を祀ることに併せて、「遺族慰謝の方途を講じ、以て平和醇厚なる民風を振励する」こととされた。
 靖国神社社務所の発行する社報『靖国』をていねいに読み込んだ赤澤史朗によれば、祭神である「殉国」者を平和の為の尊い犠牲者と捉える記事が、多く書かれているという。「殉国」者を「平和の礎石」として位置づけ、理解しようとする考え方、つまり「平和主義」的な考え方が、靖国神社でも主流の位置にあった。
 しかし《「殉国」と「平和」への献身という戦没者に関する二つの意義づけは、そう簡単には一致しないものであろう。(中略)この戦後初期の靖国神社の平和主義への転向が、十分に自覚的に行われていないことが、後の靖国神社とそして遺族会の、なし崩しの再転向を招く基盤となるのである。》(赤澤史朗)

 

▼前回触れたように、戦前、靖国神社は陸海軍省の管理する施設であり、戦死者の「合祀」決定の事務は陸海軍省が行っていた。
  戦後、国家神道が廃止され、靖国神社が一民間施設となり、軍も消滅すると、「合祀」も靖国神社が自主的に調査し決定することが必要になる。また従来の合祀基準を踏襲するだけで良いのか、という問題も発生してくる。「合祀基準の最大の要素たる『殉国』の意味」を再検討するために、神社内に諮問機関を発足させる動きもあった。
 しかし結局、新たな合祀基準が作られることはなかった。赤澤によれば、靖国神社は明治天皇の聖旨に基づき創設された神社だから、前例をむやみに変更することはできないという意識があったためだが、それにもまして大きかったのは、合祀や慰霊に何らかの形での公的・国家的性格を残したい、という意思が働いたためだという。
 戦地からの軍人の復員や戦死公報の発行の業務は、厚生省が陸海軍から引き継いでいた。そこで靖国神社では、厚生省による戦死の確認に基本的に依存して合祀を行うことになった。
 戦後日本の社会では、「殉国」ということの意味について価値観を転換する議論が行われていた。赤澤の引用するところによれば、作家の杉森久英は靖国神社が祀る「国事殉難者」について、次のように書いた。(1953年)

 「『国家の為に非情の死を遂げた人』という基準を立てたとする。梅田雲濱や吉田松陰がそれに当たるなら、幸徳秋水や小林多喜二はそれに当たらないのであろうか。帝国軍人に殺された犬養毅は、国事に倒れたのではないのか」。

 杉森久英は、実際に幸徳秋水や小林多喜二を合祀せよと言っているのではない。明治政府と旧陸軍が立てた合祀基準は、戦後の社会に通用しないだろうと皮肉っているのである。しかし靖国神社は、戦後社会のこうした反発を受け止めることができなかった。

 

▼1950年代の靖国神社国家護持論は、戦死者の合祀を推進するための調査や経費を、国家が負担するべきだという議論として登場した。しかし当初政府は、政教分離の建前(憲法20条)からそれを拒否し、憲法89条の規定により合祀への財政援助は認められない、と主張した。(しかし厚生省は、1955年に引揚援護局長通牒により合祀事務に協力することになった。)
 1960年代になると、社報『靖国』にも、戦前の国家体制と戦争を全面的に肯定し、靖国神社の国家護持を追及すべきだという主張が載るようになった。
 1964年、戦没軍人軍属の叙位叙勲が再開され、戦時下の基準に基づき、あらためて死者の顕彰が行われた。
 1969年、自民党が靖国神社国家護持法案を上程。しかし宗教界を中心とした反対運動が急速に広がった。
 1973年5月、衆院法制局が「靖国神社法案の合憲性」と題する文書を提出した。靖国神社の宗教性を希薄にすることができるなら、国家護持は憲法違反にならないとしたうえで、「祝詞」は「感謝の言葉」に変え、「修祓の儀」「御神楽」は別形式にする、「降神、昇神の儀」は止め、「拝礼」は形式を自由に、神職の職名を変更、鳥居の名称も検討すべきだ、というものであった。靖国神社も国家護持運動を進めてきた団体も、これに強く反発。
 1973年6月、衆議院を強行採決で通過した法案は、参議院で審議未了・廃案となった。

 

(つづく)

▼靖国神社の「国家護持法案」が廃案になった後、「国家護持」を求めた人びとは運動の目標を、首相や天皇の「公式参拝」の実現に転換することになった。「国家護持」に対する反対運動が国民の間にあるだけでなく、憲法の制約が厳しく、自分たちの望む形で「国家護持」を実現することは、きわめて困難であると考えざるを得なかったからである。
 首相の靖国参拝は、戦後前例がないわけではなかったが、1975年に三木首相は現職首相としては初めて8月15日に靖国参拝を行った。しかし三木は、当日の日本武道館での全国戦没者追悼式は「公人として」の行為であるが、靖国参拝は「一私人として」、個人の信教の自由の範囲内の行為だと説明した。マスメディアではこのあと、靖国神社を訪れる閣僚に向かって「公人ですか、私人ですか」と問うことが慣例となった。
 内閣法制局は天皇の靖国参拝について国会で質問され、憲法20条第3項(国及びその機関は、……いかなる宗教的活動もしてはならない。)に直ちに違反するとは言い切れないが、違憲の疑いが払拭できない旨の答弁を行った。 

  靖国神社の公式参拝を追及する人々は翌1976年、日本遺族会などを中心に「英霊にこたえる会」を結成した。それまでの運動は、遺族や戦友といった靖国の祭神の有縁者によって担われていたが、それをより広い国民的基盤を持つものとする趣旨であった。そして地方議会に働きかけて「公式参拝」を要望する意見書を採択させ、中央を包囲する運動を進めた。
  1981年には「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が結成され、公私の別を言わぬまま大挙して参拝する示威行動が、年中行事として見られるようになった。

 中曽根首相が「公式参拝」を行ったのは、1985年である。中曽根は「憲法問題」をクリアーするために官房長官の私的諮問機関を発足させ、「政教分離原則に抵触しない何らかの方式による公式参拝の途があり得る」という報告書を受け取る。参拝の形式を神社が定める「二礼、二拍手、一礼」ではなく、自己流の一礼で済ますことで、報告書にいう「政教分離原則に抵触しない何らかの方式」となると中曽根は考え、「内閣総理大臣として」参拝したのであった。
 しかしこの「公式参拝」は、日本国内から批判の声が上がっただけでなく、「A級戦犯合祀」との関係で中国からも批判がなされ、にわかに外交問題となった。

 

▼ここで「A級戦犯合祀」の問題について、経緯を見ておこう。
 いわゆる「A級戦犯」とは、「東京裁判」で訴追され、「平和に対する罪」で有罪を宣告された戦時日本の戦争指導者のことである。28人が起訴され、梅毒により訴追免除された者と判決前に病死した者を除く25人が有罪とされ、内、東条英機ほか7人が死刑となった。平和に対する罪とは、侵略戦争の計画、準備、開始、実行のための共同謀議への参加を内容とするが、「事後法」でひとを裁くことや国家の行為に対して個人の責任を問うことなど、裁判の法的正当性については議論が少なくない。
 靖国神社はBC級戦犯刑死者・獄死者について、1959年から1968年までの間にすべて合祀を行った。BC級とは「通例の戦争犯罪」と非人道的行為、迫害行為などの「人道に対する罪」である。

しかしA級戦犯に関して神社側は、「東条元首相を祭神にすることについては世間でも異論があると思う。デリケートな問題を含んでいるので各方面の意見を参考にしてゆっくり方針を決めたい。」(1957年)という態度であった。60年代後半に厚生省からA級戦犯の祭神名票が送られたが、靖国神社では合祀を見送った。
 靖国神社がA級戦犯の合祀を行ったのは、合祀に慎重な筑波宮司が亡くなり、松平永芳宮司に替わった1978年である。松平宮司は幕末の福井藩主・松平春嶽の孫であり、海軍少佐で敗戦を迎え、戦後は陸上自衛隊に勤務した経歴を持つ。陸上自衛隊退職後に福井市の郷土歴史博物館の館長をしていた松平が、神職の資格を持たないにもかかわらず靖国神社の宮司になったのは、「英霊にこたえる会」会長の石田和外(元最高裁長官)などが強力に推した結果であった。 

松平宮司も、彼を推した石田和外や靖国神社総代の青木一男(参議院議員)も、東京裁判を否定し、戦後の誤った歴史観を正さなければならないという考えを共有していた。
 《日本を弱体化する占領政策の結果、愛国心も国家観念も抹殺されて誤まった民主主義の思想が横行するようになりました。》(青木一男)
 《東京裁判はお芝居、一人一人に言いがかりをつけて裁かれた。戦犯は心から尊敬すべき方々》(石田和外)
 松平は、「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という『東京裁判史観』を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。」と、宮司退任後に述べている。(以上『靖国神社の祭神たち』秦郁彦 2010年 から引用)

  松平は推薦者たちの期待に応え、宮司就任早々にA級戦犯の合祀を行い、「戦犯死没者」の名で祀られていたBC級と併せ、「昭和殉難者」の呼称に変えた。
 合祀のニュースが報道されたのは、神社側が伏せていたために、半年後の1979年であった。

(つづく)

▼日本の社会における神道(神社)と政治・行政とのあいまいな結びつきを批判する人たちは、60年代半ばから憲法裁判に訴えるという行動を採りはじめた。津地鎮祭訴訟、山口自衛官合祀訴訟、箕面忠魂碑訴訟などがそれである。

 津地鎮祭訴訟は、津市が体育館建築時の地鎮祭を公費で行ったことに対し、政教分離を定めた憲法に違反するとして関係市民が訴えた裁判である。原告・被告双方が著名な学者を鑑定人として申請し、宗教とは何か、政教分離規定の意味は何か、を根本から問い直す裁判となり、注目された。高裁で違憲判決が出されたあと最高裁では合憲、つまり公費の支出は正当だとする判決が出された(1977年)が、その論理は次のようなものだった。
  憲法の「政教分離」の規定は、国家と宗教の分離を制度として保障することで、間接的に「信教の自由」を確保しようとするものである。国家と宗教のかかわりは一律に禁止されるのではなく、信教の自由の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えた場合に違憲となる、と考えるべきだ。憲法の禁止する「宗教的行為」に当たるかどうかは、その行為の外形的側面だけでなく、当該行為を行う意図や目的、当該行為に対する一般人の受け止め方や一般人に与える効果、影響など諸般の事情を考慮し、社会通念に従って客観的に判断されなければならない。
 「本件の地鎮祭」は、宗教と関わり合いを持つものであることは否定しえないが、その目的は建築着工に際して土地の平安堅固、工事の無事安全を願うという世俗的なものであり、その効果は神道を援助、助長したり、他の宗教を圧迫し、干渉を加えるものとは認められない。したがって憲法で禁止する「宗教的行為」には当たらないと解するのが相当である。―――

 要するに、憲法の「政教分離」の規定は単に「外形的側面」だけから考えるのでなく、行為の目的と効果を勘案し、社会通念に沿って判断しなければならないとされたのである。この「目的・効果基準」の考え方は、その後の裁判の通則となった。

 

▼靖国神社への首相や天皇の公式参拝を求める運動が高まった80年代に、岩手靖国違憲訴訟と愛媛玉串料訴訟が起こされた。前者は、岩手県議会が決議した「天皇・首相の公式参拝要望意見書」は違憲・無効な決議であるから、その意見書を作成して東京に運び、内閣や衆参両院に提出した行為に費やされた公費は、県に賠償しなければならないと住民が起こした訴訟である。
 仙台高裁は原告の損害賠償請求を棄却する一方、判決理由書の中で「公式参拝」は違憲と判断し、違憲の行為を国に求める決議をし、意見書を提出したことも違憲だとの判断を示した(1991年)。この判決は原告住民の主張を実質的に支持したものだが、損害賠償請求を認められず形式的に敗訴した原告が上告しなかったため、裁判としては確定することになった。

 後者の愛媛玉串料訴訟は、愛媛県が80年代に靖国神社と護国神社に捧げた玉串料などを公費支出したことは違憲であるとして、やはり住民が起こした訴訟であるが、最高裁は違憲という判決を下した。(1997年)
 仙台高裁も最高裁も、津地鎮祭訴訟の最高裁判決で示された考え方(いわゆる「目的・効果基準」)にそれぞれ依拠しつつ、靖国神社の「公式参拝」や玉串料奉納が違憲であるとの判断を出したことは、現在の憲法の下では「公式参拝」はきわめて困難と結論が出されたといえるだろう。

 しかし多くの国民は、一連の靖国訴訟の顛末を聞いても、釈然としないのではなかろうか。彼らはこう考えるだろう。―――なるほど憲法解釈上、靖国神社の「公式参拝」は違憲の疑い濃厚だということは判った。しかし問題はそういうことではない。戦没者を追悼したい、追悼するべきだという自分たちの思いに、裁判はなにひとつ触れていないし応えようとしない。―――
 だから小泉首相が2001年に靖国神社公式参拝を行い、次のように発言したとき、国民の反応は意外に好意的だったのではないか。

「戦没者にお参りすることが、宗教的活動といわれればそれまでだが、靖国神社にお参りすることが憲法違反だとは思わない。宗教的活動だからいいとか悪いとかいうことではない。」(衆議院予算特別委員会での発言)

 もちろん「きわめて没論理的」で、「憲法擁護義務を負う一国の政治指導者の発言とは思えない」、「憲法違反とは思わないと一方的に断言して靖国参拝を繰りかえすのは、三権分立に対する公然たる挑戦」だ、という批判はあった。しかし国民の「常識」と関心のありどころに沿って「無手勝流」で行動し発言する小泉にとって、細かな憲法解釈論議などおよそ価値のないものに見えたことだろう。そしてその内容に賛成するか否かは別として、国民の多くは自分たちの問題意識に応える発言だと受け止めたことだろう。
 靖国神社問題の主戦場は、近代日本の戦争と靖国神社の歴史を考え、戦没者を国家として(国民共同体として)追悼することについて考察するところにあるのであり、憲法解釈問題に矮小化できるものではないのである。

 

(つづく)

▼話がA級戦犯の合祀や靖国をめぐる憲法裁判の問題に拡がったので、ここで議論を中曽根首相の1985年に行った靖国神社「公式参拝」に戻したい。中曽根の公式参拝は、国内から批判の声が上がっただけでなく中国政府が強く反発し、にわかに外交問題となったと先に述べた。
 中国政府の主張は、靖国神社への「公式参拝」が日中友好の精神に背き、過去の「日本軍国主義」を肯定し、侵略戦争の認識をあいまいにする点を問題にするものだった。そして靖国神社がA級戦犯を合祀している点に批判の焦点を絞り、「公式参拝」の取りやめを正式の外交課題として取り上げるようになった。
 中曽根首相は靖国神社からA級戦犯を「分祀」することを画策し、A級戦犯の遺族が自主的に合祀の取り下げを神社に申し出るよう働きかけたが、同意が得られず、靖国神社にも「分祀」を拒否された。

翌年8月14日、後藤田官房長官は談話を発表し、今年は首相の靖国神社公式参拝は行わないと述べた。前年の「公式参拝」の目的は、あくまで祖国や同朋のために犠牲になった戦没者一般の追悼と平和への決意であり、毎年実施するような「制度化されたもの」ではない、というのがその説明だった。そして首相の「公式参拝」が、「我が国の行為により多大の苦痛と損害を被った近隣諸国の国民の間」から、過去の「我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して拝礼したのではないかとの批判を生み」、平和友好関係を損なうものとなるので、中止すると述べた。つまり中国政府からの批判を全面的に中曽根政権は認め、受け入れた。
 中曽根康弘は後にこの理由について、「我国の内外の情勢を怜悧に分析した上で決断した」ことと、中曽根が親しかった「胡耀邦が私の靖国参拝で弾劾辞職させられる危険を感じたこと」をあげている。(『自省録』2004年)
  中国共産党内部の保守派によってその後失脚させられる胡耀邦の立場を慮ったという「理由」は、靖国神社公式参拝という国家の問題を判断する要素としてはいかにも弱すぎ、「後付け」の理由のように見える。靖国神社の「東京裁判否定」、「大東亜戦争肯定」という立場や主張と日本の国際関係を、中曽根が首相として「怜悧に分析」した結果、国際関係を靖国神社側の独善的な歴史観の上に開くわけにはいかないと判断した、ということなのだろう。

 A級戦犯を「分祀」しようという考えは自民党の政権と党の中にあり、その後も試みられたことはある。小渕内閣の官房長官だった野中広務は、「首相をはじめすべての国民が心から慰霊できるように」するために、靖国神社に「分祀」働きかけ、やはり拒否されている。
 靖国神社は一民間の宗教施設となったことにより、総理大臣の要請を拒否する力を持つとともに、首相や天皇の「公式参拝」を要請し、その実現を働きかける勢力に支持されることで、時の政治権力を超える存在となったとも言える。戦前は事実上、陸海軍の組織の一部であり、つまり国家の一機関に過ぎなかったのだが、戦後になって憲法で護られる独立の宗教法人となることで、政府の要請に耳を貸さず、独自の歴史観を持つ自由を享受し、悲願である「公共性」の獲得にも近づきつつあるように見える。

 

▼筆者は「歴史認識」を、政治問題にしたり外交問題にしたりするべきではないという趣旨のことを、これまでこのブログで何回か述べた。なぜならお互いの利益のために建設的な妥協点を探るべき政治・外交問題を、「宗教戦争」のようにお互いがあとに引けない「信条」のぶつかり合う問題にすることは、なにひとつ弁明の余地のない愚かな行為であるからだ。
 しかし靖国神社の問題を考えるとき、「歴史」の問題を避けて通るわけにはいかない。というよりも、「歴史認識」や「国家観」の問題が問題のすべてであるのだから、それを論じる者は同時に自分の「歴史認識」や「国家観」を問われざるを得ないということなのだ。

 議論をここまで進めてきた以上、先の戦争や国家共同体の慰霊の問題に関する筆者自身の考えを、述べておくことにしよう。
 まず先の戦争についてだが、一言で言えば「愚かな戦争」だったということに尽きる。

 国家指導者の誰もが「主体」としての自覚を欠いたまま流されていった「政治」や「戦争指導」の面でも、兵士の生命を軽んじ、戦没兵士の6割を広義の餓死に至らしめた「戦略・戦術」の面でも、愚かという以外に形容する言葉はない。その「愚かな戦争」の結果、焼夷弾による空襲や原爆投下により、無数の「難死者」が生まれたのだが、兵士たちは「愚かな戦争」を精いっぱい闘い亡くなった。
「愚かな戦争」の評価と、その戦争を立派に、あるいは嫌々ながら闘い倒れた兵士たちの慰霊とを、一つの行為で行うことの困難さが、靖国神社問題の根底にある。

 

(つづく)

▼日本人は68年前のあの戦争から、何を学んだのだろうか。
  戦争はイヤだ、もうコリゴリだ、という感想にとどまり、それで終わるとすれば、莫大な犠牲、亡くなった多くの命に見合わないあまりにも貧しい「学習」成果といわざるを得ない。先に戦後日本を特徴づける「平和主義」という言葉を使ったが、「主義」というには知的な検討を欠いた素朴な思いにとどまっており、「思い」というにはあまりにも堂々と主張されすぎたように思う。
 また、日本はヨーロッパの植民地になっていたアジアを解放した、日本は悪くない、と言いたがる人々に、不都合な事実を直視できない精神のひ弱さを見て取ることは容易である。どちらもあの戦争の貴重な体験から、何ほどのことも学ばなかったという点では同罪というべきだろう。

 自分の戦争体験を手放さず、あの戦争の意味を執拗に考え続けた人のひとりに、吉田満がいる。
 大正12年生まれの吉田は学徒出陣で海軍に入隊、昭和20年に「大和」に乗艦して沖縄特攻作戦に参加した。「大和」は撃沈されたが吉田は生還し、戦後、『戦艦大和ノ最後』を発表する。小林秀雄は「たいへん正直な戦争経験談だと思って感心した」と感想を述べ、三島由紀夫は「感動した。日本人のテルモピレーの戦を眼のあたりに見るようである。」と書いた。
 日本銀行に勤めながら、自分たちの世代の戦争体験の意味を言語化する文章を書きつづけ、昭和54年に肝不全で亡くなった。亡くなる直前に病院のベッドの上で書いた絶筆「戦中派の死生観」に、次の一節がある。 

《「故人老いず生者老いゆく恨かな」菊池寛のよく知られた名句である。「恨かな」というところに、邪気のない味があるのであろうが、私なら「生者老いゆく痛みかな」とでも結んでみたい。戦死者はいつまでも若い。いや、生き残りが日を追って老いゆくにつれ、ますます若返る。慰霊祭の祭場や同期会の会場で、われわれの脳裏に立ち現われる彼らの童顔は痛ましいほど幼く、澄んだ眼が眩い。その前でわれわれは初老の身のかくしようがない。
 彼らは自らの死の意味を納得したいと念じながら、ほとんど何事も知らずして散った。その中の一人は遺書に将来新生日本が世界史の中で正しい役割を果たす日の来ることをのみ願うと書いた。その行く末を見とどけることもなく、青春の無限の可能性が失われた空白の大きさが悲しい。悲しいというよりも、憤りを抑えることができない。》 

吉田満が靖国神社について、どのような考えを持っていたのか筆者は知らない。靖国神社で戦死した同期の慰霊祭を行う戦中派の人々は少なくなかったが、彼も「いつまでも若い」戦死者を追悼するために、靖国に詣でることを例としていたかもしれない。
 「国家の運命に殉じた人々にたいして、その思想の価値について議論することなく無条件にぬかずくという態度に、私は共感を禁じ得ないし、共感を持つことを悪いこととは思えない。」と鶴見俊輔は書いている。「戦争の目的を信じて国家に殉じたものへのたやすい忘却は、敗戦直後の平和思想を上滑りする性格のものにした。」とも書いた。(『平和の思想』1968年)。昔年の若者たちが、よく闘った仲間の慰霊に靖国神社に詣でることは、けっして貶められるべきことがらではない。

しかしそのことと国家の指導者が「公式に」参拝することとは、意味も性格もまったく異なる。国家の指導者の参拝は、靖国神社への公式の評価であり、その歴史観、戦争観への肯定的評価なのであり、亡くなった人々への追悼の意味だけだと言い逃れるわけにはいかない。

 

▼すでに述べたように靖国神社には戦後、民間の一宗教施設として国家とのつながりを手放す道と、宗教性を手放すことで公共的施設として残る道の選択肢があり、靖国は前者を選んだ。また、祭神の顕彰よりも、慰霊を通じて平和への思いを新たにする場所として捉えなおそうとする志向も、戦後の一時期存在したが、大東亜戦争肯定、東京裁判否定という戦前と変わらない姿に落ち着いた。「A級戦犯合祀」の経緯についても、すでに触れた。
 靖国神社が独自の歴史観による主張を持ち、彼らが否定する戦後の憲法によって護られている以上、靖国とは別に公的な慰霊施設を創ろうという考えも生まれる。
 政府は1963年から毎年8月15日に、全国戦没者追悼式典を日本武道館で行っている。追悼の対象を軍人軍属に限定せず、空襲犠牲者など民間の犠牲者にも広げ、宗教的儀式を伴わない形式での式典である。
 また国は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を1959年に設立した。戦後の遺骨収集によって戦跡地から持ち帰られた遺骨のうち、引き取り手のない数十万体を収めた合葬の墓である。当初は外国の無名戦士の墓に見られるように、安置されているのが一部の遺骨であっても全戦没者の象徴として受け止め、国が戦没者を追悼する際の中心的施設とする考えもあったというが、靖国神社の地位が危うくなるとして反発があり、そのような扱いの施設とはなっていない。(三土修平『靖国問題の原点』)
 小泉内閣は首相が靖国参拝を行う一方、官房長官の諮問機関をつくり、「追悼・平和祈念のための施設の在り方」についての報告を受けた。「国際平和の構築へと積極的な一歩を踏み出そうとしている今日、21世紀の日本は国家として平和への誓いを内外へ発信」するために、宗教施設ではない追悼・平和祈念施設を設けるべきだ、とする内容である。その施設は、個々の死没者を慰霊・顕彰する靖国神社とは趣旨や目的が異なり、また千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも異なるとされた。
 この報告書は靖国神社こそ追悼の中心と考える人々が反対の声をあげただけでなく、靖国神社に批判的な人々のあいだでも賛否が分かれる結果になった。

(つづく)

 

▼宗教施設ではない新たな「追悼・平和祈念施設」を設けるべきだとする報告書に対し、次のような反対意見があったという。いささか長くなるが、靖国批判の活動をする人たちの議論の問題点を見るために、紹介する。 

 ―――国による追悼は、どんな形でも必要ない。本当に追悼したいならばそれぞれの個人や宗派が、それぞれの場所でそれぞれの形で行えばいい。自分たちは「反戦」という立場で結集している。靖国問題を解決できればいいというのではなく、どうしたら戦わない世界が実現するか、という視点で考えなければならない。

 ―――国家が追悼施設をつくるということは、どこまで行っても国家が基準である。国のために死んだ者、尽くした者のみが、国家によって追悼され、慰撫されるというのは、「靖国」の論理構造そのものだ。つまり新追悼施設は「第二の靖国」に他ならない。

 ―――報告書は「国家としては歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはしない」として戦争責任に対する言及を避けているが、過去の侵略戦争と植民地支配に対する真摯な反省と謝罪なしには、いかなる「追憶と希望のメッセージ」も意味を持ちえない。

―――国家による戦没者の追悼は、国家のために死ぬこと、国家のために殺すことを、国家が最高の価値として国民に強要することになる。(以上、『戦争と追悼』菅原伸郎編著2003年 に拠る。) 

 「靖国問題」を論じた書物の中で高橋哲哉も「報告書」にふれ、「歴史認識」を曖昧にしていることや、「侵略戦争と植民地支配に対する一片の反省」もない点を批判している。そして次のように主張する。(『靖国問題』2005年)
 国家が軍事力を持つかぎり、国のために死んだ兵士の「追悼」は、彼らに「感謝と敬意」を捧げ彼らを国民の模範へと高める「顕彰」行為となる。つまり「追悼」するという行為が、国民を新たな戦争へ向かわせる行為となる。
 新追悼施設が新たな戦死者の受け皿とならないための条件は、国家が軍事力を実質的に廃棄することだが、日本は現在軍事力を保持している。だから《まずなすべきは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である。》―――

 

▼戦没者を追悼する公共的な空間をつくって欲しい、つくるべきだという、人びとのささやかな希望に比べるとき、上のような「批判」はおよそ不当な難癖のように見える。
 批判者の真面目さを疑うわけではないが、真面目であればあるほど新追悼施設は過剰な期待を背負わされ、その期待に応えないと非難され、「第二の靖国」に過ぎないと烙印を押される。 

 新追悼施設を「どうしたら戦わない世界が実現するか」という視点で考えなければならないという発言は、分かったようで分からない主張である。「戦わない世界」とは戦争のない世界という意味だろうが、戦争は現実政治の世界のできごとであり、追悼は個人の「魂」の世界に属する営みである。
 戦争の発生を抑えられるかどうかはまずもって現実政治の動きにかかるのであり、「追悼」とは直接何の関係もない。「戦争」を国民の意思の問題に還元しようとする傾向は、課題の巨大さ複雑さに比べてあまりにも安易であり、軽率であると思う。 

「過去の侵略戦争と植民地支配に対する真摯な反省と謝罪」を強調する言説にも、同様の錯覚と思い込みを感じる。過去の侵略戦争と植民地支配については種々の検討と反省がなされるべきだが、その「謝罪」は基本的には現実政治のレベルで行われるものである。侵略といい植民地支配といい、国家と国家のあいだで生じた問題は国家のあいだで解決しなければならないのであり、平和条約を締結し賠償を支払うという散文的な政治過程を通じて処理するしか方法はない。
 国家間の問題を個人の良心の問題であるかのごとく擬制し、個人で「責任」を引き受けたり「謝罪」することが可能であるかのように説く言説は、まやかしというしかない。 

 高橋哲哉の言う「まずなすべきは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である。」にいたっては、「ジェジェジェ!」という以外に言葉がない。それは戦死者の追悼というささやかな希望を抱く人びとに、日本が「非武装」国家でないことを理由に永遠の「お預け」を言いわたす行為だと言えよう。彼の視野には戦死者の姿はどこにもない。 

 彼らは次元の異なる問題を一つのサラダボウルに入れて混ぜ合わせ、「責任」や「反省と謝罪」というスパイスを振りかけて追悼する人びとの肩に背負わせることが、「誠実」だと考えているらしい。しかし筆者は、錯綜した歴史の事実を整理し、蒙昧の言説を分別し、現実的に可能な具体案を考えることこそが「誠実」だと考える。

 

▼「靖国神社に国家の代表者は参拝するべきかどうか」という問いを立てた場合、国民意識の上では戦没者追悼の中心施設は靖国神社であるから、「いろいろ問題はあるにしても、国に殉じた方々を国家の代表者がお参りすることは当然ではないか」という回答に導かれやすい。
 この回答に反発する人々は、大東亜戦争が侵略戦争であったことを理由に、戦死者の追悼自体を拒否し、国家の代表者による追悼を非難することになる。
 しかし上の問いは、問題設定自体に「虚儀」が含まれているというべきだろう。 国による戦没者追悼の場所は靖国神社しかないという暗黙の含意の下では、戦没者追悼の必要性を認めるかぎり、自動的に靖国神社への公式参拝を認めることに導かれるからだ。これは論理学でいう「虚偽の二分法 false dichotomy」にほかならない。
 正しい問いは、「『愚かな戦争』を戦い斃れた人びとを、われわれはどう追悼するべきか」というように設定されなければならない。そのような問いならば、われわれは追悼の場所として靖国神社がふさわしいかどうかを自由に考えることができる。
  靖国神社が「愚かな戦争」を支えた戦前の抑圧的社会体制や、批判的思考を封じた天皇制支配イデオロギーを含めて大東亜戦争を肯定する立場に立つ以上、筆者は戦死者を追悼する場所としてふさわしくないと結論付けるしかない。「愚かな戦争」を批判することなしに戦死者が讃えられるなら、彼らは浮かばれない。
 新追悼施設に関する「報告書」の内容は、懇談会内部の賛否両論に配慮した腰の据わらないものだが、靖国神社以外に国民追悼の場所を考えるという方向性は妥当なものと考える。

(つづく)

 

▼さて本稿・「『靖国』を考える」も、書き始めたときの予想の倍の長さになってしまったので、論じ残した問題に簡単に触れながら、そろそろ店じまいにしたいと思う。
 これまで取り上げていない問題の一つは、総理大臣の「靖国参拝」に対する中国政府の反発、非難の問題である。結論を先取りしていえば、これは外交的には大きな問題だが、戦没者追悼の問題としては小さな事件に過ぎないと筆者は考える。
 対中国外交の第一線で苦闘し、病魔に倒れた外務官僚・杉本信行は、その遺著で「靖国参拝」問題について、次のように書いている。長い引用となるが、そのまま紹介しよう。(『大地の咆哮』2006年)

  《なぜ中国側が日本の総理大臣の靖国神社参拝にあれほど反発するのか。私はマスコミを含めて日本側はきちんと理解できていないのではないか、という隔靴掻痒の思いを禁じえないでいる。(中略)
 中国側の主張は明確だ。A級戦犯が祀られている神社への日本国総理による参拝が、日中国交正常化の前提を崩すものであると考えているからである。
 国のために戦った兵士をその国の最高指導者が慰霊すること自体は、中国共産党の指導者たちも理解しており、なんら批判的な意見を述べていない。少なくとも現状では、B・C級戦犯について問題にする動きもない。
 中国がA級戦犯にこだわる理由は、七二年の日中国交正常化の際、当時の中国国民には認めがたい条件で交渉が進められたことと密接に結びついている。
 とくに賠償放棄は、戦争犠牲者の親族・縁者がまだ多く生き残っていた中国で、本来ならば国民の支持を得ることは難しい問題だった。
 しかし当時は、毛沢東や周恩来といった強烈なカリスマ指導者がそれを可能にした。このとき周恩来が国内に向けて行った説得が、「先の日本軍による中国侵略は一部の軍国主義者が発動したものであり、大半の日本国民は中国人民同様被害者である」という理屈だった。
 この対中侵略を指導した「一部の軍国主義者」であるA級戦犯を首相が参拝するとなれば、「七二年当時の日中国交正常化のロジックが崩れてしまう」というのが中国側の主張である。
 つまり、靖国への首相の参拝を見過ごせば、国内向けに行ってきたこれまでの説明が破綻し、党・政府が苦しい立場に追いやられるというわけだ。》

 

▼なぜ、そのように中国国民が認めがたいような寛容な条件で、毛沢東と周恩来が日本と国交を回復しようとしたのか。
 杉本は、「おそらく賠償問題を解決しようとすれば、国内の調整は不可能に近かっただろうし、それよりも賠償を放棄することで、日本に歴史的な負い目を抱かせて、後に国益に結びつけるほうが得策と考えたのだろう」という。筆者は中国側の計算の中には、蒋介石が抗日戦勝利宣言の演説で「以徳報怨」を言い、日本軍と民間日本人の大陸からの復員、引き揚げが速やかに行われるように対応した事実なども、入っていたのだろうと想像する。
 しかしどのような事情が中国側にあり、その事情に照らして日本の首相の靖国参拝が遺憾だったとしても、戦死者の追悼に異議を挟むことが内政干渉であることは確かである。内政干渉は日本国内に反発を生み、「A級戦犯合祀」や「公式参拝」を疑問に思う人々のあいだにも、中国政府への反感が広がった。戦死者の追悼をめぐる議論は、それだけでも十分複雑なのに、外国からの内政干渉とそれへの反発が加わり、問題解決の糸口さえ見いだせない八方ふさがりの状態に陥った。中国政府および中国人に対する嫌悪感は蓄積され、反発は靖国神社へのひそかな声援となって広がっているように見える。 

 杉本信行は、無名戦士の骨を納めている千鳥ヶ淵戦没者墓苑を、外国の「無名戦士の墓」に相当する場所とするのがもっとも良いのかもしれないとしながらも、国民からそのように認知されていない現状を見れば、新追悼施設の建設も含め、現実的な解決方法にはならないだろうと考える。
 外国からの内政干渉により靖国神社への参拝を中止したとなれば、国民の屈辱感は今後の大きな禍根となるし、「A級戦犯分祀」も困難だとしたら、どうしたらよいのか。
 杉本の考えは揺れ動き、靖国神社から大東亜戦争を肯定する主張を抜いて国民追悼施設とすることなど、解決方法を必死で模索しているが、成功しているとはいえない。戦死者の追悼という国民意識、国民感情に深くかかわる問題を、理屈で捌こうとしても、どうしても余りが生ずる。

  2012年9月、尖閣諸島の「国有化」問題をきっかけに、日本と中国の対立は新たな段階に入った。
 日中間に「誤解」があるから対立するのではない。国家間に利害の対立があり、中国政府が外交方針を、鄧小平の掲げた「韜光養晦」(劣勢時には才能を隠して低姿勢を保ち、時を待つ)から、大国としての自己主張を強める方針へと転換しつつあることの顕れと考えられる。「靖国問題」も日本攻撃の材料としての性格をいっそう強め、安倍首相が今年の秋の例大祭で参拝をせず、真榊奉納にとどめたことにも、評価する言葉よりも批判の言葉を投げた。

 

(つづく)

▼前回はいささか言葉足らずで終わったようなので、少し補足しておく。 

 中国政府は2012年9月以降、尖閣諸島付近に船舶や軍の偵察機を接近させては、「現状を変更して緊張を高めているのは日本」だと強弁し続けている。彼らは領土問題をめぐる紛争が存在するという既成事実をつくり上げようとしているのだが、彼らの行為が、経済政策を別にすれば必ずしも国民に政策を強く支持されているわけではない安倍政権への、最大の支援となっていることは強調する必要がある。
 「靖国参拝」問題も然りであり、中国政府が力を背景に国際秩序の変更を強引に押し進め、その一環として「靖国」非難の声を高めるならば、安倍首相は安んじて参拝を実行する日が来るに違いない。
 そのことが外交的にどの程度大きな事件となるのかは分からないが、そもそもの問題、つまり日本人は戦没者追悼をどのように行うべきかという本質的な問題については、そのことで解決に少しも近づくわけではない
 中国政府の反発・非難は、戦没者追悼の問題としては小さな事件に過ぎないと筆者がみなす理由である。

 

▼最後に筆者が引っかかる問題をひとつ挙げて、本稿を終えることにする。靖国神社は死者を遺族の意思とは無関係に祀り、妻や兄弟などが合祀をやめて欲しいと申し出た場合にも聞き入れない、という問題である。
  この問題は直接靖国神社が被告となったものではないが、「山口自衛官合祀訴訟」でも問われている。
 ある自衛隊員が公務中に事故死し、出身地の山口県自衛隊隊友会は県の護国神社に合祀申請をしようとした。それを知った妻は、キリスト教徒としての信仰から合祀を断わったのだが、隊友会は申請を強行して合祀を実現した。このことについて妻は、隊友会と国の違憲性を裁判で問うたのである。
  地裁、高裁は原告勝訴としたが、最高裁は「異なる信仰の共存と宗教的寛容」を理由に、原告を敗訴とした。(1988年)。妻の訴えを、自己の信教ないし信条の自由を振りかざして他者の信教の自由を無視する行為とみなし、それは認められない、と判断したのである。 

 靖国神社に対する合祀取り消し訴訟は、21世紀に入り相次いで起こされたが、いずれも敗訴している。誰を祀るかを決めるのは靖国神社の宗教的自由であり、感情的に不快であるからといってその取り消しを求めることはできない、という理由である。
 なぜ靖国神社は遺族の同意を得ずに祀ってもよいと考えるのか、訴訟の中で靖国側は次のように言う。「国のために亡くなられた方々をお祀りするのが創立以来の伝統であるから、その伝統に基づき遺族の同意を別に求めず合祀を行っている。」
 要するに「そういう伝統だ」ということに尽きるのだが、法律的には「祀られたくない自由」を遺族が主張するのに対し、靖国側は「祀る自由」を主張し、「祀る自由」の主張に軍配が挙げられているのである。
  しかし「追悼」という行為が、個人的なものであるとともに「共同体的」なものであるとしても、故人に対する思いの「重さ」や「深さ」は比較にならないだろう。神社側に基本的に「祀る自由」があるとしても、遺族からの申し出があれば取り消しに応ずるべきだとするのが、現代の市民感覚であるように思う。

 

▼太平洋戦争では台湾・朝鮮からも義勇兵として、また戦争末期には徴兵令により、軍人・軍属が出征した。台湾人の戦死者は約3万人、朝鮮の戦死者は約2万人であり、その多くが靖国神社に祀られている。
 この合祀の事実が外部に知られたのは1977年以降だが、それ以降、合祀取り消しを求める訴訟が遺族を中心に起こされた。しかし靖国神社はこれを拒否した。「戦死した時点では日本人だったのだから、死後日本人でなくなることはありえない。……内地人と同じように戦争に協力させてくれと、日本人として戦いに参加してもらった以上、靖国にまつるのは当然だ。台湾でも大部分の遺族は合祀に感謝している。」(1978年 池田権宮司) 

 「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が1952年につくられ、遺族年金が支給されるようになった日本人戦没者とは異なり、戦後日本国籍を離れた台湾・朝鮮の軍人・軍属戦没者については、日本政府からわずかな一時金以外は支給されていない。
 日本人として亡くなったのだから遺族が反対しても靖国には合祀する、しかし日本国籍を失ったのだから年金は支給しない、という理屈は、それほど説得力のあるものではない。日本兵士として戦死したのだから遺族年金は支払う、しかし日本国籍を離れた人びとなのだから靖国には祀らない、という逆の整理の仕方も同様に成り立つように見えるからだ。

 

▼靖国問題をここ2か月ほどのあいだ論じてきたが、自分の考えが前に進んだという気はあまりしない。
 それはひとつには、「宗教」という筆者の苦手な分野に関わる問題だからでもあるが、同時に日本の近代史・現代史の評価の問題でもあり、国際政治の問題にも関わるとともに人間の生き方の問題でもあるという、問題の多面性、複雑性のせいであるだろう。
 「東京裁判」が対象とした一連の「戦争」も、すでに終了してから68年が経過した。吉田満のように直接戦争を担った世代がすでに幽明境を異にしただけでなく、「少国民」として戦中戦後の生活を知る世代も消え去ろうとしている。
  筆者も含め「観念」でしか戦争を知らない世代が、もろもろの判断の責任を負わなければならないのだが、われわれの歴史認識、国際政治認識の成熟度が試されると言い換えることもできる。それは、かっての悲惨にして貴重な経験からどれだけ多くのものを学び取ったのか、に懸っているように思われる。

 

(おわり)


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