4月7日(水)曇 【グラナダ➞バルセロナ

 ホテルからタクシーでグラナダ空港へ行き、11時10分発の飛行機に乗る。今回もLCCの一つ、SPANAIRである。12時30分バルセロナ空港到着。リムジンバスでカタルーニャ広場へ行き、そこからタクシーで地下鉄ジャウマ・プリメ駅そばのホテル(Hotel H10Montcada)へ。ゴシック地区と呼ばれるバルセロナでもっとも古い地区の一角である。
   

 ホテルで一服後、さっそく街に出る。カタルーニャ自治政府庁舎とバルセロナ市庁舎が向かい合うサン・ジャウマ広場を西へ抜け、ランブラス通りに出る。通りは多くの観光客や大道芸人でにぎわっていた。
   

 サン・ジュゼップ市場をのぞく。時間が遅いので店じまいをしたところも多い。市場の奥に大衆食堂が何軒かあり、カウンターの大皿に料理を並べ、客はあれこれ指差して注文している。そのうちの一軒の椅子に腰掛け、料理を3種類ほどと生ビールをとり、昼食とする。昼食には遅い時間なのだが、観光客の団体がいくつも背後を通り、椅子に座った客の後ろに次の客が立つ。落ち着かないからいやだと妻が言い、早々に出る。
 来た道を今度は東に向かって歩き、ピカソ美術館に行く。ここも観光客が多かった。
 この美術館が収蔵・展示するパブロ・ピカソの作品は、主としてその青少年期と晩年のものであり、キュービズムという運動を創出した20代半ばから30代前半のものはほとんどない。ピカソ専門の美術館を名乗るには、作品の量質ともに残念ながらかなり貧しい、と評価しなければならない。しかし、青年ピカソがかって暮らしたバルセロナのゴシック地区にあるという立地条件のおかげで、多くの観光客が押し掛ける。
 帰途、食料を買い込み、夕食とする。

4月8日(木)曇  【バルセロナ】

 9時に地下鉄でサグラダファミリヤ(聖家族教会)へ行く。すでに多くの観光客が入り口に列を作っていた。入り口近くの「生誕のファサード」を見上げる。イエスの誕生を人々が囲んで拝し祝う物語を写実的な彫刻で表現し、そのまわりを植物が繁茂するデザインで埋めている。
   

 反対側にまわり、「受難のファサード」を見る。イエスの磔刑とそれを嘆く人々をメインテーマに、十字架を背負い歩かされるイエスや兵士、イエスの亡骸を囲んで泣く女たちなどの彫刻が掲げられていた。生誕のファサードのゴテゴテした感じの彫刻群に対し、こちらはナタで荒削りしたようなスッキリした感触の彫刻である。人々の嘆きや祈りを表すにふさわしいと、感銘を受ける。なぜか香月泰男の、シベリア抑留をテーマにした絵を連想した。
   

 エレベーターで上に登る。サグラダファミリアの視覚的象徴ともいえる紡錘型の鐘楼が目の前にならび、その向こうにバルセロナの街が見えた。建築途上の教会の上で鉄筋がいく本も突き出し、クレーンが幾台も動いている。眺望を楽しみながら、らせん階段を下りる。
   

 教会内部を見る。細い円柱が林のように立ち並び、それは上に行くにしたがい枝わかれし、天井を支える形になっている。受難のファサードのスッキリした彫刻群に一脈通じる、斬新なデザインだと感じた。


 地下鉄を乗り継ぎ、グエル公園に向かう。レセックス駅で下車し十分ほど歩く。表通りから左に曲がり、ひと気のない坂道を登り、高台にある公園の西の入り口から入った。
 公園は緑豊かな広大な敷地の中に、丘の高低差を巧みに織り込んで施設を造形している。斜面の段差を利用して半開放のトンネルをつくり、これが土留(どど)めを兼ねた通路となり、また渦巻き模様のオブジェともなっている。
   

 中央の広場は見晴らしの良い位置にあり、ここからバルセロナの街が見渡せた。しかしこの広場は人工的に空中にこしらえたもので、ギリシャ神殿のような何本もの太い柱が下でこれを支えている。広場の縁には、色鮮やかなタイルのモザイクで彩られた長椅子のような縁取りが、囲むように続いている。
   

 公園は、多くの観光客と大道芸人で賑わっていた。賑わいすぎていたという方が正確かもしれない。人の多さに疲労を感じ、昼食をグラシア通りの界隈でとろうと、急いで帰ることにした。来た道を戻るのが確かだと考え、公園の西口から出、ひと気のない坂道を下る。

 突然、フェルトの帽子の上で、コップの水をぶちまけたようなバサッという音がした。立ち止まり、帽子をとって見ると、緑色の鳥の糞のような流動状のものが飛び散っている。辺りを見回したが鳥の姿は見えない。鼻を近づけると、酢のような臭いがした。
 中年の女性がティッシュペーパー片手に近寄ってきたので、それをもらい帽子を拭く。彼女は私のウインドブレーカーにも付いているといって、背中をぬぐってくれる。妻のエナメルのコートの背中にも緑色の糞状のものは、べったりと付着していた。女性は、上着を脱いだほうがよい、というようなことをいう。しかし私は昼食のために先を急ぐことばかりが頭にあり、彼女のアドバイスと協力はありがたく断り、歩き出した。男が一人、バイクを停めて近づき、彼女に協力しようとしたが、私はこれも手を振って断った。二人をその場に残してずんずん歩き、じきに表通りに出、地下鉄駅に到着した。
 妻は、あの二人はぜったい怪しい、という。あれは鳥の糞ではないし、人の姿も前後に彼女以外、見なかった……。しかし、と私は歯切れ悪く反論する。彼女は悪い人間には見えなかった。プロのスリにしては手際が悪すぎるし、そもそも我々に目をつけるなんてことはしないだろう。道路に面した建物の上階から誰かが液体を投げ捨てたのかもしれない……。自分の主張に分がないことは承知していたが、彼女たちが二人組のスリだと断定する気には、なぜかなれなかった。

 3時にグラシア通りのガリシア料理店で魚料理の昼食。
 一服した後、1ブロック隣の角にあるガウディのカサ・ミラを見物する。
「石切り場」という愛称のあるこの建物は、石材を用いて波のようにうねるファサードを創り出し、巨大な量感を見る者に与える。うねるような曲線は外部だけでなく、建物内部のいたるところに及び、内庭も曲がりくねっていればテラスや家具にも曲線が多用されている。
   
 
 屋上に上がると、煙突や換気ダクトが巧みに化粧を施され、仮面をつけガウンをまとった人物像のように見える。サグラダファミリアが遠くに見えた。

4月9日(金)晴  【バルセロナ】

 久しぶりの快晴。地下鉄をカタルーニャ駅で一度降り、銀行BBVAでTCを現金化してから(TC800ユーロに対し手数料24.04ユーロ)、再度地下鉄でスペイン広場へ行く。広場からまっすぐ南のモンジュイックの丘を目指して歩く。ほどなく丘の上のカタルーニャ美術館に到着。振り返るとバルセロナの街が、明るく陽を浴びて広がっていた。
   

 カタルーニャ美術館はロマネスク美術のコレクションで有名である。ピレネー山地に点在する中世の教会に埋もれていたキリストの木彫像やフレスコ画を剥がして集め、修復し展示している。
 テーマはイエスとその弟子や聖人像が多いが、皆ローマ風のトーガを着ている。木彫のイエスは痩せて手足が長く、アバラが浮いて見える。表情はまだ技術的に上手く出せないのか皆同じで、動きがなく静かである。ルネサンス以降の、表情豊かだがゴテゴテした印象の絵画に比べ、清楚で素朴なロマネスク美術は気持ちよかった。見物客がわれわれ以外に一人もいなかったこともふくめ、大いに満足する。

 カタルーニャ地方で活躍した画家を中心に集めた近現代絵画のコレクションも面白かった。なかでもラモン・カサスの絵がしゃれていて、印象に残った。彼は20世紀の初め、のちに青年ピカソも入り浸るようになるクアトロガッツを仲間とともにつくり、若い芸術家たちのたまり場としたことでも知られている。
 日本人の知っている西洋絵画の画家は、皆それこそ超一流どころだが、超一流以外はあまり知られていないし関心も持たれていない、というのが実情ではないか?マドリッドで見たホアキン・ソロージャやこのラモン・カサスのような、日本ではそれほど知名度のない一流の画家が無数におり、それがヨーロッパの絵画の歴史を形成し支えている。そうした事実にあらためて気づかされるのも、旅行の意味のひとつだろう。
   

 昼過ぎに美術館を出、モンジュイックの丘を南に歩く。ミロ美術館は素通りし、テレフェリックという名のゴンドラに乗り、上にのぼる。のぼるにつれ、バルセロナの街が眼下に見えてくる。終点のモンジュイック城で降り、城壁の上に立つと、目の前に海、他の3方が遠くの山で囲まれたバルセロナという都市が広がっていた。心地よい春の陽気に身体を伸ばし、飽きるまで景色を眺めた。
   

 帰りはゴンドラで下へ降り、さらにフニコラールに乗り継いで地下鉄パラ・レル駅に出た。地下鉄をリセウ駅で降り、レイアル広場近くの「ロス・カラコレス」で昼食。サルスエラ(魚介の煮込み)とカタツムリ料理を注文。カタツムリは日本で巻貝を食べる時のように、爪楊枝でほじくり出して食べる。食後、ホテルに戻りシエスタ。
   

 夜、ブレザーにネクタイを締めて、オペラとフラメンコのコラボレーションをランブラス通りの劇場に見にゆく。さすがにオペラ歌手の声量は豊かだったが、タブラオの小空間で味わった感動には、遠く及ばなかった。

4月10日(土)晴  【バルセロナ】

 朝、カサ・バトリョを見に、地下鉄をパセジ・ダ・グラシア(グラシア通り)駅で降りる。
 19世紀の末から20世紀の初めにかけて、バルセロナの産業資本家たちはグラシア通りに邸宅を造らせ、建築家たちがモデルニスモの腕を振るった。ガウディをはじめ、ユイス・ドメネク・イ・モンタネルやジュセッペ・プッチ・イ・カダファルクといった著名な建築家たちの造った邸宅が、百年後のいまも通りのあちこちに点在し、普通に使われている。
   

 地下鉄駅から出るとすぐに、ガウディのカサ・バトリョ※とプッチ・イ・カダファルクのカサ・アマリェが隣り合って建っているのが見える。同じブロックの数件先の角にはドメネク・イ・モンタネルのカサ・リェオ・モレラが建っている。(この一階にはロエベが店を構えている。)
 これらの建物はそれぞれ個性的であるが、街並みの中に違和感なく収まっており、突出することはない。それは現代的なファサードを持つ現代建築についても同様である。
 個性的な建築が違和感なく街並みに溶け込む理由のひとつは、グラシア通りの広さに帰することができるだろう。バルセロナの街は、旧市街のゴシック地区など一部を除けば、整然とした碁盤の目のような都市計画が行きわたっており、なかでもグラシア通りの幅は広い。中央に6車線が走り、その両側に広い緑地帯があり(地下鉄の出入り口もここにある)、さらにその外側に1車線、そして歩道がくる。これだけの幅があれば、どのような建築が建てられようと呑み込まれてしまって不思議はない。
 もうひとつ、街並みをつくる人びとの努力もあるだろう。中世都市の保存規制ほど厳しくはなくても、大都市においても建物に必要な規制を設け、建築家の方も制限の中で腕を競ったのであろう。

 カサ・バトリョは遊園地のように、色とりどりの光沢タイルや色ガラスをふんだんに使った建物である。曲線状にうねる外壁の上に、色瓦が魚のうろこのように光っている。建物内部の家具も扉も階段の手すりも、みな優美な曲線状に造形されている。
   
 屋上の煙突や換気ダクトもモザイク・タイルで化粧を施され、グエル公園の遊び場のような顔をつくっていた。

 そのあと、ドメネク・イ・モンタネルが建設したサン・パウ病院を見に、地下鉄を乗り継ぎ移動する。修復工事は行われているようだが、この病院も百年後の現在も使用されている。
   

 戻りの地下鉄をテトゥアン駅で降り、大通りをエスパーニャ広場の方向に歩く。途中、カサ・カルベットの前を通り、写真に収める。

 エスパーニャ広場に面したエル・コルテ・イングレスで、日本への土産品としてアンチョビのペーストの缶詰を十数個購入し、ホテルへ帰る。

 昨日行ったレストランで、今日もまた遅い昼食。カタツムリとウサギの煮込みを食べる。

 ランブラス通りを歩き、コロン広場でコロンの塔を見あげ、中央郵便局の建物に遠い内戦時代の弾痕を探し、ホテルに帰る。
   

【※Casa Batlloをガイドブックに従い「バトリョ」と書いたが、「バッジョ」と読むのかもしれない。カサ・アマリェは Casa Amatller。カタルーニャ語の人名の読み方はよくわからない。】

4月11日(日)晴【バルセロナ➞モンセラート➞バルセロナ】

 朝のTVが、FCバルセロナがレアル・マドリッドに2-0で勝ったと伝えている。
 旅行中一度はスタディアムでリーガ・エスパニョラのサッカーを観たかったのだが、うまく日程が合わなかった。昨夜の大一番もバルセロナのカンプ・ノウではなく、マドリッドのサンティアゴ・ベルナベウでの試合だ。

 朝食を済ませ、地下鉄でエスパーニャ広場に行く。ここでカタルーニャ鉄道R5線に乗り換えモンセラートに向かう。カタルーニャ鉄道R5線は15分ほど地下を走り、それから地上に出る。すでにバルセロナの郊外で、不揃いの畑やさびれた町工場の景色が窓外を過ぎていく。
 しばらくすると山塊が行く手左の窓の外に見えた。大きな岩山が連続して連なり、次第に近づいてくる。民家がふもとに張り付き、灌木であろう緑の帯が岩山の中腹を横に延び、その上は裸の岩の塊りが続いている。
   

 1時間少々でモニストロル・デ・モンセラート駅に着き下車、登山電車に乗り換える。登山電車は山腹を切り返しながら上に登る。下から見上げた魁偉な奇岩群が近づくにつれ、下界の村がはるか下に遠のいていく。雄大な眺めに、電車内に感嘆の声が漏れる。終点までの20分間の眺望は、まことに満足するものであった。

 登山電車が到着したのは修道院を中心に開けた山の上の町だった。教会堂があり、美術館があり、土産物屋やレストランがあり、多くの観光客が写真を撮ったり、ぞろぞろ歩きまわったりしている。教会堂の中も観光客でいっぱいだった。ミサが行われ、少年合唱団の歌声が流れていた。

 地元の農民たちが道路沿いに屋台を並べ、チーズや蜂蜜を売っていた。チーズをいくつか試食し、気に入ったブロックを一つ買った。
 この山の上の町よりさらに高い場所に行けるというので、登山電車駅の近くからケーブルカーに乗る。山の斜面を急角度で上に登り、じきにサン・ジュアンの展望台に着く。山の上の町が足元にあり、その向こうに下界の平野が眺められた。サボテンのようなくびれを持つ奇岩群がすぐ近くに見える。
   


 バルセロナに戻り、ホテル近くのバルで遅い昼食。ホテルに戻ってシエスタ。
 夕方、街を散歩。サン・ジャウマ広場を通ってランブラス通りへ出、カタルーニャ広場まで往復。カテドラルの中をのぞき、王の広場を通って帰る。


4月12日(月)曇【バルセロナ➞ロンドン➞成田】

 旅行の最後の日になって、大失敗のドタバタ劇を演じてしまった。
 早朝7時半にホテルへタクシーを呼び、前夜寝る前に「地球の歩き方」(09~10年版)を見て確認したとおり、BAの発着するターミナルBへ行くように指示する。交通渋滞もなく、車は快適に走った。二十数分でターミナルに無事到着。タクシーは乗り場から少し離れた路上に止まった。31ユーロの請求に50ユーロ札を出すと、お釣りがないという。
 いったいにスペイン人は小銭を喜び、お釣りを必要とするような札を出されることを喜ばない。それは分かっていたが、こちらの手元には10ユーロ札が2枚しかない。
 運転手は車の外に出、通りがかる仲間のタクシーを呼び止めては、50ユーロ札が崩れないかと聞くが、皆あたまを振って立ち去ってしまう。仕方がない、カードで払って欲しい、と運転手は言った。カードを渡し、レシートにサインをし、別にチップとしてコインを幾枚か手渡した。

 タクシーが去った後、妻が不意に、「どうしよう、カバンがない。」と言った。「あのタクシーの中よ、バタバタしてたから。」
 なるほど彼女は両手に何も持っていないし、周囲の路上にそれらしきものも見えない。「どんなカバンだ?何が入っていた?」と私はできるだけ平静を装いながら聞く。(……至急タクシーに連絡しなければ……タクシー会社はどこだ……乗り場に何台も止まっているが、彼らは無線で連絡をとってくれるだろうか?……カードで支払ったから、日本に帰ってから調べて連絡して……。)切れ切れの考えが頭の中をせわしなく駆け巡る。

 「あった!」と、また不意に妻が叫んだ。彼女はカバンを自分でしっかりと背中に背負い込んでいたのである。罵声を上げる時間も惜しみ、スーツケースを引っ張って空港の建物内に駆け込む。BAのカウンターを探すが見つからない。近くのカウンターの職員に尋ねても、首を傾げるばかりで要領を得ない。中には、別のターミナルではないかという者もいる。便名ごとに行き先、出発時間、ゲートを表示する表示板を見ても、BA機に関する情報はひとつもない。時間だけが過ぎていく。
 チケット予約をプリントした用紙を取り出して確認する。あろうことか、そこには出発はターミナル1からと書かれていた。どうやら前夜読んだ「地球の歩き方」情報は古く、その発行の後にターミナル1が開かれ、航空会社が移動したらしい。※
 タクシー乗り場に行き、先頭の運転手にターミナル1にやってくれというと、30ユーロの定額制だ、との返事。これがひとの弱みにつけ込む悪質運転手なのだろう。10ユーロでどうだ、と試しに言ってみると、軽く首を振って取り合わない。私はあとさきを考えず、断固断った。

 (ターミナル間の移動のバスがあるはずだ。)私はスーツケースを引きずりながら乗り場に横付けになっているバスに近づき、運転手にターミナル1に行くかと尋ねた。バルセロナのカタルーニャ広場行きだと運転手。その隣のバスも、またその隣のバスも、運転手はターミナル1と聞いて首を横に振った。
 少し離れた場所で乗客を降ろしているバスに駆け寄り、同じ質問をする。すると運転手は車体から顔を出し、いま降りた乗客の一人を呼び止めた。何事かを大声で叫び、そして、彼の後についていけと私に言った。
 50歳ぐらいで背広にノーネクタイ、穏やかな顔をした男は、自分について来いという。男は黙々と、ターミナルの建物の前を横切るように300メートルほど歩いた。構内の端のほうに停まっていたバスに乗り込み、振り返ってわれわれにも乗るよう手招きをした。私は運転手に、何度も繰り返してきた質問を再びぶつけ、うなずくのを見てようやく乗り込んだ。料金はいらないと運転手。バスはすぐに発車した。

 座席は半分ほど空いていたが、私は立ったまま片手にスーツケースの取っ手を握りしめ、じっと窓外を見つめた。バスは両側に雑草の生える真新しい道路を、かなりのスピードで走る。しかし5分経ち10分経っても、一向に停まろうとしない。ターミナルBとターミナル1の間には容易ならざる距離があることが、私にも分かった。あの悪質運転手の言い値も、並外れて高額ということではなかったかもしれない、と弱気になった私は考えた。
 (……それにしても、このバスに乗れたのは幸いだった……案内してもらわなければ、バス乗り場にたどり着くまでもっともっと時間がかかっただろう……スペイン人の親切は(じつ)があるな……それにしても、自分は不注意で無謀だった……オレはいい齢して、何をやっているのだか……。)私はうわごとのように頭の中でつぶやき続けた。
 13分後にバスはやっとターミナル1に到着し、私たちは男に礼を言って別れた。BAのカウンターは、今度はすぐに見つかった。

 大失敗はあったが、結局すべて無事に収まった。バルセロナ空港出発予定は9時20分だったから、7時半にホテルを出た時点ですでに時間の余裕は少なかった。アクシデントがいくつも重なり多くの時間を浪費したにもかかわらず、なんとか予定したフライトに搭乗できたことは、きわめて強運だったといわねばならない。
 終わりよければ全てよし。緊張から解放された身体にBA機の軽やかな振動が心地よく伝わり、私はすぐに眠りに落ちた。

 BA機は10時30分にロンドン・ヒースロー空港のターミナル3に到着。広大な空港の中を、30分以上かけてターミナル5に移動。13時40分発のBA機に乗り、翌朝9時成田に到着した。

※【ターミナル1は2009年6月に開業したそうで、新しい「地球の歩き方」(10~’11年版)には、BA航空の離発着はターミナル1から、と正しく書かれている。】


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