3月21日(日) 【東京➞ロンドン➞リスボン 
 

 
 成田空港で11時10分発のBA機に乗り込む。機内ではほとんど眠れず。「グラントリノ」と「ブリット」を観る。現地時間13時45分(日本時間22時45分)に、ヒースロー空港ターミナル5に到着。Flight Connectionsのサインにしたがい、空港内の地下鉄に乗りバスに乗りしてターミナル1に移動。TAP(ポルトガル航空)のカウンターで乗り継ぎ便の搭乗券を受け取る。

 ロンドンの気温は10度と飛行機内で表示されていたが、案外暖かい。待合フロアにはノースリーブや半袖の女性もおり、セーター姿はほとんど見かけない。
 隅の方にAmerican Expressの看板を見つける。黒人女性が1人窓口に坐り、客と話している。ためしに後ろに並び、トラベラーズチェック100ユーロの換金を依頼。ポンドに換えようとしたのであわてたが、無事に手数料なしにユーロ札を手に入れる。リスボンに着いた翌日最初に予定していた仕事がTCの換金だったので、これ幸いと更に500ユーロの換金を依頼。女性は、多額なので、と言い訳しつつどこかに確認の電話をし、これも無事現金化できた。

 TAPのフライトの出発は19時50分である。日本時間では明け方の4時50分であり、乗り込むまで寝られないのがいささか厳しい。本当はロンドンからリスボンまでもっと早い時間のBA機に乗る予定だったが、乗務員のストライキのため出発直前にTAPに変えたのである。

 ヒースローでは出発ゲートも出発直前まで表示されない。待合フロアで時間をつぶす。長椅子の並んだ各コーナーにサムスンと表示したポールが立っていて、コンセントが4つずつ用意されている。自分のPCのコードを差し込めば無料で使えるサービスで、利用者は入れ替わり立ち替わり現れる。この新しいターミナルビルにサムスンがスマートに食い込んでいることが、印象に残った。日本の電機メーカーの名前は見かけなかった。

 ポルトガル航空の飛行機は100人ほどで満席になった。ほとんどポルトガル人らしい。男女とも日本人と体の大きさはそれほど変わらず、ことに女性は小柄な人が多い。
 22時30分リスボン空港到着。入国審査を受け、荷物を無事受け取り、観光カウンターに行ってタクシーバウチャーを買う。21ユーロ。夜の遅い時間に女性職員2人のみという勤務体制が新鮮に見えた。バゲジフィーは入っているかと聞くと、全て込みだとの返事。女性がタクシーの運転手を呼び出し、われわれのホテル名を告げ、運転手が荷物を運んでくれる。

 乗り込んだ黒の大型ベンツは私のフィットに比べ、さすがに安定感があり走りは滑らかでしっかりしていた。運転手も中年の優男で明瞭な英語を話す。日本人の観光客は多いかと聞くと、若い女性の客、それもひとり旅や二人連れが多いという。15分ほどでホテル(Hotel Travel Park Lisboa)に着く。荷物を片付け、シャワーを浴び、12時に寝る。


3月22日(月)曇ときどき晴 【リスボン】
 

 2時過ぎに一度目覚め、次いで4時過ぎに目覚め、それからウトウトして7時半に起きる。8時に朝食。広々したホテルの食堂で、評判どおりの豊富なメニュー。
 9時半にホテルを出る。すぐそばの地下鉄アンジョス駅の自動販売機で、地下鉄・バス・市電に一日乗り放題のチケットを購入(3.70ユーロ)。3つ先のロシオ駅で下車。外にでると、フィゲイラ広場の一角だった。3月末の陽光は眩しいというほどではないが、空は青く、雲はなく、レンガ色の屋根を乗せた5階建てぐらいの建物が広場をグルッと取り巻いている。建物群のすぐ後ろの小高い丘の上に、緑の樹々と城壁が見えた。

 フィゲイラ広場はこのあと何度も来るだろうと考え、ひとまず後に回し、隣のロシオ広場へ移動。さらにフォス宮殿横からケーブルカー(グロリア線)に乗りサン・ペドロ・アルカンタラ展望台へ行く。ケーブルカーの運転手は女性、街を行く市電の運転手も女性である。昨夜の空港の観光案内所の職員も女性2名だったことを思い出す。
 
ロシオ広場
 

 七つの丘の都とうたわれるリスボンの丘のひとつから、街を眺める。教師らしいフランス人が引き連れた高校生の一団が一緒だった。
 そこから南に向って坂道を下り、サンロケ教会の前を通り、カモンイス広場へ。道々、タイル(ポルトガル語でアズレージョという)を壁面に貼った建物がいくつも見られた。さらに坂を下り、カイス・ド・ソドレ駅の脇に至り、海と見まがう巨大なテージョ川の川岸で一服。釣り人が幾人か釣り糸を垂れていた。斜め右手遠方に「4月25日橋」とクリスト・レイの像が見えた。
   
 アズレージョを貼った建物  

 市電15番でフィゲイラ広場まで戻り、胃に刺激を与え気合を入れようと、近くのインド料理店でカレーの昼食。食前酒にマデイラ酒を注文したが、ないという。
食後に近くの酒屋でMadeira酒を1本買う。女性店員にどう発音するのか聞くと、マにアクセントを置いて「マダイラ」だと言った。食糧を少し買い込んでホテルへ戻る。

 夕方、17時半にまたホテルを出る。まだ街は明るい。地下鉄をロシオ駅で降り、フィゲイラ広場から37番の小型のバスに乗る。バスは私たちが乗ると、待ちかねていたかのように発車。道は広場を出るとすぐに昇り勾配になり、カテドラルの前を過ぎると幅の狭い急坂となる。道行く人が家壁に張り付いて身を避ける急坂を、バスは右に左に折り返しながら一気に駆け上がる。バスの手摺にしがみつきながら、運転手の巧みなハンドル捌きを見るだけでも、乗ってみる価値はあるなと考えているうちにサン・ジョルジェ城に到着した。

 サン・ジョルジェ城は、正確に言えば「城」ではなく「城跡」である。丘の上に残る城壁のなかに松の林が茂り、申し訳程度に大砲がいくつか置かれている。南側を見下ろすと人家の向こうに広々としたテージョ川が開け、西側は眼下にリスボンのレンガ色の屋根の街並みが広がっている。フィゲイラ広場は意外に近い位置に見えた。夕暮れ時のせいか観光客も少なく、皆おとなしく夕日に沈む街を黙って眺めおろしていた。孔雀が数羽、ヨチヨチ歩きながら餌をついばんでいた。城跡のレストランに飼われているらしかった。



3月
23日(火)曇【リスボンシントラ・ロカ岬リスボン】

 
朝食の後、ホテルのレセプションの女性に明日と明後日の天気を聞くと、PCを叩いて、明日は雨のち曇、明後日も雨が降る模様、と気温も添えてすぐに答えてくれた。予定を変更し、今日は遠出することにきめる。

 昨日買った地下鉄1日券を試しに改札口のスロットに入れると、ドアはさっと開いた。1日券は正確に24時間使用可能を意味するようだ。

 鉄道のロシオ駅で、シントラやロカ岬に行く鉄道とバスが1日乗り放題というTravel Cardを購入(12ユーロ)。920分のシントラ行きの電車に乗り込むとすぐ発車した。電車はロシオ駅からひと駅は地下を走り、地表に出ると窓外は高層の集合住宅が続く。集合住宅は近年立てられたものらしく、周囲に空間を多少取っているが、スプレーによる落書きがそこここに見られ、豊かな落ち着いた感じはない。

 シントラ駅の3つほど手前からやっと緑の野原が現れた。40分ほどでシントラ駅到着。レンガ色の屋根と白い壁、豊かな緑に囲まれた小さな美しい町である。駅前で434番のバスに乗る。一緒にポルトガルの老人旅行会の一行二十数人が乗り込み、バスはすぐにギュウギュウ詰めになった。

細い急坂をかなりの速度でバスは登る。カーブを切るたびに車体は大きく揺れ、老人たちは大きな悲鳴をあげ、そしてどっと笑い声があがる。一人が冗談を飛ばすと他の一人が大声で応じ、また笑い声、そしてカーブと悲鳴。これを良い機会とばかり隣のバアさんを抱きしめているジイさんもいる。冗談、笑い声、悲鳴、そして笑い声。モーロの城壁はいつの間にか通り過ぎたらしく、バスが止まったのはペーナ宮殿の入口だった。

   

 ペーナ宮殿は岩山の上に岩を繰り抜き、大きな石を積み上げて建てた宮殿である。屋根や壁の一部に黄色や赤の原色が使われているため、日本の遊園地の城のような印象もあたえる。19世紀のロマンチシズムの風潮のなかでこの宮殿は建てられ、云々、とオーディオガイドは説明していたが、20世紀初頭まで王族はこの山の上で、一年のうちの何週間かを過ごしていたらしい。山の上のため大きな部屋は取れず、小部屋がいくつも窮屈そうに連なり、その中にベッドやテーブルなど家具や衣装が並べられている。小さいながら教会堂も設けられている。

   

 宮殿の屋上からの眺望はさすがにすばらしい。周囲を低い緑の山々が取り巻き、はるかその先に町が見える。斜め前方にはモーロの城壁が、この城より少し低い位置に見える。晴れればはるかに大西洋まで見渡せるというが、地平の果てはあいにく霞んでいた。

 

帰りのバス停には、たくさんの観光客が順番を作って待っていた。程なくバスが来たが、見るとかなりの混みようで、数人の観光客が乗り込むとバスは扉を閉め、発車した。さらに十数分待って次のバスにやっと乗れたが、モーロの城壁で途中下車する気もなくなり、シントラの駅近くに戻って昼食。 

 1410分発の403番のバスに乗り、ユーラシア大陸最西端であるロカ岬を目指す。40分ほどで白い灯台が立つ岬に到着。灯台の周囲は黄色い花と緑の肉厚の葉をもつ植物に覆われ、岬の先端は切り立った崖である。見下ろす目の下に、青い海が静かに広がっていた。岬の突端に10メートルほどの高さの石の碑が建っていて、16世紀ポルトガルの国民的詩人・カモンイスの詩の一節が記されている。「ここに大地おわり、海はじまる」。

   
 

中国人の観光客の一団が、この石碑の前で入れ替わり立ち替わり記念写真を取ってはしゃいでいた。3040歳台の男女の遠慮を知らない態度に軽く不快な感じを持つと同時に、なんとなく気押される気分でもあった。

 彼らは日本人の観光客と遠目には同じように見えても、近くで見るなら言葉を聞くまでもなく間違えることはない。日本人の団体が主に高齢者と新婚旅行客からなっているのに対し、彼らは3040歳台が中心である。高齢者はほとんどいない。

日本人がどこか遠慮がちに周囲の人々の行動態度に合わせようとしているのに対し、彼らは自分たちの日ごろの行動態度のままに振舞う。総じて自分の欲望に正直かつ精力的で、変な恥じらいや遠慮とは無縁である。

一時間ほど岬の風景を満喫し、観光案内所でロカ岬を訪れた「証明書」を記念に発行してもらい、カスカイス行きのバスに乗る。

シントラからロカ岬に来るときに乗ったバスもそうだったが、ほとんど停まることなく走り続ける。これは田舎道で信号がないせいでもあるが、道路が交差する十字路もいわゆるロータリー方式(roundabout方式)で、基本的に停まる必要がないようにつくられているからだ。信号は市街地に入ってからやっと見かけるようになる。20分ほどでカスカイスの駅に着いた。電車で終点のカイス・ド・ソドレ駅へ行き、地下鉄でホテルに戻った。

夕食は、フィゲイラ広場から遠くない大衆レストラン「バレアル」へ行く。スペイン語で「サルディーニャス・アサーダス(焼きいわし)」と注文すると、白い皿に黒く焼いた大ぶりのいわしが5匹、ゆでたジャガイモと人参を付け合せにして出てきた。中年のカマレロ君が、こうやって食べるのだと見本を見せてくれた。

まずナイフとフォークでいわしの頭と尾を切り落とす。それからいわしを背中から開いて骨を取り出し、閉じる。これで準備OK。いわしの身とハラワタを食べるのだ。日本流ではハラワタを抜いて焼き、頭と尾と骨を残して食べるわけだが、新鮮である限り魚のハラワタの苦味は悪いものではない。ポルトガル流のほうがずっと合理的だと感心した。いわしの塩焼きの素朴な味を堪能した。

 

3月24日(水)曇のち晴 【リスボン】 

 

雨は降っていなかった。

9時過ぎにホテルを出、アンジョス駅の自動販売機で一日乗り放題券をチャージしようと20ユーロ札を入れたが、機械が動かない。自販機には20ユーロ札の絵も掲げてある。首をひねっていると駅員らしい貧相な男が寄ってきて、20ユーロ札は使えない、と身振りでいう。それでは両替してくれというと、両替はしないとのたまう。ホテルに戻り、10ユーロ札に換えてもらって引き返す。

地下鉄をカイス・ド・ソドレで降り、15番の市電に乗り換え、ベレン地区に向う。市電が止まるたびに首を伸ばして駅名を確認するわれわれに、前の座席に坐ったおじさんが、ベレンへ行くならまだまだ大丈夫だ、と笑った。

   

ジェロニモス修道院は思っていた以上に横に広がる巨大な建物なので、一度離れて眺め、それから中に入る。いわゆるマヌエル様式の代表的な建築だというのだが、柱や梁が細身で、全体に華奢で繊細な印象を与える。その印象は、大航海時代の幕開けの時代に一瞬光芒を放ち、やがて沈んでいったポルトガルという国の歴史を思うとき、いっそう味わい深く感じられる。礼拝堂には航海者バスコ・ダ・ガマの棺と詩人カモンイスの棺が安置されていた。

中庭と回廊は観光客で混んでいたので後に回し、建物を出て河岸の「発見のモニュメント」に向って歩く。モニュメントは帆船を模した巨大な白い石造りの建造物で、エンリケ航海王子の像が舳先に立って前方を見つめ、その後ろにポルトガルの偉人や英雄たちの像が続く。1960年につくられたものだそうだ。エレベーターで屋上に上り、リスボン郊外の風景を楽しむ。曇り空の下、「リスボンの春」を記念して名づけられた「425日橋」と巨大なキリスト像・クリスト・レイがリスボンの方向に見え、北を見ると雲のあいだから青空がのぞいていた。

テージョ川沿いにベレンの塔へ行く。大航海時代に、船の出入りを監視する要塞として造られた六階建ての塔である。狭い螺旋階段を昇り、上のテラスから周囲を眺める。先ほどまで曇っていた空はすっかり晴れ、3月とはいえ日差しがきつい。

塔を出て、近くのカフェで一服。パステル・デ・ナタというカスター
ドクリームをパイ生地で包んで焼いたケーキを食べる。

    
 

市電でジェロニモス修道院へ戻り、緑の芝生の中庭とそれを囲む回廊の美をしばらく楽しむ。繊細な透かし彫りを誇る白い回廊の上に、雲ひとつない青空がのぞいている。

市電でさらに国立古美術館に寄るつもりだったが、駅を乗り過ごしてしまい、カイス・ド・ソドレの駅前にある市場の中のレストランで昼食をとる。

昼食後、コメルシオ広場に行く。工事中で中に入れなかったので、広場とは逆の方向へ通りを歩く。このあたりはポルトガルの過去の富が最も投下された一角なのだろう。金をかけた贅沢な建物が並んでいるように見えるが、現在活発に活動しているという臭いはしない。

   

28番の市電に乗り、高台のグラサ地区まで行き、そこからアルファマの方へぶらぶら歩いて降りる。あいにく空がまた曇り出し、レンガ色の屋根越しに見るテージョ川の景色を、春の日差しの下に楽しむことはできない。

アルファマはリスボンで最も古い町並みが残っている地区だという。たしかに道は細く曲がりくねり、起伏があり、複雑に分岐したり、行き止まりだったりする。路面は摩滅した石畳でデコボコしている。家々の壁と壁の間から時々テージョ川が現れては消える。

坂の途中で、市電が立ち往生していた。どうやら石畳からはがれた石がレールの隙間に入り込み、そこに市電が乗り上げ動かなくなったらしい。後ろの市電や車も止まっている。通りすがりの市民も交え何人もが集まり、レールに金棒を突っ込んだりしているが、はかばかしくない様子だった。だが深刻そうな顔をしている者はいない。

たいした事故ではないが、日本でなら早急な復旧やマスコミ対応で、関係者が必至で走り回るところだろう。
 要は社会の許容の度合いの問題なのだが、のんびりしたこちらの対応を見ていると、常に「完璧さ」や「誠実さ」が求められる最近の日本社会の空気の方が、どこか小児病的で不自然だという気になる。

 

夜、ホテルで食事をしてからリスボンの夜の街に出かける。だいぶ地理もつかめてきたのでフィゲイラ広場から歩いて坂道をのぼり、大聖堂の横をアルファマ地区の方へ行く。まだそれほどの時間でもないのに、街が全体に暗い。

ファドのライブをやっている店があったので覗くと、予約が必要だという。近くのもう一軒の店は、予約は不要で今すぐ入れるが、食事付きだという。少し高級そうな最初の店に戻り、翌日の夜のテーブルを予約する。

 

325日(木)曇  【リスボン】

 

地面がぬれている。9時過ぎにホテルを出る。地下鉄でカイス・ド・ソドレに行き、そこから市電で3駅、カイス・デ・ローチャで下車。国立古美術館は丘の上にある。開館の10時まで15分ほど待ち、中に入る。階段を上った最初の部屋に狩野派の6連の南蛮屏風が二組並べられてあった。

14世紀から19世紀へいたる絵画を順に見て歩く。14世紀の宗教画の人物像と15世紀の肖像画の間の技術的進歩に驚く。お目当てのヒエロニムス・ボッシュ「聖アントニオの誘惑」を見つけ、眺めていると、教師らしい女性が一団の学生を連れて現れ、絵の前で講義を始めた。

12時過ぎにカイス・ド・ソドレに戻る。地図を見ながらケーブルカー(ビッカ線)の乗り口を探すがなかなか分からない。やっと見つけたそれは、通りに面した建物の1階にあり、看板をのぞけば普通の建物と見分けがつかないような施設だった。買い物籠を下げたおばさんが、駅員となにやら話していた。川沿いの低地と高台地区(バイロアルト)を結ぶこのケーブルカーは、何よりも地域の庶民の生活の足であるらしい。

   

バイロアルトへのぼり、「トリンダーデ」で昼食。通りに面した入口はなんということのない平凡なものだが、その奥行きの深さ、広さに驚く。

バイシャシアードへ出ようと歩いていると、思いがけずサンタ・ジュスタのエレベーターの上の出口に出る。地形的には丁度崖の上がバイロアルト、崖の下がバイシャシアードで、崖のふちに位置するエレベーターが両者を結び、270度のパノラマが楽しめる。すでにサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台やサン・ジョルジェ城からの絶景を満喫していたので、このエレベーターは予定に入れてなかったのだが、繁華街の真っ只中の展望台はまた格別である。足元はるか下にそぞろに歩く人々が眺められ、レンガ色の屋根屋根の向こうにサン・ジョルジェ城やテージョ川が見える。

   

地下鉄でポンパル公爵駅に行き、リスボンのビジネス街の様子を眺め、また地下鉄で二駅戻り、ロシオ駅で外に出ると雨が降っていた。二駅移動する間に青空が消え、大粒の雨降りに変わっていたのでびっくりする。広場にはビニール袋に傘を十数本詰めて引きずりながら、声を張り上げている傘売りの姿もあり、リスボンの春に驟雨はつきものらしい。商店の軒先に立ってものの5分もしないうちに、雨は小降りになり、じきに上がった。

 

ホテルで一眠りし、夜8時半過ぎにファドハウス「クルベ・デ・ファド」へ行く。昨日予約したときの感じのよい若い女性が、笑顔で迎えてくれた。

食事を終え、客席もあらかた埋まった10時近くなって、歌が始まった。ギタリスト二人とベース奏者の間に歌い手が立ち、声を張り上げる。歌い手の女性は何人か替わった。ファドは哀調を帯びた旋律で、日本人の耳に心地よいという話を聞いていたが、さほど物悲しい感じでもなかった。

11時にステージが終わり、フィゲイラ広場に戻る。開いている店はほとんどなく、森閑としている。スペイン人とは大いに異なり、ポルトガル人は夜が早いらしい。

 


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