3月26日(金)【リスボン➞マドリッド 

 5時半に目覚め、6時15分起床。7時にフロントでチェックアウトを済ませ、7時40分にタクシーを呼ぶよう依頼してから朝食。
 ホテルから空港までものの15分とかからず、料金も約8ユーロ。チップを含め10ユーロを渡す。

 空港は込んでいた。ひときわ念入りに持ち物検査やボディチェックが行われているせいで、長い列が出来ている。Bueling Airlinesのカウンターへ行って、インターネットで予約した際にプリントしたチケットを示し、チェックインしたいと申し出ると、すぐに手続きは終わった。いわゆるLCC(Low Cost Career)を利用するのはこれが初めてであり、多少心配もあったが、ここまでは何の問題もない。

 8時40分に出発ゲート前に行くが、搭乗する飛行機は見えない。9時にそのゲート前に機体が止まり、乗客が降りてきた。9時20分に最後の乗客が降りるとすぐに搭乗開始。教師に引率された小学生の一団がまず乗り込む。彼らが乗るぐらいだからLCCも十分社会的に定着しているのだろうと考え、妙に安心する。
 掃除の時間もほとんどなかったはずだが、機内はきれいに片付いていた。グレイを基調に淡い朱、緑、黄で構成されたデザインがしゃれている。結局LCCは、チケットの販売や航空機の運用を極めて効率的に行い、機内サービスなども絞り込むことでコストを下げているのだろう。9時50分、離陸。マドリッドに予定通り1時間10分後に到着。

 マドリッドのバラハス空港は巨大で現代的な施設だった。入国審査はなく、システマティックに作られている建物内サインに従って歩けば、自然に外に出られる仕組みになっている。
American ExpressのカウンターでTC500ユーロを現金化。手数料は7.5ユーロだった。
 メトロブスを自販機で買い、市内のバス・ターミナル
Avenida de Americaまで204番のバスで移動。そこからタクシーでホテルへ向かう。マドリッドの街はリスボンに比べ、はるかに人、車が多く、街全体に活気があった。ホテル(Hotel Intur Palacio San Martin)に2時に到着。

 ホテルの部屋で一服後、外に出て、方向も分からぬまま、まずは歩き出す。広場に出たところで表示を探す。Callao広場。広場のインフォーメーションで地図をもらい、グランビアをだらだら下る。途中のレストランで昼食。スペイン風にトルティージャと魚の燻製のタパス、クロケットを注文。量が多い。
 後ろのテーブルに坐った男がカマレロをつかまえて、英語のメニューを持って来いと大きな声で言う。メニューを手渡されると、英語をしゃべれる人間をよこせ、とのたまう。カマレロ君、通りがかった若い男になにごとか言う。若い男はカマレロのユニフォームを着ていなかったから非番の仲間か、ただの知り合いだったのだろう。彼は客の男に近づき、うなづいた。
客「Do you speak English?」
若い男「Oh,yes. One,two,three,four,five……」
 大声でそう答えた後どうなったのか、残念ながら後ろのテーブルを振り返るような無作法をしなかったので分からない。客の声がしなくなったから、私が笑いをこらえているうちに憤然と立ち去ったのかもしれない。


 遅い昼食の後スペイン広場に出、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像に敬意を表し、写真を撮る。広場の横手の建物を覗き、テナントのひとつに「カタロニア文化センター」の表示があることを確認したのち、王宮の見学。カンポ・デル・モーロという名の「庭」の広大さに、感銘を受ける。

 そのあとサンミゲル市場でハムを買い、マヨール広場を通り、さらにパンとワインを買いホテルに帰る。
   

 部屋で夕食をとり、8時半過ぎにひとりで外出。スペイン広場に面したカタロニア文化センターの入っている建物に行く。薄暗い階段を二階に上がるとレストランがあり、碁石を打つ音がどこからか聞こえてきた。カマレロにNam-ban Clubはどこかと聞くと、横手の会議室を教えてくれた。
 ドアを開け放した会議室では十数人が碁盤に向っていた。立って観ている一人に、東京から来た旅行者だが、自分も観戦してよいか、と聞いて部屋に入る。碁盤は五面。静かな中に、石の音だけが時々響く。隅のほうでは若い東洋人らしい女性が2面打ちをしている。全体に若い人が多い。

 しばらくすると指導者らしい日本人が部屋に来た。M氏らしい。挨拶し、インターネットのサイトでここを知り、のぞかせてもらった、と自己紹介する。Mさんは、どのくらいで打ちますか?と聞く。そこが問題なのだ。ヨーロッパの段位は日本のものより2~3段辛いと聞いている。どの程度で申告するべきか?
 Mさんは側にいた日本人の若者を私に紹介し、こちらに留学中のH君です、彼は日本のJ大学で囲碁部の主将をしていたが、こちらでは三段で打っています、といった。私は迷いながらも、初段ぐらいで打ってみたい、と答えた。
 Mさんの話では、メンバーの多くが今ルーマニアで開かれている囲碁大会に出かけているが、月曜日には帰ってくる予定だという。若い人が多いですね、日本では年寄りばかりですよ、と辺りを見回しながら言うと、たいていの人は口コミで始める、チェスに飽き足らなくなって始める人も多い、とのこと。月曜日にまた来る約束をして、今日は帰る。

 ホテルの近くの本屋に立ち寄る。日本文学コーナーがあり、ムラカミハルキ、ムラカミリュウ、オオエケンザブロウ、オガワヨウコ、ミシマユキオ、ナツメソウセキなどが並ぶ。ムラサキシキブやセイショウナゴンもあった。

3月27日(土)曇 【マドリッド】

 朝、地下鉄をバンコ・デ・エスパーニャで降り、しばらくスペイン銀行に沿って緑地帯の広いプラド通りを歩く。途中、人の列を見かけたが、ティッセン・ボルネミッサ美術館への入場者の列らしい。プラド美術館の前にも人だかりがあった。
 プラド美術館は丁寧にまんべんなく見て歩くには広すぎるし、人出も多すぎる。プラドの目玉というべきゴヤとベラスケスはゆっくり堪能すること、ボッシュとブリューゲルは見逃さないこと、あとは気が向けば見るぐらいにして欲張らないこと、を「戦術」として決める。多くのものを割愛しなければならない。

 ベラスケスの「フェリペ4世騎馬像」、「ブレダの開城」、「ラス・メニーナス」、「マルガリータ王女の肖像」など、画集で見知っている有名な絵に巡り合うことは、やはり嬉しい。王や王女の肖像画を描いた彼が、他方、矮人や下積みの庶民の姿を何枚も絵に残しているのを見ると、ただの宮廷画家ではなく、自分の絵の理想を求め続けた絵描きだったことがわかる。

 ゴヤの「カルロス4世一家の肖像」、「1808年5月3日」(フランス軍によるスペイン民衆の虐殺)、「巨人」(ゴヤの弟子が描いたものと最近確定したらしい)なども、やはり見知っているがゆえに、じかに見るのは楽しい。
ゴヤ晩年の「わが子を食うサトゥルヌス」、「決闘」、「砂に埋もれた犬」、「スープをすする老人」など、いわゆる「黒い絵」の連作はなんとも不思議な、作者の心理を想像するのが楽しい絵だった。

 ヒエロニムス・ボッシュの「悦楽の園」、ブリューゲルの「死の勝利」も見ごたえがあり、満足する。
 しかし同じフランドル出身でブリューゲルの半世紀ほど後に活躍したルーベンスの絵は、それと意識してたくさんの作品を見るのは初めてだが、私の好みにまるで合わなかった。衣服や髪を風になびかせ、木の枝が風に揺れる、動きのあるバロック絵画の筆遣いが少しも面白くないし、豊満な裸婦も魅力がない。

   

 三時間ほどして美術館を出る。近くのレティロ公園の中を通り、アトーチャ駅まで歩く。駅舎はまだ新しく、レンガ造りの低層建築のような概観だったが、道路から中に入るとそこは吹き抜けの大空間の3階部分。中央に棕櫚や椰子の木などの熱帯植物の巨大な植え込みと池が置かれ、池には無数のカメが棲息している。大空間の中に切符販売窓口やレストランなどが配置され、反対側にプラットフォームが並んでいる。

 総じてヨーロッパの人々は古い建物を巧みに修復して活用すると同時に、斬新なデザインの建築を建て、環境に調和させるのが上手だ。周囲の環境のほうも、新しいデザインの建物を違和感なく呑み込むだけの「強さ」を持っているというのも事実だが。
 明後日に予定のトレド行きの切符を買い、駅舎内のレストランで昼食。地下鉄でホテルに帰り、シエスタ。

 夕方、ソフィア王妃芸術センターへ行く。古い建物の外部に透明なエレベーターを接続した修復の斬新さに感心する。土曜日はいつも入場無料だという。そのためか見物人が多く、もったいないと思いながらもピカソのゲルニカなどを駆け足で見て回る。


3月28日(日)晴  【マドリッド】

 スペインでは一般に、日曜日は商店は閉まり、美術館は開いている。(月曜日はその逆で、商店は店を開け、美術館は休みのところが多い。)
 朝食を部屋で済ませ、10時に地下鉄でソロージャ美術館へ行く。ホアキン・ソロージャは日本ではあまり名を知られていないが、こちらではその印象派風の明るい絵は人気がある。
 グレゴリオ・マテニョン駅で降り、街の人に道を聞きながら10分ほど歩く。広い通りに面し、レンガの塀に囲まれた三階建のソロージャの住まいとアトリエが、そのまま美術館になっている。入口でチケットを求めようとすると、今日は入場無料だといわれた。

 ホアキン・ソロージャは1863年の生れ、没年は1923年である。農民や漁師、売春婦など、社会派的なテーマの絵もあるが、妻や3人の子供たちの家族を描いた作品が多い。とくに細君・クロチルデを何枚も美しく描いている。幸せな家庭生活だったに違いない。
 ソロージャはまた、風景画や風景の中の人々をスケッチ風に描いた画を多数描いている。海辺の波や陽光のきらめき、水に濡れた子供の肌を照らす日の光など、明るい自由な色彩が画面に満ちている。

 帰りは、降りた駅とは別の、ルベン・ダリオから地下鉄に乗る。ラ・ラティーナで降り、外に出ると、日曜日恒例の「のみの市」で大変な混雑だった。人ごみを縫いながら屋台を見て回るが、たいしたものも売っていない。人の多さに辟易し、早々に離れることにしてサン・イシドロ教会の脇を通り、マヨール広場の方へ歩く。
 小さな広場があり、絵描きが数人、それぞれ自分の絵を並べて売っていた。客の人影も少なく、人ごみを逃れてきた身には静かな空気が心地よい。
 一番端にテントを構えている男の絵に惹かれた。アフリカの砂漠を背景にした黒人像を幾枚も並べているが、単純化された構図と色彩から、静かな祈りのようなものが伝わってくる。朱色の地にこげ茶色の人物が腰を下ろしている水彩画を、スーツケースに折らずに入るだろうと計算しつつ、購入する。

 ボティンで昼食。開店時間の13時を15分ほど回ったところだったが、店内は満席で食事をしている客も多かった。カマレロが始終背後を通る落ち着かないテーブルがかろうじて空いていたので、そこに坐る。名物の子豚の丸焼きを食べるが、期待していたような脂の美味みはなく、全体に乾いた感じだった。
 マヨール広場を通り、大道芸人の芸を楽しんで、ホテルに帰る。
   


3月29日(月)曇 【マドリッド➞トレド➞マドリッド】 

 朝起きてTVをつけ、われわれの時計が1時間遅れていることに気づく。手持ちの時計2個が丁度1時間遅れているところを見ると、夏時間に切り替わったらしい。TVでは夏時間のことなど、何も言っていないが、とにかく適応しなければならない。あわただしく朝食を部屋でとり、アトーチャ駅へ急ぐ。アトーチャ駅9時20分発のアヴァント(高速列車)でトレドへ小旅行。

 列車は駅を出るとじきに市街地を抜け、メセタの曠野を行く。ふと、昨日の昼、開店直後のはずのボティンが満席だったことが思い出され、ひょっとすると昨日から夏時間に切り替わっていたのかもしれない、と考える。9時50分にトレド駅着。
 

 トレドは古い都である。8世紀の初めにイスラムの王朝が都として以来、16世紀の半ばにマドリッドが首都とされるまで、スペインの重要な都であった。タホ河に3方を囲まれ、さらに城壁に囲まれたトレドの街へ、駅から徒歩で行く。20分ほどで石造りのアルカンタラ橋に到着。城門をくぐり、坂道を昇ってソコドベール広場に出る。近くのアルカサル(軍事博物館)は残念ながら改装工事で閉鎖中だった。

 昼に乗る予定のバスの時間を調べてから、ぶらぶら歩き出す。起伏のある台地に細い小路が不規則に伸びている。坂の途中から階段が現れたり、小路を囲む家々の壁がときどきとぎれ、はるか遠くの景色が望まれたりする。
   

 カテドラルを見学。エル・グレコの特徴のある絵が十数点、側廊に沿って掲げられていた。ゴヤのものも1点あった。
   

 1時過ぎのバスでパラドールへ向う。バスは街を出、タホ河に沿って坂道を登る。パラドールの近くに来たら教えてくれ、と頼んでおいた運転手の合図でバスを降りる。少し歩くと目の前に対岸のトレドの街の全景が大きく広がり、思わず声にならない声が出た。



 パラドールは、街の対岸の崖の端に建てられた貴族の館を改装したものらしい。入口側は低層の素朴な瓦屋根の建物に過ぎない。しかし中に入り奥の食堂に通されると、そこには先に見たトレドの街の全景が窓の外に広がっていた。
 ウズラの赤ワイン煮込みを食べる。食後、テラスに出て写真を撮る。
 帰りはタクシーでバス・ターミナルへ行き、マドリッド行きのバスに乗る。ワインの酔いも手伝ってひと寝入りしている間に、マドリッドのエリプティカ・バス・ターミナルに到着。地下鉄でホテルに帰る。

 夜、軽い夕食をホテルの部屋でとった後、8時にひとりで外に出る。先日立ち寄った近くの本屋でホアキン・ソロージャの画集を買う。「奥の細道」のスペイン語訳がオクタビオ・パスと日本人の外交官の共訳であると聞いていたので、店員に聞いてみる。Sendas de Okuと言うと店員はPCに打ち込み、いま店にはないと答えた。

 スペイン広場近くの建物の2階で今夜も開かれているNam-Ban Clubに顔を出す。金曜日と同じように何組かの人々が碁盤に向っていた。スペイン留学中のH君に2目置いて打つことにする。やがてMさんも顔を出し、われわれの中盤戦をしばらく見ていた後、ヨセに入ったところで、この碁はもうH君の勝ちだから、初めから並べ直すようにと言った。
 私とH君は並べなおす。20手目ほどのところでMさんはこの手はどうかな?という。H君が迷い、おとなしい無難な手を選んだところだったが、ここは当然強く出るべきだ、という指摘。60手ほど進み、本格的な攻防が行われた上辺で、私のまずい手が指摘された。たしかにそれ以降、私は根拠のない石を抱えて動きが不自由になり、散々に地を侵食されたのだが、どう打てばよいのか判らなかったのだ。ここはこう打つべきだ、とMさんは石を置いてみせる。これが通常の指導法らしい。
 次にもうひとり、スペイン人の学生・A君と対戦。今度は互い戦で打つ。序盤は圧倒していたが中盤から怪しくなってきたところでストップがかかった。もう時間だから、みんなで夕飯を食いに行こうという話だった。11時近かった。私もお供することにする。
   
 

 道々、Mさんに「夏時間」のことを聞くと、3月の最後の日曜日から夏時間になる決まりだ、スペイン人の常識だから何の騒ぎもなく切り替わる、とのこと。やはり日曜日の一日、われわれは夏時間に切り替わったのを知らずに過ごしていたのだ。
 十数人で中華料理屋に入る。スペインの病院で働いている医師だという若い日本人女性がおり、ルーマニアでの囲碁大会に行き、戻ってきた足でクラブに顔を出したという。彼女に、病院でもシエスタを取るのかと質問すると、昔のようなシエスタは農村部にでも行かないと見られないだろう、という。病院の勤務時間はふつう9時から6時までだが、もっと早朝から働いて3時ごろに勤務終了、それから昼食をとる者もいる。あなたはどういう勤務シフトなの?というのが、こちらで挨拶代わりによく交わされる会話だ、とのことだった。
 Mさんにどこで囲碁の修行をしたのかと聞くと、11歳のころ院生の真似事をしていた、そのときが人生で一番強かった、と笑った。
 12時近くになり、私は先に帰ることにした。
「ミムヘル メ エスペラ アロテル。テンゴケ イルメ ジャ。アディオス。 (妻がホテルで待っているので、もう帰らなければなりません。さようなら。)」
皆、笑顔で手を振ってくれた。


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